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いいかげんで偽りのない僕のすべて ⑪


 翌朝も初音ちゃんが先に居間にいた。僕は起きた瞬間から昨夜の態度を反省した。とにかく謝ろうと決めて、階段を上って廊下を歩くすがらに、どんな様子かを遠目に探りつつ近付いて行った。
「おはよう」
 なるたけ普通を装って向かいに座った。
「おはよう」
 初音ちゃんは目を合わせずに返し、台所で僕のご飯とみそ汁をよそって来てくれた。ありがとうと受け取り、会話もなく温かいみそ汁を飲んだ。僕はお喋りな方ではないが、この沈黙はやはり心地が悪かった。
「夕べはごめん」
 お椀を置いて初音ちゃんに告げた。きんぴらごぼうを食べていた初音ちゃんは口をむしゃむしゃ動かして首を振った。
「うまく言えないけど、初音ちゃんだから怒ったんじゃないんだよ。彼女のことあんまり話したくないんだ。急に不機嫌になって悪かったよ。ごめん」
 初音ちゃんはお茶碗を持ったままもう一度首を横にして「きんぴらごぼうおいしいよ」と、箸でつまんで差し出した。僕は身を乗り出してそれを食べた。「少し甘い」固いごぼうを噛んで口を拭いた。
「叔母ちゃんの味付け、あたしは好きだよ」
  初音ちゃんはきんぴらごぼうを箸で掴めるだけ掴んで口に入れると白米を目一杯頬張った。むぐむぐ食べる頬がハムスターみたいだった。会話はそれだけ。けれどもう通じ合っていた。いつまでもぷんすかしない初音ちゃんは、一緒に過ごすのに最適な相手。素直の化身。でもだから騙されやすいんだろうなと思った。
 日中は思い付くままにしたいことをして過ごした。だらける前にと午前中はとりあえず課題をやり、昼はホットプレートで焼きそばを山盛り作って、午後は特に行き先を決めずに出掛けた。
 バスに乗っている時、初音ちゃんが住んでいた家の前を通った。四年前からの区画整理ですっかり様変わりしており、建ち並んでいた住宅は一軒残らず壊され、一帯がまだ新しいと分かる色の濃いアスファルトの敷いた広い道路になっていた。初音ちゃんは窓に顔を押し付け「わあ、ほんとになくなってるー」と目を凝らしてずっと見ていた。
「でも不思議。もっとショックかと思ったけど、なんか全然悲しくない。逆にさっぱりした感じ」
 僕の方に振り向いて笑った。ずいぶんあっけらかんとしてるなと思った。この町にたいして思い入れはないのに、育った家がなくなったら、僕はきっと寂しい。綺麗な新しい家を手に入れてもさっぱりしたなんて感覚にはならない。過去にこだわるわけでなく、孤立したあの部屋が世界で一番好きな場所だからだ。確かに立地は不便だ。都会の暮らしに憧れてる母は、新聞の折り込みチラシの不動産情報を見ては「いい所」を探し続けているが、別の土地に移るにしても、あの家ごと行くなら異存はなかった。
 なんだかんだ言って初音ちゃんは洗脳タウンに順応して、今の住まいに馴染んでいる。もう都会の子だからこそ「田舎暮らし」が新鮮なだけなのだ。
 子供の頃によく遊んでいた思い出スポットを順に辿った。初音ちゃんが行きたがっていた「ハニー・ハニー」ではちみつパンの他に新発売の惣菜パンをいくつか買い、小川道を歩きながら食べた。国道沿いにある全国チェーンの衣料品店で、初音ちゃんは自分のスカートを選ぶついでに「いつも同じ服」の僕に、三枚2500円のTシャツを買ってプレゼントしてくれた。
 はじめは楽しくぶらぶらしていたが、数時間で見るものがなくなり、斜陽のオレンジの中「遠き山に日は落ちて」のメロディに合わせて一緒に歌いながら帰ってきた。八月後半になると日暮れも早くなる。夕陽に背中を押されながら坂道を登った。
 帰宅してからは老夫婦のように過ごした。初音ちゃんは縁側で取り込んだ洗濯物をたたみ、僕は庭の植木に水をやった。終わると初音ちゃんは冷たい麦茶を出してくれて、飲み干したあとはヒグラシのシャワーを浴びながら居間で横になった。隣に座る初音ちゃんは携帯電話をいじりながら、僕が一度も会ったことのない友達の話をずーっとしていた。
 目を瞑ってうつつで聞いていたので、つい返事が途切れてしまう。するとサザエさんに叱られるカツオみたいに耳を引っ張られる。起きてたよ、とごまかすと話を復唱させられた。曖昧な記憶を頼りに適当に繋ぎ合わせる。初音ちゃんは「健太郎君小説家になれるよ」とゲラゲラ笑い、そのエピソードまた友達に送っては、届いた返事を聞いてもない僕に全部報告した。それは眠たい耳にはもうただのお伽噺でしかなかった。

 十日も共に過ごすうちに、家の中に初音ちゃんがいるのが普通になった。団欒の場に女の子がひとりいるだけで照明の光が一段階明るくなったように感じる。本当は娘も欲しかったらしい母も、一緒に夕食を作ったり、芸能人のゴシップで盛り上ったりする相手がいて楽しそうだった。普段よりも溌剌として声のトーンも高く、もう着なくなった洋服を初音ちゃんが欲しがるだけあげていた。家で仕事の話を滅多にしない父にも初音ちゃんは靴を作る工程についてどんどん質問するので、変わらず句読点ごとになりながらも、チラシの裏に絵を描いたりもして、完成までの作業を丁寧に説明した。
「工房に来たら、足を測って、初音ちゃんだけの靴を作ってあげるよ」
 話の流れで父が言った。「ほんと?わあ、嬉しい!」初音ちゃんは体を揺らして喜び「あたし両方の足を合わせたら一枚の絵になるみたいな靴がほしいの。昔見た映画でそういう靴があって、ずっとあれいいなあって思ってたけど、どこにも売ってなくて」とデザイン画を描きだした。夜空に満月が出ている絵だった。あんまり上手ではないが「ああ、可愛いねえ」と父は優しい笑顔を浮かべた。稀にしか見ない父の笑みを目撃した僕と母は無言で顔を見合わせた。初音ちゃんってすごいなあと思っていた。きっと知らない人が見れば違和感のない四人家族。夏の終わりの和やかで静かな時間であった。
 そして初音ちゃんはもう僕の部屋で寝ることはなかった。手術が終わったことで迷える子羊ではなくなったからだ。僕を好きだというのは半分は本当なのかもしれないが、信じさせるために寝る必要はなくなった。切羽詰まったが故の駆け込み寺だったのだろう。そこに狼がいたわけだが。
「無防備な女の子が寝てりゃ、その気があるのかと思うよ」
 僕の言った言葉を覚えていて試し、僕は自身の発言の語るに落ちた。でも終わってよかったと思った。絶対に恋愛対象にならないとは限らないが、血縁者でありながら結婚は許される微妙な関係だからこそ、半永久的に続けられるかもしれない、流れるプールのようなゴールのない戯れに、幸せな結末が待っているとは思えないからだ。いつかは撃たれる。なら危険が及ばないうちに離れるのがきっと正しいのだ。部屋で繰り返していたら最悪の事態を招いていたかもしれない。そもそも健全な両親は、僕と姪っ子が寝てるなど想像もしないだろうが、子供というのはいつだって親の見てない所で成長し、多くのものを知ってしまったからこそ何も知らないふりをする。僕の内なる本性を見たら親は卒倒するだろう。秘密を積み重ねるほどに広がる距離に怯えながらも、その原因はいつも僕が作っていて、正直今でも初音ちゃんと寝たことになんの咎も抱いていないのだった。

 火曜日は朝から曇っていたが、僕らは昨日と同じように午前中は宿題をし、午後はあてもなく出掛けた。もうどこも行きたい所が思い付かなかったけど、初音ちゃんがおにぎりを作ってくれたので、それをリュックに入れて自転車を引っ張りながら峠道を登った。しりとりしながら坂道を歩いているうちに、どんどん雲行きが怪しくなり、風が涼しくなっていった。予想では二時間以内には降りだしそうな、剥げた岩肌に似た空模様だった。
 二人とも軽装で、しかも初音ちゃんはサンダル。僕は途中で帰ろうと言ったが「頂上まで登る」と初音ちゃんは止まらず、まるで灰色の雲の中を目指しているかのように進んでいった。ひとり残して行くわけにもいかないので、自転車を押してもらいながら、長い勾配の峠を登り続けた。
 ようやく一番上まで到着した時には息が切れて、腕とふくらはぎがぱんぱんになっていた。一時間ちょっとの山道はかなりしんどかった。
「ねえ、よく見えるよ。あれかな?健太郎君おうち」
 初音ちゃんはサンダルを脱いで裸足になっていた。体の線がはっきり分かる、母のおさがりのレトロなデザインのミニの赤いワンピースを着ていて、それがとても似合っていた。田んぼの向こうに連なる山合の集落を指差していた。曇っていたが町は綺麗に見渡せた。絵に描きやすい風景だと思った。所々に点在する民家。鬱蒼とした神社の林。寂れた蕎麦屋。だだっ広い道を歩く部活帰りらしいジャージ軍団。まるで手抜きした書き割りの映画セットのようだった。
 十八年間、僕はこんなあっさりした景色の一部として過ごしていたのかと思うと、なんだかすごくがっかりした。こんな所で寝起きして、悩んだり、勉強したりしてたのだ。モノクロの雲に覆われた町は一息で飛ばせそうなほど何もない。版画みたいに色のない風景の収まったまま人生を終えるのか。僕は草の上にしゃがみ、西からの風を受けながら、しばし悲観的な哲学に浸った。
「食べよ」
 初音ちゃんは隣に座ってリュックからアルミホイルに包んだおにぎりと水筒を出し「はい」と僕に渡した。ありがとう、とアルミを剥いて湿った海苔の張り付いた鮭のおにぎりを食べた。塩加減がちょうどよく、疲れて空腹の腹においしかった。二個のおにぎりはあっという間に食べ終わってしまい、水筒の麦茶を飲んでから、草の上に敷いた遠足用のシートに寝転がった。就学前のクリストファー・ロビンのような怠惰の空。なにもしないのは今の僕には逆に難しく、それが素晴らしいと言えないほど、ある程度の経験と責任が課されるようになってしまったが、せめてここにいる時だけは、のんきな森の住人でいようと深い深呼吸をした。
「健太郎君、ありがとね」
 ふと初音ちゃんが言った。猫じゃらしを手に持ってゆらゆら振っていた。
「最初はどうしようって迷ってたけど、来てよかったって思ってる。健太郎君にはほんとに悪いことしたけどさ。けどあたしって失敗は多いけど運のいい人間なんだって思った。いい人に恵まれてるなって。今回のことは、いつもよそ見ばっかりしてるあたしに、もっと自分の心を向き合いなさいよっていう神様からのメッセージだったのかなって思った。この前は健太郎君にここにいたら妊娠なんかしなかったのにって言ったけど、どこにいても自分がしっかりしない限りは同じようにやらかしてたと思う。どこにいたってなにかは必ず起こるし、自分のせいじゃなくても嫌なことは避けられなかったりするじゃない。つまりどう対応するかなのよね。もっと賢ければ間違いも起こさなくなるんだろうけど、間違ったって気付いた時にどうするかの行動の方が大事なのよ。今回のことでそれをほんとに学んだ。変なことに巻き込んじゃってごめんね。これからはもう迷惑掛けないようにするから」
 そう言って僕の鼻先を猫じゃらしでこしょこしょやった。かいーかいー、と、怒ったふりしてこのやりとりを了解したことにしたが、有名なセリフを
借りれば、初音ちゃんのくせに生意気だぞと思った。まともなこと言っちゃって。けどおおむねその通りだった。どこにいてもなにかは起こる。なんかで読んだ一節がふいに過った。
 目も眩むような大自然も人類の悲劇の舞台でしかない。
 もちろん素晴らしいことも起こり得る。いささかネガティブ過ぎではあるけど、まあそういうことなんだと僕も初音ちゃんから学ばせてもらった。

 帰る途中に雨が降りだした。自転車の後ろに初音ちゃんを乗せて家まで急いだ。長い坂道を下る最中、雷鳴が轟いた。ポツンと落ちてきたと思ったら一気に大雨になり、逃げ場もないほど瞬く間に激しく降り注いで僕らを打ち付けた。冷たくなった空気が肌から体温を奪っていった。
「大丈夫?」
 大声で尋ねた。
「大丈夫」
 初音ちゃんは僕に掴まりながら言った。これどこのままでは風邪を引いてしまう。手術をしたばかりで体調を崩したら大変だ。一旦自転車を止めて、シートを広げて初音ちゃんの体に被せた。たいして温かくはないし、変な格好だが、防水なので少しは雨を凌げるかもしれない。ないよりはいいと首の前でぎゅっと縛った。
「急ぐから」
 漕ぎだそうとした時、携帯が鳴った。ポケットから出すと母からだった。まだ四時前で仕事中のはず。なんだろうとタップして「もしもし」と耳につけるや否や「あんた今どこにいるの?」と間髪入れず低い声が返ってきた。
「外だよ。どしたの?」
「初音ちゃん一緒なの?」
 母の声はどこか切迫していた。雨のせいでよく聞き取れず、片方の耳を塞いだ。
「一緒なのね。どこにいるのよ」
 矢継ぎ早に質問され、僕は居場所を教えて一緒にいると告げた。すると父も待ってるから早く帰ってこいと言った。父まで出てくるなんておおごとだと焦った。
「なに?なんかあったの?」
「なんかあったじゃないわよ。あんた、初音ちゃんと産婦人科に行ったの?手術に手貸したの?」
 返事に詰まった。背筋が固くなった。なんでバレたんだと動揺した。
「行ったのね?」
 口調からしてもう知ってると察した。叱責の叫びに、うん…と認めた。
「なんてバカなこと…!今ね、姉さんたちが来てるのよ。全部聞いたの。なんてことなの。まさか中絶手術するためにこっちに来て、あんたに協力させるつもりだったなんて…。信じられない。あんたの人生をなんだと思ってんのよ…」
 母は電話口で泣き出した。僕は雨に打たれながら茫然とした。一体どうやって突然明るみになり、伯母たちまで来ているのか。秘密を守ってほしいと言ってたのはそっちなのにおかしいぞ。抗議しながら携帯を握りしめた。
 とにかく早く帰れと言って母は電話を切った。どうにか混乱を収めようとしたが、どこが最初の糸口なのか分からなかった。初音ちゃんに電話の内容を半分だけ話した。えっ…!と絶句し、みるみる口許を歪ませ、両手で顔を覆い、しぼむように肩を縮めた。

 急に重くなったペダルを漕ぎながら、二人ともびしょ濡れで家に戻ってくると、庭に見慣れぬ車が停まっていた。ナンバープレートの地域名で初音ちゃんの叔父さんの車のものと分かる。
 開いた縁側の窓の奥に人影があった。小太鼓が鳴る屋根の庇から落ちてくるこより状の雨水が視界を滲ませていたが、ちゃぶ台を挟んで座る両親と伯母夫婦が確認でき、遠目にも険悪さが伝わっていた。
 初音ちゃんは目を強張らせ、すいと僕と距離を取った。どういう心境の表れか分からないが、もう僕のことを見ようとしなかった。ともかくみんな待ってるので自転車を停めるためにカーポートに向かうと、僕らの姿を見つけた母が一目散に立ち上がって縁側から出てきた。あらゆる感情が抑えきれず、怒りさえ越え、笑ってるようにも見える引きつった顔をしていた。同時に初音ちゃんに視線を止め肩を膨らませた。自分のおさがりを着てる初音ちゃんへの目付きは、もう昨日までの可愛い姪っ子に向けるまなざしとは違っていた。情から愛が抜けた、または愛から情が抜けて裁きを孕んでいた。
 初音ちゃんは被っていたシートを外して母に深々と頭を下げた。それが返って逆鱗に触れた。堪えきれなくなって縁側から降りてこようとしてたので、僕は自転車をそのままに母の前に立った。
「冷静に話そうよ。ちゃんと説明するから」
 すると母は赤鬼みたいに紅潮させた形相で、沓抜場に降りてきて僕の頭や肩を両手でばしばし叩いた。父が止めに入ると「ーバカ…!」と叫び、着ていたシャツの襟元で涙を拭った。
 直後に叔父さんが家から飛び出してきた。裸足でも構わず初音ちゃんに直行すると「お前は一体なにをやってんだ!」と頬をばしんと打った。初音ちゃんはよろけて泥の中に倒れた。芝のない庭にはいくつも水溜まりができていた。初音ちゃんはそこにしゃがんだまま、手や尻を泥に浸しながら嗚咽を漏らした。うるさいほどの雨が降っていて、みんなの泣き声を書き消していた。
 
 玄関先の水道で手や足を洗い流し、タオルで拭いてから居間に集まったが、伯母以外は全員濡れて汚れていた。対面に座る伯父は武士のような姿勢で僕に土下座をした。
「本当にこの度はとんでもないことに健太郎君を巻き込んで申し訳なかった。心からお詫びする。すまなかった。私の管理不行き届きだ。この通りだ。本当に申し訳ないことをした」
 伯父の隣で伯母も繰り返し謝罪したが、僕は黙っていた。約束したらなら最後までやれよとずっとそれが頭にきていた。母は姉である伯母への怒りと叱責が止まらなかった。
 こんなこと学校の誰かに知られたらどうしてくれるのよ。姉さんはいつだってそうやって面倒なことは人に押し付けて、お母さんの時もそうだったじゃない。あたしひとりで介護して、何にも手伝ってくれなかったじゃないの。自分だけいつも楽して、こっちの立場はどうなるのよ…。
 二人のやりとりをうんざりしながら聞いていた。もうただの姉妹喧嘩になっている。終わったことを言及して責め立ててどうなるのか。けれど言わずにいられない。普段はここまで感情を露にしない母が自分でもコントロールできないほど激昂しているのは息子の僕が絡んでいるからだった。
 ことのいきさつを伺うと、初音ちゃんがいつまでも戻ってこないのを不審がった伯父が伯母を問い詰めたがはっきり返事しなかった。それで家のパソコンの履歴を調べたところ「妊娠」「中絶」といった検索ワードがいくつも出てきた。驚いて初音ちゃんの部屋の引き出しを開けてみると妊娠検査薬の残りや悩みを綴ったノートが見つかり、とうとう伯母は白状した。全て知った伯父は居ても立ってもいられず、今朝会社を休んで車を飛ばして七時間掛けてやって来たというわけだ。
 何も知らなかった伯父からすれば、娘の妊娠だけでも衝撃で、さらに自分の関与せぬうちに中絶しに故郷に帰っていたなど愕然とするだろうと察するが、謝られても僕は何も言えなかった。
 この人達はなにを責め合ってるんだろう。なんでこんなことするんだろうとずっと思っていた。何もかもが解決して、小さな火種のまま消すことができたのに、なぜ不発弾にわざわざ火を点けるのか。僕は謝ってほしいなんて思ってないし、嫌々初音ちゃんに協力したのでもない。なのにまるで犯罪に荷担したかのように母や伯父は嘆いている。ショックだったのは分かるが、悪いことをしたわけではない。僕はそこだけは絶対に譲れなかった。
 父だけは黙って座っていて、発音ちゃんの髪から落ちる滴を気にして、肩のタオルを直してやったりしていた。
 手術までの経緯を母に聞かれたので、いつ、どこの病院逃げ場も行ったのか僕が説明した。ネットで調べて二人で行ったんだと話すと「ーほんとに、情けない…」と伯父は口唇をわななかせて俯いた。
「それであんた、同意書にサインしたの?」
 母は目を見開いて僕を凝視した。「してないよ」苛々しながら答えた。
「初音ちゃんがいいって言ったんだ。巻き込みたくないって。お医者さんになんて言ったのかは知らないけど、とにかく向こうはそれで手術してくれるってことになって、終わったあとに病院に行ったんだ。それだけだよ」
「本当ね?本当に書いてないのね?」
「書いてないよ。けどそれがなんなんだよ。そんなことぐらいで壊れる人生なら最初から価値なんかないよ。こっちから捨ててやる。もう全部終わったのになにが問題?誰を責めてんの?初音ちゃんはひとりで病院に行ったんだぜ。たったひとりで。それがどんなに心細かったか、どんなに怖かったか、分かってあげようともしないで好き勝手言ってさ。だいたい初音ちゃんは被害者なんだよ。相手の男にだって責任があるのに、ひとりに押し付けられて、どうしようもなくなってここに来たんだ。そりゃ最初聞いたときは混乱したよ。どうしていいか分からなかったけど、産めないなら手術するしかないし、いとこだし、助けて当たり前じゃないか。だから二人でよさそうな病院を探して、初音ちゃんはきちんと勇気を持ってやるべきことをやった。それでようやく体調も落ち着いて、明日には帰るはずだったのに、なんで今日になってこんなことになってるわけ?ぶつなんてひどいよ。可哀想だよ」
 初音ちゃんの頬は赤く腫れていた。伯父の怒りの分だけ。僕は立ち上がって干してある洗濯物からタオルを一枚取って台所の水道で濡らしてから初音ちゃんに渡した。


⑫へ続く https://note.com/joyous_panda989/n/n8d53b52d220a


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