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\鳥取大学一般公開講座/ 民藝という美学 (1日目)

9月15日 (1日目)

民藝の概要や史実を教えていただきました。
柳宗悦さんの著書の中で、注目すべきもの数冊に書かれてあることを講師の方がわかりやすくまとめて下さったという感じでした。ただ、簡潔にまとめられたものを受け取るだけでは、学びとは少し違うような気もします。自分で原本を読み、柳さんの文脈を感じながら、もう少し深く思索したいです。所々生まれてくる疑問を自分なりに紐解いてゆければ、と思います。
民藝界隈で有名な焼き物の作家さんたちについて、「正しくは、民藝作家ではなく民藝派の作家だ」ということに、私はすごく納得しました。そこを踏まえ、民藝を観ることや語ることが私はすごく大事な気がします。民藝派の作家は、彼らが持つ美の思想の「表現」として焼きものを作ることを選んだ、という説明でした。作家は、その土地に生まれ、自然とものづくりを行う民とは性質が異なります。

この日、私が思ったこと(疑念、と言った方が正しいかもしれません)は、柳宗悦自身が美を感じた民器や民具と、氏が民藝と名づけた後の民器や民具は、柳さんが初めに感じた美しさと性質を異にするということになってしまったのではないか、という事です。柳さんの説く美学に異論など全くなく、むしろ、共鳴することばかりなのです。が、民藝運動というものについて、何か私のなかで釈然としないものが漂っています。
「民藝」という名を与えられた事によって、焼き物やうつわが持っていた自由が、作り手や使い手が持っていた自由が、失われてしまったような気がします。
柳さん自身、「民藝」という言葉に囚われてはいけないと、晩年『改めて民藝について』で書いておられます。それまで「下手物」と呼ばれていたうつわたちの印象を一掃するために「民藝」という言葉を使ったが、それとて誤解を受けてしまう事において、五十歩百歩であったといいます。
この文章を、民藝に携わる方々がどのように位置付けておられるのか、私は知りません。が、柳さんはこの文に書いてあるようなことをはっきり言っておきたかっただろうと察します。
(リンクを貼っておきます。民藝以外にも通じる文章かと思いますので、ご興味のある方は是非ご一読ください。)


言葉を使うことは本当に難しく、いつも不完全で困ったものだと、私のようなものでさえ苦労しているのですから、深く考えている人たちの言葉を選び、紡ぐ作業には頭が下がる思いがします。

手作りのうつわや、やきものには心惹かれるものがあります。そういうものに心惹かれた一人として柳宗悦という大人物がいます。心惹かれた一人という点において、柳さんと私の立場の違いを、私はあまり感じていません。

そして、柳さんが体系立ててくれた民藝論(という名の人生の美学)に屢々共鳴し、時々疑問を抱くのです。

「もの」であるうつわや焼きもの(またはその物が持つ性質や歴史)を言葉でしか表せないために生まれる疑問なのでしょうか。

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