本を読むこと
読書は、誰かの話を聞いたり、喋ったりするときと違い、自分で気ままに進められる。が、ひとくちに一人で読み進めているといえないのはそこに著者の存在が泰然と感じられるからで、編まれた文に行き渡る著者の息遣いに、私は知らず知らず呼吸を合わせ、著者の思いを受け止めながら、すでに自分でも何かしら思い始めている。どうしても呼吸が合わない著者もいれば、どれを読んでも必ず呼吸が合うという著者もいて、同じ言葉が、どこに置かれているか、誰が言うかで異なる響きを持つことに気が付く。
私にとって、本を読むということは、著者と膝を突き合わせて対話することにほかならない。今まで全く気がつかなかったことや、なんとなく思っていたけれどぼんやりしていた様なことがさっぱり表現されていると、なるほど、とつい頷いてしまったり、反対に違和感を感じたときにはページを捲る手を止めて一寸考えてみたりする。それは会話ほど、とんとんと進むわけではないけれど、確かに書き手と読み手が考えを交える、対話なのだと思う。
そうして、著者の鋭い考察や生き方、紡がれた物語に感動しているうち、自分も何か書きたくなったり、動きたくなったり、活動せずにはいられなくなる。それは、春を知らせる雪解け水の凜とした冷たさに、草木や生き物がいっせいに目を覚まし、みるみる生命の力を漲らせて芽ぐんでゆく、そんな清々しさに似ている。
種々の芽ぐみは嬉しい。そして、その芽が成長すること。それこそが読書からうまれる、私の一番の楽しみだ。
本を読んだときの発見や感動が消化されて養分となり、体の隅々にまで行き渡るとき、より伸びやかに、生きたいままに生きられるような気持ちになる。
今日も、対話に付き合ってくれた著者に感謝して、私は本を棚に戻す。対話を終えた後の本には、心なしか読む前よりも密度の濃い、満ち足りた気配が漂っている様に見える。
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