想像力の対象を広げること:写真との向き合い方
先日ポルトガルを縦断する旅に出たとき、ユーラシア大陸の最西端、ロカ岬を訪れた。
崖の上から海を見下ろしたとき、海面に浮かぶひとつの岩に向かって夢中になってシャッターを切った。
ユーラシア大陸の東からやってきた自分からすれば最果ての地のような場所で、風雨にさらされ、ひとり孤独に波に揉まれる岩を見た時、そこに自分が映っているような気がしたのだ。
「自分」という存在を理解できている人はいるのだろうか。
僕は一番近くにいる存在である「自分」のことを理解しきれないという事実が、興味深くて仕方がない。
そして、自分自身を理解できないのであれば、他者を理解することもまたできないのだと思う。
だからこそ、僕の関心は自分自身に向くことが多い。
その興味が形になったものとして存在しているのが写真である。
僕が写真を通して伝えたいのは、まずは足元に転がる名もなき現実たちである。
人が見向きもしない瞬間にこれだけの価値が存在しているという事実を伝えること、社会に存在する断片を拾い上げることで、人々の中にある「社会」という認識を広げていくこと。
現代社会のさまざまな点に不安や問題意識を抱いているからこそ、僕にとって写真はある種の政治的主張として機能している。
それに加えて伝えたいのは、断片を切り取っている自分自身である。
なぜ僕がそういった断片に向かってシャッターを切るのか。
被写体を切り取っているようで、被写体を恣意的に捉えている、カメラの裏の自分の価値観がむしろ浮き彫りになる。
そんな性質が写真にはあるからこそ、僕は写真をひとつの芸術として捉えている。
シャッターを切るという行為は、撮影者の愛情の表れであり、想像力の向かう対象を示すものだと思う。
少なくとも僕にとってはそうである。
例え被写体が人であろうと物であろうと、そこに自分を投影し、自分がその被写体としてこの世に存在していた可能性を考えてみる。
植物のような有機物であっても、模様のような無機物であってもいい。
全ての対象にまずは向き合い、ある種の愛情を持って接してみる。
そうすることで視野が広がり、自分が外側に開いていく。
自分自身の価値観を、写真という客観的に観察可能な媒体に昇華させ、自分自身を見つめ直す。
写真は今まで自分の頭の中にあったものを新たな視点で整理し、今まで気づかなかったものを表出させる役割も持つ。
例えば、身近な人の写真を撮ることもその一つの例になる。
その人に対する、自分の中にあったイメージと一旦距離をおき、レンズを通してその人と向き合い直してみる。
そうすることで、身近な人の中に今まで気づかなかった新たな素敵な側面を見つけることができる。
ポートレートは自分の得意とするところではないけれど、だから僕は知り合いの写真を撮ることも実は好きだったりする。
まだ僕はこの世界の何も知らない。
自分の経験に依って判断をする人を見ると、むしろなぜ自分の経験をそこまで信じられるのか不思議に思う。
だから僕は写真を通して、自分自身を含む、自分の気づかないさまざまなものを知っていきたい。
ただ、写真は僕にとってあくまでも手段なのであって、どれだけ好きであってもそれを目的にしようとは思わない。
自分が考えを巡らして初めて、写真に昇華される素材が生まれる。
自分の価値観を表現するひとつの手段でしかないからこそ、このように文章を書いているのだと思う。
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