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【連載小説:盛岡】すいかメンタルクリニック 5

 和真は、急患として扱われ、すぐに処置室で点滴が始まった。和真は眠っていた。
 並行して、佳奈が須貝に事情を訊かれた。佳奈が知っている範囲で答えると、
 「入院しましょう」
と須貝は言った。そしてさらに、
 「和真君はいい友達を持っていますね」
と微笑みながら言った。

 佳奈は、和真の携帯から和真の実家の電話番号を調べ、節子に連絡した。
節子は恐縮しながら、「今から行く」と言ったが、佳奈は和真が安定して眠っていること、入院の細かい準備は明日でいいと言われたことなどを話し、明日節子が来ることで話はまとまった。節子は最後まで恐縮し、「何卒よろしぐお願いします」と言った。

 夕方に和真は、処置室から病室に移された。点滴は続き、和真は眠ったままだった。
 「おそらく一晩中眠り続けるでしょう。点滴は続けますが、付き添いは必要ありません」
と須貝に言われ、佳奈は帰宅した。

 和真が目を覚ましたのは翌日の午前十時頃だった。自分の身に何が起こったのか全く分からなかったが、それを考える気力も無く、ただ呆然と天井とピンク色の点滴が一滴一滴落ちる様を見ていた。そして、しばらくそうしていると、少しずつ自分が置かれている状況がぼんやりと分かってきた。
 頭にも両手にも包帯が巻かれている。入院したのだということは分からなかったが、ここが病室で、しかも「すがいメンタルクリニック」だ、ということも何となく分かった。アパートに佳奈が来たこともぼんやりと思い出した。
 回転しない頭で、そうこういろんなことを少しずつ考えたり、思い出したりしようとしていると、
 「おはよう」
と、聞いたことのある声で挨拶された。ハッとしてその人の顔を見るとやはり見覚えがある。笑顔で和真を見ている。
 「ごめん、ごめん。まだ、話す気になれないか」
 和真は思い出した。最初にこの病院に来た時にウッドデッキで話をした高橋だった。
 「おはようございます」
 和真はか細い声でゆっくりと言った。およそ一日振りの発声だった。
 「どうだい?『すいか』一泊目の朝の気分は」
 高橋は笑顔のまま言った。
 「最悪です」
 やはり力無く答えると、もう一人からも声を掛けられた。
 「お久しぶりです」
 今度はすぐに分かった。亮輔だった。
 「え?君も?」
 「ここは五号室、三人部屋で、俺とこの亮輔が同居人だよ」
 高橋が言った。
「伊沢さんが昨日運ばれてきて、僕が知ってるって言ったら、高橋さんも知ってるって言うからびっくりしたんですよ」
 亮輔の説明で和真はこの偶然を理解した。
 「僕は一週間前から入院してます」
 亮輔が言った。
 「僕は三か月前から入院してます」
 高橋がわざと気を付けの姿勢でおどけて言ったが、和真は笑えなかった。
 「そりゃあ、まだ笑えないよな。ゆっくり行こう」
 高橋はそう言って和真の胸の辺りの布団をポンと叩いた。亮輔は,
 「よろしくお願いします」
と頭を下げて和真の隣のベッドに戻った。
 和真のベッドは入り口から一番手前で、中間が亮輔、一番奥のベランダ側が高橋のベッドだった。
 和真は、気分は相変わらず落ち込んでいたが、高橋たちと話し、少しだけ安堵感を持ち、そしてまた眠った。

 「和真」
 節子の声で目が覚めた。康平と佳奈もいた。節子が枕元の椅子に座り、あとの二人は立っていた。
 「どうだ?」
 康平が訊いた。
 「ああ」
 いいのか悪いのか和真にもまだ分からない。佳奈を見た。心配そうに見ている。
 「昨日はありがとう」
 「どういたしまして」
 佳奈が言うと、
 「本当に佳奈さんのお陰だよ」
と節子は言い、佳奈に向かって頭を下げた。
 「お母さんもういいですよ」
 自分が眠っている間にも何度も礼を言ったのだろうと和真は思った。
 「わりいな」
 康平にも礼を言った。康平はただ軽く右手を上げた。
 点滴はまだ続いていた。節子がアパートから持って来てくれたのだろう、テレビ台兼キャビネットの上に置かれたいつもの目覚まし時計を見ると十二時過ぎだった。
 「お腹空いたか?食欲があるなら夕食から出すって先生が言ってたよ」
節子が言った。
 「いや」
 まだ食欲はなかった。
 「明日の朝食からは出るらしいから少しでも食べろ」
和真は、そう言う節子を見ながら、隆を失ったばかりなのに、こうして心配を掛けてしまい、申し訳ないと思った。そして、
 「ごめんな」
と言って、涙を流した。和真の涙腺は隆の死以来、弱くなっているようだった。
 「ちゃんと療養して元気になればいいがら」
と言いながら節子も涙を拭った。佳奈も泣いていた。
 「そうだ。早く元気になって、佳奈の誕生会の続きするんだから。なあ佳奈」
 康平が雰囲気を変えようとしてくれているのがみんなに分かった。
 「いいよ、もう。あれで充分過ぎる。それにまた歳を取るみたいじゃない」
 佳奈も赤い目で明るく言った。
 「いや、ダメだ。絶対やる。あれはスッゲー楽しかった。酒無しだったのにな。今度は酒有りで。だからそのためだけに元気になれ」
 康平が最後は命令口調で言った。
 「ああ」
 和真がそう返事をすると、すかさず康平が言った。
 「ダメだ。ここで『アホ』が出てこないうちはまだ本当の和真じゃない。まあゆっくり休んで和真に戻れ」
 和真は、本当に自分は恵まれていると思い、また泣きそうになった。
 「さっき、須貝先生の話を聞いたども、二、三週間ぐれえ入院しねえばねえだろうって。お前次第だげど。まず、ゆっくり休め」
と節子が言い、
 「ああ」
と和真が答えた。
 「着替えどが、洗面道具どがは持ってきたがらな。あとお菓子どがはそのテレビの下さ、飲み物は食堂の冷蔵庫さ名前書いで入れでおいだがら、ちゃんと食ったり飲んだりすんだよ。美紅は一人で大丈夫だって言うげど、女の子一人にするわげにもいがねえがら母さんは帰っからな。父さんが死んでもまだそんなに自由にはならねえ。今度はまた土曜日に美紅と一緒に来っから」
 「ああ、ありがとう」
 「お母さん、駅まで送って行きますよ。タクシーでもバスでも大変ですよ。結構遠いから。それに俺、練習があるからそろそろ帰んなきゃならないし」
 康平が言うと、
 「いや、いいです。そんなごどまで世話になれません」
と節子は遠慮した。
 「いいんですって。お父さんのお葬式にまで出させていただいたということは、もう俺はお母さんと他人ではありません。限りなく親戚に近い好青年です。全く遠慮はいりません」
と訳が分からないが、いかにも康平らしいことを言って、節子のバッグを持った。
 節子はうれしそうに、
 「和真と父さんのお陰でいい知り合いができた。それじゃあ本当にすみませんがよろしぐお願いします」
と頭を下げた。
 「佳奈さんも本当にありがとうございました。これからもよろしぐお願いします」
と節子は佳奈にも頭を下げ、さらにベッドで横になっている高橋や亮輔にも、
 「みなさん、よろしぐお願いします」
と言い、康平の後ろに続いて病室を出て行った。

 一人だけ残った佳奈は椅子に座り、和真の顔を見ていた。和真は天井を見ていたが、しばらくして呟いた。
 「親子ってなんだろうな」
 佳奈は黙って聞いていた。
 「不思議だな」
 和真は、ぽつりぽつりと間を置きながら、無表情のまま言い続けた。
 「あんなに怖かったのにな」
 「あんなに嫌いだったのにな」
 「顔も見たくなかったのにな」
 「死ねばいいって思った時もあったのにな」
 一段と間を置いた。
 「死ぬと悲しいんだな」
 「死にたくなるぐらい悲しいんだな」
 和真の目から涙が一すじ枕に流れ落ちた。佳奈の目もまた涙で溢れた。
 「親子って不思議だな」
 和真がもう一度そう言い、佳奈も、
 「そうだね。不思議だね」
と言った。
 それから和真は目を閉じ、佳奈はずっと和真の顔を見ていたが、和真が眠ったのを確認して、病室を後にした。

 入院三日目の朝、目覚めると点滴が外されていた。頭の包帯はまだ巻かれていたが、手の包帯は外され、中にガーゼが入った白い大きな絆創膏になっていた。
 幾分か気分もいいように感じた。それまでは看護師に付き添われて行っていたが、一人でトイレに行こうとしてベッドから下りて立ち上がろうとすると、
 「大丈夫か?」
と言いながらすぐに高橋が来てくれた。
 「大丈夫だと思うけど」
 そう言いながら立ち上がると、やはり立ちくらみがした。
 「手伝いますか?」
 亮輔も声を掛けてくれた。
 「いや、大丈夫そうだ」
 そう言ってベッドや壁、廊下では手すりに掴まりながらどうにか一人でトイレを済ますことができた。五号室は、廊下の片側だけに病室が並ぶ病棟のちょうど真ん中辺りにあり、トイレは比較的近かった。
 「どうもすみません」
 戻ってくると和真は二人に頭を下げた。
 「入院したらお互い様」
 高橋がそう言った。
 朝食のご飯はお粥だった。節子の言葉を思い出して頑張って食べたが、おかずも含めて半分ぐらいは残した。
 「どうだ?食後の一服」
 高橋が煙草の箱から一本だけ半分ほど出して、和真に見せた。
 「でも…」
 喫煙所であるウッドデッキまで行けるかとか、須貝の指示を仰がないうちは、などと和真が考えていると、
 「大丈夫、大丈夫」
と高橋は言って、和真に近付くと、腕を抱えてベランダの方へ歩き出した。
 「亮輔も行くぞ」
 「はい」
 そう言って亮輔も二人のすぐ後ろに付いて来た。
 外はいい天気だったが、さすがに夏の暑さではなくなっていて、むしろ、過ごしやすい最高の陽気だった。自然に和真の気分も良くなるような気がした。
「すいか」は相変わらずの存在感を示していた。
和真はデッキチェアーに腰掛けると、高橋から一本煙草をもらい、火を点けてもらった。いつも吸っているマルボロのメンソールではなくハイライトだったが、久し振りなせいかすごく旨く感じ、肺まで深く吸い込んで吐き出してしみじみと言った。
 「旨い」
 亮輔は二人の様子をただ見ているだけだったが、加わっているということに意味があるというような表情をしていた。
 「亮輔君は隠れてでも吸わないの?」
 和真が訊くと、
 「吸ったことはあるけど、あまり合わないみたいで」
と亮輔は答えた。
 「そうだよな。高校生は吸わないほうがいいよ。俺も…、そう言えば野球が終わってからは吸ってたか」
 そう言って少しだけ笑った。
 「お!ニコチンパワーで元気が出てきたみたいだな」
 高橋がおどけて言うと、
 「なんか、そんな感じです」
と今度は完全に笑顔で和真が言った。
 「それでは、あらためまして、ようこそ『すいかメンタルクリニック』入院病棟へ」
と言って握手を求めてきた。和真は高橋と握手をすると、亮輔にも手を差し出し、握手をした。
 和真が立ち上がり煙草をもみ消すと、
 「どうだ?ベッドに戻るか?」
と高橋が訊いてきたが、
 「いいえ、もう少しここにいたいです」
と和真は答え、座り直した。
 「伊沢さん、僕のことは亮輔って呼んでください。そのほうが気楽です」
 「そっか。それじゃあそうするよ。その代わり亮輔…も、俺のことを名前で呼んで欲しいな。そのほうが慣れてるから。それから高橋さんは、俺のことは和真って呼んでください」
 「おう、分かった。それじゃあついでに俺のことも高橋って呼び捨てに…、すんなよ!」
 高橋が怖い顔を作ってまたおどけて言い。二人は笑った。
 そのおどける高橋の様子を見て和真が、
 「あのー、亮輔の話は外来で前に聞いたことがあるんですけど、高橋さんは何でこの病院に…」
と訊こうとして途中で止め、代わりに言った。
 「すみません。こんなこと訊くもんじゃないですよね」
 申し訳無さそうにする和真に高橋は、
 「そんなこと俺には全く気にする必要ないよ。訊かれなくても言うぐらいだから。亮輔もちょっとだけ知ってるし。なあ、亮輔」
と明るく話し、亮輔は、
 「はい」
と答えた。
 「俺はね、今でも一応銀行員なんだけど、四年ぐらい前から急に仕事に行けなくなったんだ。子供はいないけど結婚もしてた。それで、ここじゃないけど病院に行ったら『鬱病』だって言われてね。ショックだった。でも俺以上にかみさんやかみさんの親がショック受けてた。しばらくそれからも安定剤飲みながら働いてたんだけど、二年ぐらい前にとうとう睡眠薬いっぱい飲んで救急車で運ばれてさ。まあ結局、胃洗浄されてどうにか生き返ったんだけどな。そしたら『娘の旦那がノイローゼで自殺未遂した』って。かみさんは、『鬱病』と『ノイローゼ』の違いぐらい分かってくれてたし、『しばらく休んでいれば』とも言ってくれてたんだけど、長く休職してる間に、やっぱり離れてった。経済的なこともあるし、かみさんの将来のこともあるから俺は仕方ないと思った」
 ここまで一気に話し、和真に煙草を一本渡して火を点け、自分も一本くわえて火を点けてからさらに続けた。
 「離婚してすぐの頃かな、この病院を紹介されたのは。それからは調子が良くてね。通院して薬さえ飲み続けてれば何てこと無い。今はちょっと酒を飲みすぎて肝臓をやられたから入院してるんだけど、気分はすごくいい。退院したら銀行に戻ろうと思ってるぐらいだ。全部須貝先生のお陰だ。そんなとこかな」
 言い終わると高橋はまた煙草を深く吸った。
 「すみません。辛いこと訊いちゃって」
 和真が、また申し訳無さそうに言うと、
 「和真、いいか、ここは腹を割って話し合って、お互いに気分を楽にしていく場所だ。だからお互いが患者でお互いがカウンセラーなんだよ。もちろん話したくないことを話す必要は無いし、付き合いたくない奴と付き合う必要は無い。お分かり?」
 「はい」
 「だから和真も話したいと思ったら何でも俺たちに話せばいい」
 「はい」
 すると和真と高橋の話が一段落着くのを待っていたのか、今度は亮輔が和真に言った
 「僕は、一週間ちょっと前にリストカットを深くやっちゃって、救急車で県立病院に運ばれて、処置が終わった後でここに転院して来ました」
 原稿のある自己紹介のような話し方だった。そして亮輔は病衣の左の袖をめくり、手首の包帯を見せた。初めて会った時と同じく包帯が巻かれていない肘の裏の方まで細かな傷がいくつもあった。
 「馬鹿だろ。こうやって人に見せたがるんだよ、こいつ」
 高橋が言った。
 「点滴の時間ですよ!」
 看護師が病室のベランダから叫んでいた。
 「点滴の時間?」
 初めて高橋に会った時もこんな場面があったなと思いながら和真が訊くと、
「ここは三食昼寝付きで、唯一の仕事が午前中の点滴。もちろん人によって中身は違うけど、だいたいの人の点滴は、生理食塩水にブドウ糖、それにアナフラニールとかややこしい名前の抗鬱剤を混ぜたシロモノらしい。まあ少なくとも俺のはそうだ。回診の時に須貝先生に教えてもらった。先生の回診は毎週月曜日の朝だけ。あとカウンセリングや検査がある人もいるけど、あとは自由。病室で本を読んでも音楽聴いても、編み物しても、一日中寝ててもOK。午後に食堂に行ってみな。プラモデルやジグソーパズル作ってる奴、いろんな奴らが楽しそうに話しながら自分の好きなことやってるから。一人がいい奴はベッドをカーテンで仕切って、みんなと一緒がいい奴は食堂で、とにかく人に迷惑さえ掛けなければ何しててもいい。それがこの病院。自由に休むのが何よりの治療」
 「へえー」
 和真は単純に感心し、そしてカウンセリングという言葉に伶のことを久し振りに思い出した。
 「鬱病の人間が、我慢したり隠したりしないで堂々と鬱病していいのがここだ」
 高橋は、そう言うと立ち上がり、続いて和真と亮輔も立ち上がって病室に向かって歩き出した。和真は多少ふらつくような気がしたが、壁を頼りに一人でも歩いて行くことができた。

 夕方に康平と佳奈が来た。和真はベッドに上半身起き上がっていた。
 「だいぶ良さそうじゃん」
 康平が言うと、
 「お陰様で」
と和真は言った。
 「気分は?」
 佳奈が訊いた。
 「よく分かんねえな」
 そんな会話をしているところに伶が入ってきた。
 「起きてる和真君に会うのは久し振りだね、どう?調子は」
 「いや、よく分かりません」
 自分が眠っている時にも来てくれていたんだということと、久し振りに伶の姿が見られたことで、和真は正直うれしかったが、佳奈の存在が気になり、顔には出さないように努めた。
 「こんにちは」
 伶は、康平と佳奈に挨拶をした。
 康平は「どうも」と言い、佳奈は「こんにちは」と言ってお辞儀をした。
 「この方たちが、たった二人の親友?」
 伶は和真に言った。
 「そうです」
 和真はきっぱりと言った。すると康平が、
「そっかあ、俺にとってはごくごく一部でもお前にとって俺の存在はでかいんだな。いやあさすが俺だ。これからはもっとお前を大事にするように気を付けるよ。そっかそっか」
と眉間に皺を寄せて真面目な顔で言い、みんなを笑わせた。
 笑いが一段落すると、伶はこれからのカウンセリングについての説明をした。
 「和真君はこれからも週一回のペースで定期カウンセリングをします。外来のカウンセリングが五時までなので、五時から六時までの間になります。詳しい時間は看護師さんから連絡があります。それで今日早速、この後、五時半からやりたいと思うんだけど」
 「はい」
 「それじゃあ時間になったら相談室に来てください」
 「はい」
 伶は和真に説明し終わると、今度は亮輔のベッドの方へ行き、
 「亮輔君は元気?」
と亮輔に声を掛けた。
 「はい。元気です」
 亮輔は伶の顔を見ながらうれしそうに答えた。
 「藤沢先生、俺のカウンセリングは?」
 高橋がベッドの上で言った。
 「毎回毎回同じこと言わないでください。高橋さんのカウンセリングは先生から全く指示が出ておりません。毎回毎回同じ回答ですみません」
 伶が笑いながらそう答えると、みんなが笑っていた。
 「それじゃあカウンセリングもあるみたいだし、私たち帰るね」
 佳奈はそう言い、和真に軽く手を振った。
 「んじゃあな、ごく一部の親友!」
 康平もそう言い、二人で病室を出て行った。そしてその後を追うように伶も出て行った。

 和真は相談室に入るのがすごく久し振りに感じた。そしてあらためて「相談室」という表示を眺めた。するといつもとは違う何かがこれから自分の中で起きそうな予感がしていた。それは自分の心の変化に裏打ちされたものだった。
 カウンセリングが始まると、伶は少しの間、和真の顔を見つめ、そして話し始めた。
 「お父さんのこと、大変だったね」
 「はい」
 「疲れたでしょ」
 「はい」
 伶の声はいつもの何倍も優しく、和真の心の奥底まで響いた。
 「そうだよね。たった一人のお父さんだもんね」
 伶のその言葉を聞いた瞬間、和真の中で何かがスーッと溶けていったような気がした。
 そして和真はこの相談室で隆の批判ばかりしてきた自分を思い、それを恥じ、言った。
 「親父は俺に最後にこう言いました。『負けた奴は努力が足りなかったんだ』って。その通りなんです。全く親父の言う通りなんです。俺は野球特待生や学校の売名行為や金、大人の汚いやり方に負けたとずっと思って、ふてくされて生きてきたけど、俺は努力で負けたんです。勝った奴らは俺たち以上に努力していた。一番努力した奴が勝つんです。正確に比較することができたとして、もしそうじゃなかったとしてもそう思わなきゃならないんです。負けた奴は。もっと努力しなきゃだめだったんだって。俺は努力で負けたんです。親父は最後にそれを俺に教えてくれた…。こんな当たり前のことをこの馬鹿息子に。結局、最初から最後まで俺に野球を教えてくれたのは親父でした…」
 途中から涙声になり、最後は完全に泣きながら話していた。それからしばらく和真の嗚咽は続き、伶は黙って見守っていた。
 五分ほど経っただろうか、和真が落ち着いてきたのを見計らって伶が言った。
 「和真君がね、抱えているのは大きく分けて無力感と喪失感だと思うの。だけどね、さっきの和真君の話によると、その無力感をお父さんがだいぶ解決してくれたんじゃないかな。で、残りは喪失感。それは大きく分けて二つあると私は思う。その一つが『お父さん』。生きてらっしゃった頃から和真君はお父さんを喪失していたんじゃないかな。ところが本当に亡くなられてしまった。これは帰って来ない。でもね、さっきの話を聞いていると亡くなられたことで逆に和真君はお父さんを取り戻したように思うの。もちろん悲しみは残る。でも今の和真君ならこれは自力で乗り越えられる。絶対に」
和真はこれまで以上に真剣に、そして集中して聞き、無言のまま伶の次の言葉を待った、
 「そしてもう一つが野球」
 和真は驚いた。全く予想していない言葉だった。
 「さっき、お父さんが最初から最後まで教えてくれたって言ったけど、別に最後にする必要は無いんじゃないかな。お父さんがどういうつもりで話したか私には分からないけど。ごめんね。親子のことまで入り込んで。それにカウンセラーはあまり推測でものを言っちゃあいけないんだけど。でも私はそう思うの。私は、和真君は野球をまたやったほうがいいと思う。どんな形でもいいから」
 今までに無いような力の込もった声だった。
 和真は、何より伶が何度も「私は」という言葉を使ってくれたのがうれしかった。カウンセラーの立場としてでもいい、その言葉の熱さがうれしかった。
 だが、伶の最後の言葉は、全く思い掛けず、また和真にとってあまりに重要なことで、すぐに答えを出せるようなことではなかった。

 「考えて見ます」
 和真はただそう答えた。
 「あまり考えすぎて調子崩さないでね」
 伶は、また優しい口調に戻って言った。
 「それにしてもいい友達ね」
 伶は話題を変えた。
 「はい」
 「さっき帰り際にちょっとだけ話をしたんだけど、二人も和真君のことを本当に大切に思ってるんだってすごくよく伝わってきたよ」
 「はい。俺は恵まれてます」
 「そうだね」
 「はい」
 「それじゃあ、今日はここまでにしますか」
 「はい。ありがとうございました」
 そう言って、和真が立ち上がろうとした時、伶が「そう言えば」と言って続けた。
 「亮輔君のことなんだけど」
 「はあ」
 「すごくいい子なの」
 「分かります」
 「でね、すごくかわいそうな子なの」
 「はい」
 「和真君とはすごく話が合いそうだから、よろしくお願いね」
 「はい、分かりました」

 病室に戻ると、六時を過ぎていた。
 「和真さん」
亮輔がベランダで和真に手招きしている。高橋もベッドに腰掛けて窓の方を向いている。そばに行って外を見て、和真は目をみはった。すいかのタンクが綺麗にライトアップされていた。
 「すげえな。今まで気付かなかった」
 「そりゃそうですよ。和真さんはこの時間、寝てばっかりでしたから」
 「そっかあ」
 「これから暗くなるともっと綺麗になるよ。八時には消えるけどな。ほら、じじいやばばあは寝るのが早いから消灯前でもうるせえのよ、カーテン閉めても明るくて寝れねえとか言って」
と高橋が口の悪い説明を加えた。そして、
 「一服しに行くか」
と和真を誘った。
 「はい」
 和真はいったんベッドに戻り、外来の自動販売機で買ったセブンスターのメンソールと高橋からもらった百円ライターを手に取るとウッドデッキに向かった。もちろん亮輔も付いて来た。
 ウッドデッキの屋根にも一個だけ電球が付いていたが、それ以上に「すいか」のライトアップの反射のほうがその場の明るさの役に立っているようだった。
 「いいメンバーになって良かった」
 デッキチェアーに三人が座ると高橋が煙草に火を点けながら言った。
 「俺たちが来る前はどんな人たちだったんですか?」
 和真が訊いた。
 「いや、悪い人たちじゃなかったけど、あまり話はしなかった」
 「何でですか?」
 今度は亮輔が訊いた。
 「仕方ないんだよ。こういう病院だからな。鬱病で話好きなんて、逆に俺のほうが変なんだよ」
 「そんなことないですよ」
 亮輔がフォローした。
 「みんな心に何らかの傷を負ってる。傷を負って病気になる人、病気になって傷を負う人。みんな辛いんだ」
 重い言葉だと和真は思った。そして高橋が少しずつ感傷的になってきているのを感じていた。
 「この病院に入院して、本当に俺はいろんなことを勉強させられた。親から愛されずに育って鬱になった人、かみさんに先立たれて自殺未遂して、その後鬱になった人、仕事も順調、家庭も円満なのに鬱になった人、いろんな人がいて、いろんなことを考えさせられた。そして自分についていろんなことが分かった。かみさん、いや、あいつのことも」
 高橋は大きく煙を吐き出した。
 「銀行に戻る自信が無いんだ、あいつなしでは。本当に俺のことを分かってくれるのはあいつだけなんだ。あいつしかいないんだ、俺には。もうちょっと早く、あと一年早くこの病院と出会ってたら…」
 高橋は、そう言って下を俯いた。和真と亮輔が高橋に掛けてあげられる言葉は無く、しばらく沈黙が続いた。
 煙草を消しながら無理やり気を取り直すようにして高橋は言った。
 「すまん。いい歳して恥ずかしいな、未練がましいこと言って」
 「そんなことないですよ。何でも話したいことを話すのが『すいか』でしょ」
 和真が優しく声を掛けた。
 「そうですよ。僕なんか高橋さんや和真さん、須貝先生や藤沢先生、それに優しい看護師さんたちに囲まれて、いろんな話を聞いたり、聞いてもらったりできて本当に楽しいです」
 亮輔がきらきらとした目をして言った。
 「亮輔の場合は、『藤沢先生と一緒にいられて』だろ」
 高橋が茶化して言った。
 「違います。みんなです。『すいかメンタルクリニック』全部です。ここが僕の最高の居場所です」
 和真は、さっき伶が亮輔について言った言葉を思い出していた。
――本当に純粋でいい奴だ。
 そう思った。ただその純粋さに潜む危うさも和真なりに漠然と感じていた。
 「しかしあらためてここから見ると見事だな」
 高橋が「すいか」を見ながら言った。
 「そうですね。俺たちがいるここもちょうどいい明るさだし」
 和真が言うと、
 「これで生ビールなんかあったら最高だろうな」
と高橋がジョッキを持つ仕草をしながら言った。
 「ダメですよ。高橋さんは特に」
 亮輔がたしなめた。
 「おー、セブンティーンに注意されちゃったよ」
 高橋が笑いながら頭を掻いた。
 和真は、辺りがすっかり暗くなり、一段と綺麗にライトアップされた「すいか」を見ながら、
――自分はここでも本当にいい人間に恵まれた。
と思った。

つづく

2008年ソニー・デジタルエンタテインメントより発行 iBooks、Kindle、コミックシーモア等から販売
現在の著作権は著者に帰属

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