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古代のまとめ

古代史の素人ながら、これまで調べたこと、特に弥生時代について、中国大陸、韓半島とともに年表にしてまとめてみました。

韓半島については、まだ調べ切れていないので、189-236年の公孫氏についてだけ記載しています。

年表

弥生時代中期から弥生時代後期にかけて-100~+100年)、「寒冷・湿潤化」が進行していたようです。このとき、低地から高地への集落の移動が九州から近畿地方にかけて見られたようです。高地集落化は、主に雨(梅雨)などの湿潤化が原因だと考えられていますが、それだけが原因ではなかったように思われます。

-1/+1年あたりに、大規模な「南海トラフ地震」が発生していたようなので、このことも考慮にいれる必要があると思います。

また、弥生中期おいて、北部九州地方では、甕棺墓や特徴的な土器(遠賀川流域の「須久式土器」(丹塗りの赤色土器))が見られ、独自の文化が展開されていたようです。韓半島との関係も示唆されているようです。

それが、弥生後期(前葉)に入ると、土器に共通性が見られるようになり(相対的に無文化、粗雑化)、機種構成も単純化が進むようです。
特に、吉備の土器の影響が遠賀川の東側にまで見られ、近畿地方(大和)にも吉備の土器の影響が見られるようになります。つまり、この時期、吉備の影響が西にも東にも拡大するようです。

そして、弥生後期(後葉)に入ると、これまでとは逆に、土器に共通性が見られなくなり、地域性が顕著になってきます(例えば、吉備の特殊器台など)。

まさしく、この頃(弥生後期後葉)、倭国乱(178-184年)が発生します。
それと、ほぼ同時期に韓半島では公孫氏(189-236年)が台頭してきます。

おそらくは、倭国王帥升の時代(107年頃)には、漢のバックアップによって倭国を統治できていたのが、公孫氏のの台頭(または倭国王帥升の死)によって漢のバックアップを得ることができなくなったため、倭国乱が発生したと考えることができます。

その理由として、公孫氏の滅亡後(236年)、卑弥呼の登場(239年の魏への朝貢)によって、倭国乱が治まったと考えられるからです。

また、倭国乱は、上記のように寒冷・湿潤化や南海トラフ地震が原因であったかもしれません。なお、九州では、1~200年頃まで、阿蘇山などの火山が噴火しており、このような気象状況の変化が倭国乱の原因であったとも考えることができます。

さらに、卑弥呼の死後、北部九州では、九重山の大噴火(VEI=5)などもあり(300~400年の間)、倭国は、再び不安定な状態になったものと考えられます(魏志倭人伝の記載から、卑弥呼は北部九州に居たものと考えています)。

ここからは、個人の妄想ですが(これまでも個人の妄想ですが…)、卑弥呼の後を継いだ壹與(とよ?)は、当時、影響力を強めつつある吉備国に合流し、さらに大和に移動したと考えてはどうでしょうか?

一般的には、邪馬台国東遷とか言われていますが、邪馬台国全体が遷都したわけではなく、あくまで、その一部が移動/移住?したものと考えています。

また、壹與(とよ?)は、伊都国の水軍と合流して吉備に移動していてもおかしくはないと考えています。

結局、何が言いたいかというと、壹與(とよ?)と伊都国の合流は、古事記に記載の神武東征のことであり、岡田や吉備での滞在もある程度は説明できると考えています。ただし、神武天皇が日向から出発したことについては、議論の余地があるし、神武天皇は誰だったのか?という疑問も残ります。おそらくは、伊都国王の王位継承者であったり、ニニギの命またはその子孫であった可能性があると思います(伊都国の長官の名前はニギであることから、ニニギの命は、伊都国王の可能性があります)。

つまり、300年~400年の間に古事記に記載の神武東征という出来事があり、その後、古墳時代に突入し、さらに宋書に記載の倭の五王(421~478年)の時代に突入していくのでしょう。

このように、宋書の倭の五王の記載もある程度は事実に基づいているようですので、宋書の記載(倭の五王)と古事記・日本書紀の記載との整合性については、改めて考えてみたいと思います。

こうしてみると、倭国は、帥升、卑弥呼、倭の五王、いずれも、中国の王朝から倭国王を命じられた「冊封体制下」のもとでの王であったことがよくわかります。

それが、その後に続く奈良・飛鳥時代において、天皇制のもと、「冊封体制」からの脱却を目指すという、非常にダイナミックな時代へと突入していくことになったのでしょうね。





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