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アントニオ猪木による「世間と戦う」理論とその構造とは? 格闘技はどこへ行く

 われわれはたえず物語を求める。物語は通常、外からやってくる。プロレスというジャンルは、その物語を自己に内包する形で、自らが物語の構造を生み出すことを最大の要素として組み込み、大衆化させることに成功した、きわめて稀有なジャンルである。

 その物語構造を支えるものは、常人離れした強靭な肉体と、実際に骨肉を断つ戦いのリアリティーなのだが、同時にその身体は、自らが生み出した物語世界の中に投じられたものであり、レスラーは二重化された自己を行き来しながら演じるものとなる。

 もしプロレスが、前者の要素だけであれば、総合格闘技や喧嘩に限りなく近づいていくであろう。後者の要素だけであるならば、それは大衆演劇や映画などと変わらないものになってしまうであろう。「強さ」と「魅せる」という要素の掛け合わせにおいて「受けの美学」が成立している格闘技なのである。

 しかし、プロレスがさらに複雑な仕掛けになっているのは、身体的なリアリティと、こういってよければ虚構=フィクションの要素が掛け合わされて成り立っているばかりでなく、前者のフィジカルの部分においても、プロレスこそが「キングオブスポーツ」であるという二重三重の物語化をはかってきたゆえ、ユニークなのだ。その物語化は、見る者に「プロレスは最強である」(ガチでやったらもっとも強い)という幻想を与え続けてきた。

 その「現実/物語」のさらなる物語化ともいうべきメタ構造の完成者こそがアントニオ猪木だったわけだが、プロレスが総合格闘技(以下MMA)というフィジカルだけに徹した競技と対峙してしまった時、プロレスは自ら作ったその構造を飛び出してしまったことによって「現実」を露呈させてしまう。

 それまで抱かれていたプロレスラー最強幻想は、日本に黒船のごとく上陸してきた、MMAの前身である「アルティメットファイト」とヒクソン・グレイシーの登場により、ことごとく打ち砕かれてしまったのである。

 猪木イズムの継承者であり、格闘技路線のプロレスを打ち立てていた団体のエースである高田延彦は二度ヒクソンと戦ったのだが惨敗した。同じく「パンクラス」というリアル路線を突き詰めた団体のエース船木誠勝もヒクソンに敗れることで、プロレスが最強であるという幻想を持っていた信者らは厳しい現実を突きつけられることとなる。

 現在においては、MMAとプロレスは、明確にジャンル分けされ、それぞれがそれぞれのコンテンツとしてファンから支持されている。しかし、ここに至るまでの道のりにおいては、プロレスがMMAと争い、呑み込まれていくという、葛藤と苦悶の歴史があり、それまでアントニオ猪木が作り上げてきた「プロレスラー最強」のイデアが消滅したのち、今のような平和的な「並存」の関係性があるということは指摘しておかなければならない。

 プロレスラーはもはや「最強」を名乗ることはなく、プロレスはプロレスというジャンルとしての「最高」を追求しているといえるだろう。

 ちなみに、その葛藤の歴史において、『PRIDE』で活躍した桜庭和志がなぜあそこまで英雄になりえたか。彼こそが高田延彦の弟子であり、かつてUWFインターナショナルというプロレス団体の若きレスラーであったこと、そしてプロレスの最強幻想を打ち砕いたヒクソン・グレイシー率いるグレイシー一族の猛者たちを次々と総合格闘技というリアルファイトの中で打ち倒すことにより、再びプロレスラー最強幻想を回復させた立役者だったからである。桜庭和志による「プロレスラーは、本当は強いんです!」という発言は、まさに上記のような文脈において理解されなければならない。

 総合格闘技は、競技内における「魅せる」要素は極力排除し、フィジカル的な強さの追求のみを徹底させることで進化してきたスポーツであるといえるが、こと観客動員を必要とする興行においては、この「物語」の構造から逃れることはできない。そのことについては以前にも書いた。

 小さな団体はともかく、『RIZIN』というビッグプロモーションにおいては、この物語要素なしに、存続していくことは難しいであろう。どんなにリアルファイトにおける強さがあったとて、物語性を生み出せない者は、なかなか客を呼べる存在たりえない。

 ボクシング界における井上尚弥やあるいは那須川天心のように、突き抜けた「強さ」の証明により、外からの幻想を作るケースももちろんありえるが、今の総合格闘技は、絶対的な強さを持つ存在がなく、実力が均衡し、誰が勝者になってもおかしくない乱立した状態である。

 唯一、UFCからの逆輸入で日本にやってきた堀口恭二が、絶対王者にふさわしいパフォーマンスを見せているのだが、彼はまたRIZINを飛び出し、アメリカで戦うということを選んだ。堀口のように愚直なまでに「強さ」のみを追求する者にとって、競技のうえで最もレベルが高い場所へ行こうというのは当然の心理であろう。

 堀口ほどの強さがなく、実力が均衡している者同士が、競技性のみを追求するのみでは、なかなか客を呼べるスターは生まれない。しかし、いったんその強さを度外視したところで、それでもカリスマ性を持つ人間が、RIZINには二人だけいる。自己に物語を内包し、かつその発信によって強烈に見る者をひきつける存在が。

 それが、朝倉未来と平本蓮である。

 そして先日に行われた『超RIZIN3』における、朝倉未来VS平本蓮は、今のRIZINがもっとも客を呼ぶことのできる二大スターの競演なのである。二人は最強戦線からははずれたところに位置する。にもかかわらず、この二人の戦いが「超歴史的」と位置付けられるのは、まさにRIZINの現状を物語っている。

 ここで冒頭に戻るが、われわれ見る者は「物語」を求めている。そしてこの朝倉未来と平本蓮を語るうえで、なぜプロレスの構造から話を始めたのか、理由はわかってもらえると思う。この二人のカリスマが作り上げてきた世界観というものは、魅せるスポーツ、興行としてのプロレスと同じ構造を持っており、われわれもまたその構造を求めるゆえ、今回のような熱狂が生まれたのだと思う。

 その意味でこの二人は、とりわけ朝倉未来は、かつてアントニオ猪木が「世間と戦う」と言っていたように、世間を巻きこむ吸引力と、ファンが今求めているものは何か、そのニーズを探り当てる嗅覚が天才的なのである。だからRIZINの榊原社長が、朝倉未来はアントニオ猪木に近いという発言をしていたのも、あながち的外れとはいえないのである(ジャンルの違いや実現してきたことの功績うんぬんは別として)。

 この日、多くのファンは、「朝倉未来の復活劇」という物語こそを期待していた。実際に私もそうであった。そして一度は砕かれた「最強」への道を、今の朝倉未来なら実現してくれる。そう思った。幻想は膨れに膨れ、破裂寸前のところまできていたであろう。

 そしてその破裂は、残酷的な形で現実化した。見る側の思い通りにいかないところが、MMAが持つ「リアル」な部分である。

 1R 2分18秒 TKO(レフェリーストップ:グラウンドパンチ)で、平本蓮が、朝倉未来の存在を文字通り沈めた。朝倉未来のリアルを、平本蓮が大きく上回ったのである。

 あまりの唐突な終わりに、しばし言葉を失い呆然としたファンは多かったであろう。私もまたその一人である。この現実は「受け入れられない」というのが、まず先にきた。しかし、われわれは目撃してしまったのである。

 それはさながら、コッポラの映画『地獄の黙示録』がラストでみせた、ジャングルの王カーツ大佐に鉈を振り落としたウィラード、そのウィラードが今度はジャングルの王になるという、「王の交代」を象徴するシーンのような、カリスマの「交代劇」である。

 朝倉未来は一線を退き、平本蓮は手中にしたこの勝利によって、新たな覇者として君臨するであろう。むろんそこからさらに最強戦線のトップに食い込むという要素が加われば、それはより強固なものになっていくと思われる。

 こうしてファンの幻想は、朝倉未来から、平本蓮に移行していく。

 敗れた朝倉未来は、リング上でしばし呆然としていた。負けたことの現実を受け止めることに時間がかかっていたように見えるが、彼の翌日の動画コメントは潔かった。朝倉未来はこの敗戦により自覚したのだと思う。一つの時代における「覇者の交代」を。

『地獄の黙示録』でカーツ大佐は、「恐怖だ」と言い残し、息を引き取るが、われわれが見たこの交代劇も、ある種の格闘技の残酷さ、恐怖だったのかもしれない。この恐怖を超越し、その恐怖さえも友にすることはできるであろうか。

 朝倉未来と平本蓮――

 われわれRIZINを見る者は、いまだ、この二人が作り上げた構造の中にいる。

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