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「情けは人のためならず」はあなたの隣に

「情けは人の為ためならず」という慣用句の意味を取り間違えている人は多いと思う。

「情けをかけると、その人のためにならない」という風に誤用されてこともあるが、本来は「人に対して情けをかけておけば,巡り巡って自分に良い報いが返ってくる」という意味がある。一体どれだけの日本人が、正しい意味を知っているだろうか。
鬼滅の刃に登場する時透兄弟の話でもこの慣用句が出てきたので、それで正しい意味を知ったという人も少なからずいるのではないか。

「一期一会」の次に、私が大事にしている言葉である。この言葉は響きも意味も好きだ。
他人のためにしたことに見返りや感謝を期待しない方がいいとよく言うが、私も人間なので多少はどうしても求めてしまう。そんな私の少し汚い部分を、この言葉はそっと肯定してくれるような気がする。

時は巡って、数日前。
この意味を身をもって体験した出来事があった。


***


古くからの友人たちに会うため、電車に乗っていた日のこと。

新宿発のJRの電車なので、中は立つ場所がないほど満員ではないとはいえ、座る席はどこも空いていないぐらいには混雑していた。
私は早めから乗っていたので空いている席に座れた。外の景色を見ながら、電車に揺られて数駅ほど過ぎて止まった駅で、私の近くにご夫婦が乗ってきた。
奥さんは私の右隣の席に座って、他の席はすべて埋まっていたので、ご主人はその前で吊革につかまりながら立っていた。

失礼ではあるが年配のご夫婦だったので、私は(席を譲らなければ)と思いとっさに立ち上がった。
とはいえ、「老人扱いするな!」と怒り出す人もいるし、反対に過去には「若いんだから席を譲らなきゃダメだろ」と説教されたこともある。
どう伝えるのが一番よいかと思案して、最終的に「一緒に座りますか?」とだけ聞いたら「大丈夫です、ありがとう」と丁寧に断られてしまった。
(やはり席を譲るのはよくなかったか…)と少し後悔したが、丁寧に返事をしてもらえたし、悪いことはしていないからいいかと前向きに考えることにした。

ご夫婦が乗って2駅ほどして着いた駅で、彼らは降りるようだった。先ほど断られたのは、すぐに降りるからが理由だったのだろう。
私の提案で嫌な雰囲気にならなくて良かった、と考えていると、ご主人が私の方を向いて、

「先ほどはお声がけくださってありがとうございました」

と言って奥さんと一緒に電車を降りていかれた。

そのときに私がどう返事をしたかは、実のところまったく覚えていない。
多分、「あ、いえ、こちらこそ…」とかなんとか返してはいたと思う。
でもまさかそんな風に言ってもらえるだなんて、想像もしていなかったのだ。だから実際は、まともに返事なんてできていなかったかもしれない。

その後に友人たちと合流し、思いっきり遊んで楽しい一日を過ごした。
その日で一番楽しかったのは、友人との集まりだったと言えよう。その日で一番嬉しかったのは、間違いなくご主人の言葉だった。


***


実はあのとき、私は感謝をされたくてとか、ご夫婦への親切心で席を譲ろうとした訳ではない。
ただ怖かったのだ。席を譲らないことで責められるのが。

上記にもあるが、私は以前バスに乗っていたとき、年配の男性に「若い者なら席を立って上の者に譲らんかい」と怒鳴られたことがある。
確かに私は少ない荷物を持って優先席に座っていたので、彼の言い分もある意味では正しい。だが、この件が私の中で少しトラウマになってしまった。

そして過去のトラウマは、私に思い込みを作った。

「高齢の人たちはみんな、席を譲られたいか、譲られると怒るかのどちらかに分かれる」

それは、無意識の思い込みだ。理性は全員に必ずしも当てはまらないとわかっていても、感情がその考えを強く主張する。


今回もご夫婦とはいえ年配の男性だったから、もしずっと席に座っていたら怒られてしまうかと思い、自分の席から動こうとした。
もし席を譲って怒られたなら、私は一般常識になぞらえると正しいことをしたので、悪いのは相手ということにできる。だが譲らずに怒られたなら私にも非があることとなる。

そうやってずるいものを天秤にかけて、勝ったものをただ選んだだけなのだ。


それなのに、私は感謝してもらえた。
言葉では言い表せないほどに嬉しかった。

自分のずるさで起こした行動(情け)が、人のためになって、感謝の言葉を連れてきてくれた。


実際のことわざが意味するものとは、本当は違うかもしれない。
でも、それでもいいのだ。私の中で、得たものと変わったものがあるから。

それだけで私にとっては充分に価値のあるものだ。


もう、バスや電車で誰かに席を譲るのは、怖くない。

もしこの先に嫌な思いをすることになっても、この経験がきっと私を支えてくれる。

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