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『ハマヒルガオ』第12話:言葉のチカラ


第12話:言葉のチカラ


 アズミノ国が起こした事件など、最初からなかったかのように、日々は流れていった。
 クラスメイトは六夏(りくか)と距離を置くようになり、話し掛けるものはいなくなった。六夏を取り巻く環境は、アズミノ国が誕生する前に、すっかり戻っていた。まるでアズミノ国自体が、六夏自身が見ていた幻影であったかのように。六夏はもはや女王ではなく、ただの人となっていた。いや、誰にも相手にされないという点では、人以下の透明な存在であったのかもしれない。それでよかった。このまま卒業するまで、無為な時間が静かに過ぎてゆけばよい、六夏はそう願っていた。

 祖父の様態が急に悪化したと、母が深刻な顔をして六夏に知らせたのは十二月、学校が冬休みに入ってからのことであった。
 アズミノ国の崩壊から、すでに二か月が経とうとしていた。学校が休みというのは六夏には都合がよかった。クラスメイトとの関係や、さまざまな煩わしい思いから断ち切られ、好きなだけ自分の時間を過ごすことができるからであった。休みの間、六夏は離れの小屋の祖父の書斎で、本を読んでいた。祖父が書いた手記への関心は次第に薄れていた。紙片の方を読んでしまってからというもの、本来の手記の方が読めなくなっていて、最後の第七章についてはまだ、手付かずであった。それよりも、祖父の書棚にあった梶井基次郎などの文庫本を読むことに夢中になっていた。そんな折に、母から祖父がもう危ないかもしれないと告げられ、急遽、家族全員で病院へ行くことになった。検査入院の結果、六夏が不安視していたように、祖父が癌であることは、父と母から以前に知らされていた。

「祖父はもう長くはない――」

 そう父に言われたのだが、六夏は信じなかった。自分の目で確かめなければ気が済まないと、学校が終わってからも何度か見舞いに行っている。祖父が見る見るうちに痩せこけているのは確かであったが、それでも六夏と会話ができる力はあるようだったし、昔話や本の話をしては、いつもの笑顔を振りまいてくれていた。

「大丈夫、お祖父ちゃんはまた家に戻ってくる」

 何の根拠もなかったが、六夏はそう信じて疑わなかった。

――信じることは、現実になる。

 そうお祖父ちゃんも書いていたじゃない。だから、私は信じるだけ。そう六夏は祈るような思いでいた。
 病院の待合室で、親戚の主一伯父さん、百合子伯母さん、美津子叔母さんとも合流し、祖父のいる病室に向かった。
 
 ベッドの上の祖父は、皮膚と骨だけになってしまったかのように痩せこけていた。存在の重み、というものはそこにはなく、肉感、精気といったものがまるで感じられない。吹けば飛んでしまいそうな、あるいは触れれば粉々になってしまいそうな軽さがあった。
 六夏たちが入ってきても、振り返ることもなく、横たわったまま、同じ方向、ただ一点を見つめている。祖父の鼻には点滴の管が通っていた。

「お祖父ちゃん、六夏と睦斗が来たよ」

 母が祖父の耳元で声をかけるが、祖父は譫言のように口をもごもごさせるだけで、いつもの感じで声を出すことはない。

「お祖父ちゃん」と六夏が訊ねても、そこにいるのが六夏であるということもわかっていないようであった。

「仕方ないことなのだ」と父がぼそっと言う。
 
 癌は既に全身に広がっていて、手の施しようがないのだと父は説明する。全身に広がった癌がもたらす痛みは想像を絶する、そのため、薬でその痛みを和らげる必要があるのだが、薬の副作用が強すぎるため、意識も朦朧としてしまうとのことだ。
 なんとなく、覚悟はしていたことではあるのだが、六夏は祖父の現実を目の当たりにして、それを受け止め切ることができなかった。まだ死んだというわけではないのに、もう祖父とはお別れなのだと思うと、涙が止めどなく溢れ出てくるのであった。

「やだよ、お祖父ちゃん。ねえ、お話して。私もお話ししたいことがたくさんあるの」
 
 六夏は祖父の手を握り、泣きじゃくった。六夏には、祖父にどうしても伝えておきたいことがあった。
 それは、六夏が日本列島の地理上で見出した、新たな「発見」である。
睦斗も、六夏につられるようにしてすすり泣いていた。
その姿を見て、それまで気丈に振舞っていた母も、嗚咽のような声をあげむせび泣くのであった。百合子伯母さんも美津子叔母さんも口元にハンカチをおさえて目と鼻を真っ赤にさせていた。

「お義父さんは幸せ者だな」

 主一伯父さんもこみあげてくる感情を抑えきれず、目頭を熱くしていた。
 すると、六夏の声には一切反応しなかった祖父が、六夏が握っていた手を力強く握り返したのであった。

「え?」

 驚いた六夏は目を見開く。

「お祖父ちゃんが手を握ってくる」

「お祖父ちゃん、六夏よ。六夏はわかるのね?」と母が祖父の耳元で、涙を拭いながら訊く。祖父は口元を動かすことはない。しかし、その握っていた手は、とても病人とは思えないほどに、次第に強さが増してくるのであった。

「やだ、お祖父ちゃん凄い力」
 
 試しに手を離そうと思ったのだが、その力強さは容易に振りほどけるようなものではなかった。
 すると、それまで魚の目のような瞳孔で一点だけを見ていた祖父が、ギョロリと目玉を動かし、一瞬だけ六夏の方に視線を向けるのであった。
 祖父がようやく自分に気付いてくれたと嬉しくなり、六夏は思わず「お祖父ちゃん」と叫ぶのだが、祖父の視線はまた元に戻ってしまった。

「そうね、お父さん、六夏を連れていきたいのね」

 その光景を見て母の波月(はづき)は思うところがあるのか、ハンカチで口元をおさえながら、うんうんと力強く頷き、一層に涙を流すのであった。
 

 祖父は、謎を残したまま、この世から去ろうとしている。
祖父との別れが現実的になってきたことを受け止めた六夏は、来る日も来る日も祖父の書斎に籠った。そしてまた、祖父が残した手記『阿泉家の歴史と賦霊の力について』を読み始めていた。そして、読み残していた「第七章『阿泉家が持つ力、その宿命と使命について』」には、紙片の内容とは真逆のことが書かれていたのだと改めて発見する。

権力と言葉の結びつきは確かに強固である。しかしこの権力に対して、武力や暴力で抵抗することは、絶え間ない争いを生むだけである。また、権力にとって替わるものは別の権力でしかないことも歴史から学ぶところである。しかしわれわれは、国家や社会システムにおける力学的構造を、支配と被支配という関係ではなく、調和や均衡のとれた〈共和〉という構造として目指すことはできないのか。民主主義は、国民自らが自らを支配するということを理想とする。だが、現実はそうなっていない。民主主義は、容易に独裁や専制政治に転換してしまうことも、このシステムが持つ欠陥ともいえる。しかし、この民主主義を一つの理念として、歴史が動いてきたことも事実である。アメリカの独立革命、フランス革命は、結果としては、不十分であったかもしれないが、少なくとも、現行の権力に対して国民を突き動かしてきた。その理念とは、何であったか。

それは、言葉であり、思想によってもたらされるのである。権力は言葉により強固なものとなるが、その権力に対抗する力もまた、言葉であるということは、私たちは哲学者や文学者が示してきた実例を知っている。

『阿泉家の歴史と賦霊の力について』612頁

 祖父が書き残した手記と紙片という二つのテクスト。祖父がくだした結論は、分裂している。整理すると、手記に書かれているものは、権力に対しては言葉で戦う。その力を信じる、とある。対して紙片に書かれていたことは、権力に対しては武力での抵抗。古の種族たちよ、蜂起せよと、まったく相反することが主張されているのだ。このことから、祖父は、どちらが自分にとっての正しい主張であるのか、最後まで迷っていたことがわかる。しかし、二つの結論があっては、論理としては成立しない。そのため、[第八章] だけ切り離し、ないものとして扱おうとしたのだろう。
 
 祖父の手記を読み終えた六夏は、祖父が残した謎については、自分自身で答えを見つけ出すしかないのだと思った。祖父の書斎机を前にし、祖父はずっとこの机で手記を書き続けていたのだと、思い馳せる。
 書斎机の隅に、歴史を感じさせる、高価そうな万年筆が転がっていた。六夏はその万年筆を手に取ると、サイドデスクに積まれていた、使われていない新品の大学ノートを引っ張り、白地のページに文字を書き記した。これまで、さまざまな書物を読んできた六夏であったが、自発的に文章を書くということは初めてであった。最初の一語を記すと、言葉がすらすらと出てきて、オートマティックに文字が刻まれていくような感覚があった。
 

阿泉文斗が陥った矛盾。これをどう捉えるべきなのだろうか。調和か対立か、という問題に対し、結局彼は答えを指し示していない。仮にもし、調和は不可能なのだということが結論なのだとすると、「古の種族は自然と調和するものである」という表現も、間違っていることになる。そもそも、文明化したこの人間社会において、対立も争いもない調和ということ自体が不可能なことなのだろうか。そんなものは文明化する以前の過去の理想像を、現代に投影しているだけにすぎないのか。しかし、もしこの世界が、対立や競争こそが人間の本質であり、弱肉強食の頂点に立つための力こそが真理なのだというのなら、愚かさが真理だということにはならないだろうか。なぜなら、力学的関係性における強弱の問題は、生命史という時間軸、視点に立てば、相対的かつ短絡的な見方に過ぎないように思えるからだ。そんな脆弱な論理を、神が絶対的な真理として有しているだろうか? 人間にはもっと尊い知性があるはずである。その尊さという理念が人間から出てくる限り、少なくとも神の知性においても、強者のみが是であるという理論が真理であるはずがない。

『「阿泉家の歴史と賦霊の力について」をめぐってのノート』・阿泉六夏


 六夏はそこまで一気に書き記すと、ノートを書斎机の引出にしまい、書くということにおける静かな興奮を噛み締めた。文章を書いている時、六夏はさながら自分が作家になったような気持ちになっていた。なるほど、これが、祖父が学生の頃から志していたことなのかと、なんとなく祖父の気持ちがわかったような気になっていた。

 ところで、六夏がどうしても祖父に伝えたかった「発見」とは、六夏が日本地図上で新たに見つけた、阿泉三角形という考え方から派生した仮説である。
 
 日の本、出雲、夷隅。

 この三点が、これまで祖父が伝えてきた阿泉三角形のことなのであった。六夏が発見したものとは、古の種族ではなく、新しい種族によってもたらされた神に関わる。その神とは、オオクニヌシ様に代わって新たに日本列島を支配することになり、日本の最高神とされるアマテラスオオミカミのことである。そのアマテラスオオミカミが祀られているのは、三重県、伊勢神宮であるというのは日本人であれば誰もが知ることであろう。この伊勢神宮と、オオクニヌシ様の出雲大社、そしてその出雲の民の末裔の故郷、夷隅郡御宿の三点を指で辿るとどうなるか。驚くべきことに、こちらも均整のとれた美しい二等辺三角形が浮かび上がったのである。それも、大きさや形が、極めて阿泉三角形に近似しているのだ。

 この発見により、六夏は次のような仮説を導いた。
古来より対立していたはずの古の種族と新しい種族は、支配をめぐっての戦いの後にも共に協力し、二重にも三重にもこの日本列島に結界を張ることで、オオクニヌシ様の眠りを妨げないようにしているのではあるまいか。
六夏はこの新たに見出した三角形と、阿泉三角形を合わせることで、阿泉六角形と名付けたかったのだが、残念ながらこの軌跡は六角形にはならない。このことについて、祖父の見解を聞きたかったし、よくぞ発見したと褒めてもらいたかったと、六夏は思う。この新たな仮説についても、色々と調べて、自分なりの文章にしたいと思っている。

 祖父が志したものは、私が引き受ける。祖父が書けなかったことは、私が書き継ごう。今日から、この書斎は、私のものである。それも祖父が所望していたはずである。
 



 雪も降るのではないかという、年の瀬。
ある日の早朝、六夏は阿泉家で不思議な光景を目の当たりにする。それは、御宿町内で商売をやっている人や、町内会の人らがこぞって父、龍二を訪ね、年末の挨拶ということで、阿泉家の外で行列を作っていたのである。その中には、六夏のクラスメイトの親もいて、山本康介や細川隆雄らの母親が順番待ちをしているのであった。山本康介の母親の番になると、何やら、父に対して、平謝りしている様子がうかがえる。一体何ごとだろうと、六夏もリビングから顔を覗かせそっと様子を見守っていたのだが、どうも彼らは、御宿小学校で起きた例の事件について話しているようであった。その内容に六夏は耳を疑った。

「先日の件は誠に申し訳ございませんでした。うちの息子が、阿泉さんを巻き込んでしまって。本人はとても反省しておりますので」
 
 一体どういうことだ? と六夏は思う。すると、父が爽快に笑い、

「まあまあ、山本さん、そんな気にしないで頂きたい。あの件は、子供たちのやったことですから。個性が強くてよいじゃないですか、わが御宿町の小学生たちは」などと言い、山本康介の母親の肩をポンと叩く。それに対し、「本当に申し分けございませんでした」と山本の母は深々と頭を下げ、その場を去っていくのであった。
 その次は、細川隆雄の両親が二人揃って現れると、父に対し、酒の一升瓶や、手土産のようなものを手渡している。

「なんて、お詫びしてよいものやら。うちの息子が、白状したのです。あのバカ息子、どうやら阿泉さんの娘さんを侮辱するようなことをしていたらしいのです」

「細川さん、もういいのです。過去のことをどうこう言っても仕方がない」

 またも父は高見にいるような調子で発言をしている。
 なぜだ、なぜだ? 六夏の頭の中が混乱を極める。なぜ、皆、父に対して詫びているのか。今度はなんと、平田蓮もまた、両親と共にやってきた。

「本当にありがとうございました。このアホがとんでもないことを起こしたにも関わらず、話をつけてくれまして。このご恩はどう返してよいものやら、感謝してもし尽くせません」

 平田蓮の父親はそう言うと、平田蓮の頭を抑えつけ「お前も礼を言うんだ」と荒々しく頭を下げさせる。

「平田さん、いいんです、いいんです。可能性あるお子さんの未来だ。大人たちが道を塞いでしまってはいけない。私はそう思っているのです」

 客は次から次へとやって来て、父との挨拶を矢継ぎ早に交わしていく。
そして最後にやって来たのが、なんと事件で被害に遭った瓜田恭二と、その父親らしき男であった。父親らしき、というのは、どうもその身なりや雰囲気が、一般の人たちとは異質なものを感じさせたからだ。体格は、父と同じくらいの大きさだろうか。体中からどこか、凶暴な匂いを放っている気がする。それは気のせいとかではなく、小学生である六夏にもすぐにわかった。本能的に危険なものを察知するセンサーが働いているのだ。すると、先ほどまで框から見下ろすようにして挨拶に応じていた父が、框を降り、慌てて靴を履くと、
「これは、これは、瓜田さん。どうしてまた」と腰を低くする。

「阿泉さん、この度は本当に申し訳なかった」とその男は、喉に痰が絡まったようなしゃがれた声を出す。

「いえいえ、とんでもございません」と父がまた低頭する。

「こいつは瓜田家のとんだ恥晒しだ。小学生相手に何をやっているんだと、灸はすえておきましたから。今回の件は、ご堪忍ください」

 男はそう言うと、ずっと突っ伏したままの瓜田恭二の頭を力強く小突くのであった。瓜田恭二は何か言いたげな、鋭い目付きで睨むのだが、父親には何も言い返せないようであった。

「阿泉さんから話を頂いてよかった。こいつは、どうやら御宿小学校の子供たちに、仕返しを企ててみたいでして。お話を頂いてなかったら、危ういところでした。もっと悲惨なことが起きていたかもしれません。そうなったら、この御宿町もおしまいだ。こんな陰毛も生えてきたばかりのガキが、自分たちより小さいものに対して、悪い大人たちの真似事をやっているなんて世間にでも知られたら、とんだ笑い者ですよ」

「確かに」

「まあ、とにかく。御宿町の繁栄のためには、阿泉さん、あなたの力は不可欠ですから。これからも、子たち共々、仲良くお願いいたします」

「ええ、もちろんです。またこちらからもご挨拶にお伺いします」

 父がそう言うと、男と瓜田恭二は背を向け去っていった。
 
 父は、庭先まで、その男を丁重に見送っていた。どうやら、父にとってもその男の存在は、地位が高い人間のようであった。しかし、一般の人とは明らかに何かが違う。もしかしたら、祖父が言っていた、「父を取り巻く悪い連中」とは、彼らのことなのかもしれない、と六夏は直感したのであった。
男を見送った父が、再び家の中に戻って来る。六夏は父と入れ替わるようにして、リビングから飛び出して、二階の自分の部屋へ戻ろうとした。父とすれ違う時、六夏はいつものように、父には何も声を掛けずに行こうとしたのであった。

「聞いていたんだろう? お礼の言葉もなしか」と父が声を漏らす。六夏はそれすらも無視し、足早に去った。

 階段を駆けあがっている時、下から父の声があった。思わずびくりとし、六夏は一瞬立ち止まる。気になって振り返ると、父が階段の下でこちらを見上げるようにして立っていた。

「六夏、もう少し、俺を敬うんだな」

 父はそう言うと、六夏の感情を見透かしたような目で、凍ったような視線を送るのであった。
 

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