スイス生活1年目を経た頭の中。
今日久しぶりに仕事終わりに街に出た。
街の広場に向かい、遠くにある雪山を眺めながら本を読む。
日照時間が日を経つごとにどんどん伸びていく。
気温が少しずつ春に近づいていく。
初めて出会ったあの頃のスイスと再会しようとしている。
僕がスイスに来てから、1年が経った。
時の巡りはとても無情で、季節という鏡は1年前とほとんど変わらない自分の姿を映し出している。
この1年で得たものは沢山あるけれど、成長したかと聞かれればなんとも言えないところだ。
もっとも、人や時間の価値は成長するか否かで測られるものではなく、別に成長しなくても良いのだと気付けた点は大きな変化のひとつだと思う。
この1年間で一番大きな変化は、レールを外れることへの抵抗感がよりなくなったことだ。
大学を2年間休学する、さらに言えば、大学の途中で一旦フルタイム、しかも社会人のみの環境で働くというのは、一般的に見れば同世代とは少し価値観を異にするものだと思う。
実際自分もそう思うのだけれど、それは別にマイナスなことではない。
自分には自分なりの時間の過ごし方があるのであって、それが他者と似ているか否かは重要なことではない。
犬にとっての1年と大木にとっての1年は少し違う。
1年中緑を纏う木々もあれば、冬に葉を落とす木々もある。
熊が冬眠をするからと言って、別に彼らが冬の時間を無駄にしているわけではない。
そういうことだ。
目先のことに囚われて、自己肯定感を損なう必要はない。
そもそも、自分にとっての価値が他人にとっての価値である必要も必ずしもない。
ただ残念なことに、世の中には社会人として成し遂げた経験でしか人の厚みを測れない人や、所属や年収ばかりを気にする人たちもいる。
数値でしか自分の価値を測れない人は貧しいものだと思ってしまう。
自分を資本主義の論理に落とし込む必要なんてなくて、表層に現れない内面を重視すればいいのだ。
客観性だけがすべてなのではなくて、自分の中にある主観的な何かを、ただ愛でるだけでもいいのだ。
競争や比較ばかりの社会から少し距離を置いた時、そこにはなんだか一息つけた自分がいた。
仕事は楽しいことばかりではないし、組織の構造が理解できない点も多々ある。
ただ、この2年間で何かしらの価値を作り上げなくてはならないと思っていた、過去の焦燥感にとらわれた自分と離れられたことで、とても肩の荷が降りたような気がする。
そして、仕事はあくまでも生活の一部分であって、それ以外のプライベートの部分ことが人を人らしくするのだという考えは、おそらく自分のこれからの生活観の中心となるものだと思う。
そういう考えを得た今は、自分のメンタルがとても安定している。
日本社会ほど便利な社会はないと思う。
物価は安いし、コンビニはどこにでもあるし。
医療に手軽にアクセスできるし。電車は遅れないし。
ただ便利であればあるほどよい社会なのかと言われると、僕はそうではないと思ってしまう。
特に、その便利さが見えない他者を搾取して成り立っているのならなおさらだ。
比較対象も極端なのだろうけれど、スイスの労働文化を直接みていると、日本社会、特に日本企業で働きたいとは積極的には言えなくなる。
別に僕は働くために生きたいのではなくて、労働は生きるための一手段に過ぎない。
もちろん、自分が働いて誰かの役に立つのであれば嬉しいけれど、プライベートを永続的に忙殺してまでしたいとは思えない。
「すいませんが、定時で失礼します。」
そんな言葉が存在する意味は、正直よく分からない。
どちらかといえば、プライベートの生活の充実度の方が、僕にとっての幸せを規定する。
病休が年間1ヶ月ほどまで保証されている国と、体調を崩して休んだら自分の有休を使わなければいけない国。
こんな比較も馬鹿馬鹿しくなってきてしまう。
もはや外を知らない方が良かったのかもしれないと思えてくるほどだ。
大体スイスでは週休3日を選択する人たちの割合も徐々に増えてきているというのに。
僕が言いたいのは海外が優れていて日本が劣っている、という話ではない。
生活の志向があって、その志向に合っているところとそうでないところがある。
そして世界には異なる価値観の上に成り立つ、さまざまな場所が存在している。
それだけだ。
「住みやすさ」と「生きやすさ」は違うということも重要な観点だと思う。
そして、その価値観はライフステージが変わるとともに変化するものだとも思う。
僕はまだ見聞を広めて自分に適している場所を探している途中だ。
一体いつになったら自分は大人になれるのだろう。
大人と子ども。
この2年間のスイス生活の中でも重要なテーマだと思う。
いざ日本社会を構成する大人を見たとき、僕の中で不安や落胆の感情が生まれた。
大学生という社会人になる前の最後の段階で、大人になることへの嫌悪感を抱いてしまったこと。
自分は何を受け入れて、何と距離を取るのか。
その取捨選択が残りの1年間の課題になってくる。
選択が怖くて怖くて仕方がなくて。
正しくあらなければいけないという外圧が自分の首を絞めてきて。
そんな環境から逃げ出して得たモラトリアムが折り返しを迎えた時、期待と楽しさと不安と辛さが入り混じっていて。
それでもこの環境を楽しんでいる自分がいるということは、たぶん少しは肝が据わって前へと進んだのだろう。
マイナスな感情をマイナスに捉える必要もない。
プラスの感情に浮かれるべきでもない。
地に足つけて、前を見つめる。
この文章のように、頭の中で文脈もなくいろんなことが浮かんでは沈み、沈んでは浮かんでゆく。
そうして僕は生きているんだと実感する。
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