助動詞編(2) 《たり/り》《き》~漢文訓読のための古典文法
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【はじめに】
本企画は、漢文訓読に用いられる日本語の古典文法について、なるべく多くのことを盛り込みつつまとめたものです。 想定以上にボリュームが膨らんでしまったため、まずは次の要約版から入って頂けるとよいと思います(各種活用表のpdf版もダウンロードできるようになっております)
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1.時を表わす助動詞について
時を表わす助動詞(完了・存続等を含む)として、古典文法においては《つ》《ぬ》《たり》《り》《き》《けり》《む》《けむ》など多数登場します。
一方、漢文においては状況が異なります。《已に》,《嘗て》《明日》《五十年前》などの副詞的な語彙をもって時を表わすことはありますが、過去や完了を表す動詞/助動詞というものは、漢文にはありません。そのため、訓読における時を表わす助動詞は、必ず補読によって現れます。
それでは、どのような助動詞が補読されるのでしょうか。明治45年に文部省が発した『漢文教授ニ關スル調査報告』(添假名法・第三)によれば、次の5つが挙げられています。
《り》,《たり》,《き》,《たりき》,《ん》
まず、上記のうち、過去完了(~してしまっていた)の《たりき》は、私の知る限り、現代の漢文訓読ではかなりレアであり、《たり/り》で間に合うものと思われます。そこで、本企画では《たりき》を対象外とします。
また、この他に「已矣乎(已んぬるかな)」のような形で、痕跡的に《ぬ》が現れることはありますが、一般的ではありません。
そこで、本企画では《たり》,《り》,《き》,《ん》について取り扱います。特に、本記事では「~た」と訳し得る《たり》,《り》,《き》について述べることにします。
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2.《たり/り》《き》の訳し方
《たり/り》は完了・存続、《き》は過去の助動詞ということになっており、日本古典だと完了と過去の違いをやかましく言われるかもしれません。
しかし、こと現代の漢文訓読に限れば、《たり》,《り》,《き》の意味の違いを殊更に気にする必要は無く、「~た」「~ている」「~てある」と訳してみて、ピッタリくるものを採用すれば充分です。
そもそも、漢文自体、過去と完了の区別が稀薄である上、現代日本語に訳しても、過去と完了は、同じ「~た」になってしまいます。そんな中、訓読についてだけ、過去と完了を厳密に使い分けるというのは意味がありません。
後述「5.補読の運用」にて、これらの助動詞の使い分けについて述べますが、あくまで現代人による便宜的な運用に過ぎず、平安時代の伝統的な文法に則っているものではありません。
漢文学者は、専門の日本語学者ではないのですからそれが当然ですし、漢文を理解・解釈するという大目的を考えれば、それが合理的なのです。
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3.《たり/り》《き》の活用
再び、『漢文教授ニ關スル調査報告』より。
つまり、時を表わす助動詞を補読するのは、大抵の場合、文末においてであるということです。そのため、用例としては終止形が中心となりますが、実際には連体形もそこそこ用いられています。
そのため、大胆かもしれませんが、本記事においては終止形と連体形のみを認めることにします。
もっとも他の活用形が絶対に無いわけでもなさそうで、例えば、岩波文庫版『論語』では、次の訓読があります。
条件節において、《き》の已然形《しか》が用いられているのですが、やはり例外的。上記の例であれば、動詞をそのまま已然形にして「挙ぐれば」と読めば充分です。
また、過去・完了の否定は「~たらず」ではなく「~ざりき」とするのが普通です。
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4.《たり/り》《き》の補読の頻度
《たり/り》《き》は補読によって、主に文末に現れると、書きましたが、のべつまくなしに補読する訳ではありません。
例えば、伊勢物語の一節。
これと、『韓非子』の一節を訓読したものを比べてみましょう。
これらは過去のエピソードを記したものですから、現代日本語に訳すと、何れも「~た。~た。」の形になるでしょう。
しかし、伊勢物語は過去の助動詞《けり》が多用されているのに対し、韓非子の訓読では、最後の「為れり」で完了の《り》が使われている以外は現在形です。
実は韓非子に限らず、漢文訓読においては、文の内容が過去だからといって、いちいち過去の助動詞を補読することはないのです。基本、現在形を用いておき、訓読者の判断において、時折《たり/り》《き》を混ぜる、くらいの感じです。
すると、以下の点が問題になってきます。
補読するしないは、どのようにして決めるのか。
補読するとして、《たり》《り》《き》はどのように使い分けるのか。
以下、この問題について述べていきます。
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5.補読の運用
活用型ごとの補読助動詞
前項で、《たり》《り》《き》の使い分けの仕方が問題だと言いましたが、実は、補読される動詞、形容詞(補助活用)、助動詞(《る/らる》《しむ》《ず》《なり/たり》《ごとくなり》等)の活用型によって、どの助動詞を補読するのかは、大体決まっています。
また、「~た」と訳す場合、「~ている」と訳す場合において、補読の頻度にも差があります。
《き》《たり》《たる》は、理論上、他の活用型にも接続し得るのですが、上表の接続以外ほとんど見かけません。
※辞書『漢辞海』によれば、訓読文中の《たり》と《り》の比率は、28:72だそうですが、現代の漢文訓読の四段・サ変に限れば、控えめにいって《り》が9割以上です。
やはり、例えば「治まりたり」より「治まれり」の方が、語形としてスッキリしているからなのでしょう。
一方、《き》の連体形《し》は、活用型に問わず、幅広く補読され得ます。その結果、「~た」と訳す場合において、《たり/り》の連体形《たる/る》と競合します(連体形《し》の方法で後述。
それでは、それぞれの助動詞の用法について述べていきましょう。
《たり/り》の用法
■終止形《り》
四段・サ変動詞に続く終止形《り》は、「~た」「~ている」と訳し得る文脈であれば、比較的好んで文末に補読され、《たり/り》の用例の大半がこれになっています。
「言へり」「思へり」「為せり」「行けり」「死せり」など。
動詞「異なる」は古文漢文では認められないので、「異なれり」という形は原則不可(以前の記事参照)。まぁ使っちゃっている人もいるけど、形容動詞「異なり」と捉えるのがオススメ。
漢文訓読では、過去の事柄も基本現在形で表しますが、これらの表現を適宜織り交ぜることで、文末表現にバリエーションが増え、単調さを緩和することができます。
一方、連体形《る》や、《たり》《たる》は、以下に述べる明確な完了・存続の文脈に支えられていないと、用いられることが少ないようです。
■結果の継続に重点を置いた完了
廏焚けたり。子、朝を退きて曰く「人を傷へるか」と。
(馬小屋が焼けてしまった。先生が朝廷から戻ってきておっしゃった。「人に怪我は無かったか」)曰、「詩を学びたるか」
(先生はおっしゃった「もう詩を学んだのか」)
これらの例における、《焚》《傷》《学》は、火事・怪我・学習という事象・行動、あるいは、その単純な完了(~し終わった)というよりも、
(火事の結果)馬小屋が焼け崩れている状態にある
(怪我の結果)人が痛い・苦しい思いをしている、命の危険が出ている
(学習の結果)詩の読解等の技術が身についている
と結果が継続していることに重点を置いた完了表現です。このような場合、《たり/り》を補読して、文意を明確にする傾向にあります。
【注】
《学ぶ》は、平安時代中期までの漢文訓読体の文章においては、四段ではなく上二段活用で用いられたそうで、上例にて「学べる」ではなく、「学びたる」となっているのは、その名残と思われる。ただ、一般には四段活用として扱ってよい。
■存続
「~ている/ていた」「~てある/てあった」等と訳し得る場合、現在形ではニュアンスを表わしきれないためか、《たり/り》を補読して、存続の語気を補う傾向にあります。
・由や勇を好むこと我に過ぎたり
⇒由(人名)は勇敢さを好むことでは、私を超えている
・至れり尽くせり、以て加ふべからず
究極まで至っており尽くしており、それ以上加えることはできない。
・その罪を知れる者は、ただ孔距心のみ。
⇒その責任を自覚している者は、孔距心だけだ。
■原文に《已》《既》《矣》があるとき
《已》《既》が文中にあって「すでに」と読ませる場合、
あるいは、文末の置き字《矣》が、完了の語気を表わしている場合が時折あり、これに呼応して、助動詞を補読することがあります。
・道之不行已知之矣
⇒道の行はれざるは、已にこれを知れり
・天下既已治也
⇒天下、既已に治まれり
■「得たり」「似たり」
《得》や《似る》は、完了・存続の語気と相性が良いためか、補読して「得たり」「似たり」とするのが好まれます。
・陰陽和して、万物を得たり
・言ふこと能はざる者に似たり
ただ、否定形は「得ず」「似ず」です。
終止形《き》の用法
ほとんどはラ変型活用語に接続し、過去(~た)を示します。ただ、単なる過去形というより、自分が体験した過去を回想するニュアンスが強く、
・図らざりき、楽を為すことの斯に至らんとは
・吾、少くして賤しかりき
のように用いられることが大半です。そのため用途は狭く、出現頻度は稀です。
連体形《し》の用法
連体形《し》は、存続(~ている)の意味では用いられず、「~た」と訳し得る文脈で用いられます。
終止形《き》で述べた回想の文脈は特に必要なく、ラ変以外の活用型にも接続するので、出現頻度は《き》ほどには低くありません。
ただ、《し》の補読を好む訓読者と、そうでもない訓読者がいて、例えば、岩波文庫版『孟子』なんかは後者であり、次のような例が容易に見つかります。
その人に象りて之を用ゐしが為なり。
暴、王に見えしとき、~
これらにおける《し》は、補読はせずに「用いる」「見ゆる」としてもOK(むしろその方が多いかも)。
また、《し》を《たる/る》に置き換えることも不可能ではありませんが、前々項で述べた「《たり/り》の用法」に該当する場合以外は、《たる/る》を用いることは少なく、《し》を用いるか無補読かの何れかが多いと思います。
結局、《たり/り》と《し》、その取捨選択や使い分けは訓読者に委ねられ、絶対的な規則はありません。
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