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『ハマヒルガオ』第4話:海と弟


第4話:海と弟

 
 翌日の日曜の朝、六夏(りくか)は御宿海岸にいた。

 睦斗(むつと)には内緒で、こっそり練習している姿を見に来たのであったが、睦斗の姿はどこにもなかった。それもそのはずで、御宿の海は、波一つ立たない静けさであった。波の調子が悪いとわかると、陸斗たちはサーフショップの店長の運転で、西の方の勝浦や鴨川まで行ってしまうのだ。せっかく来たのだし、このまま家に引き返すのもしゃくだと思い、六夏はいつものように御宿海岸を一望できる砂丘の上に座り、海を眺めることにした。

 抱えた膝の上に顎を乗せ、背中を海老のようにして丸めると、遠くの水平の先に目をやる。沖には、波待ちをしているサーファーがちらほらと見受けられた。ここから見ると、サーファーは黒い豆粒ほどの大きさでしかない。彼らはサーフボードに跨り、水中に根を張った植物のように、海の腹の上でゆらゆらと揺れている。

 夜が明けた御宿の空を、紫色の分厚い雲が覆っていた。

 潮の香りを含んだ風が、冷気を帯びながら、六夏の頬を突き刺すようにして吹いてくる。夏とはいえ、早朝の御宿の浜辺は肌寒い。波打ち際で、緩やかに砕ける波の音が、何度も反復されては、六夏の耳元に篭る。

 七月の御宿海岸では、風に揺られた浜辺のハマヒルガオが最後の花を咲かせていた。五月には張りのある薄桃色の花を咲かせるのだが、日の光を浴び続けていることに疲れてしまったか、どこかくたびれた様子である。昼顔と似たような花を咲かせるのでこの名があるが、砂浜に根を張り、這うようにして群生する。町でよく見る植物は空に向かって垂直に己の体を伸ばし、我先にとばかりに花を咲かせるのに対し、ハマヒルガオはむしろ身を沈め、横に広がっていくことを本能としているようにさえ見える。朝顔や昼顔とも違って、葉が分厚くて油を塗ったような光沢があるのは、潮風や波が打ち寄せてきた時の塩水に耐えるためなのだと祖父が教えてくれた。

 二歳になる睦斗が歩くことを覚え、家族で御宿海岸にやってきた時のことである。浜辺一面に咲き誇るこの花を見て、童話の世界に入り込んだお姫様のような気持になっていた六夏に対し、幼く無邪気な睦斗が、平気でその花を足で踏み潰しながらはしゃいでいる姿を見て、ちょっとしたケンカになったことがある。

「どうして睦斗はいつもそうなの」と六夏は泣き叫んだ。

 大切にしていた人形やぬいぐるみも、いつも睦斗の手により破壊される。その度に睦斗に対し、殺意にも近い憎悪を覚えたが、「六夏はお姉ちゃんなんだから」と咎められるのはいつも六夏の方であった。

 物を粗末にしたり壊したりしてはいけないという教えが六夏に対してはあったが、どうして弟だけは、それが許されるのだろうかと、いつも不思議に思っていた。何より、ハマヒルガオは、地の下に根を張って生きるご先祖様そのものの姿であり、魂でもあるという祖父の教えを聞いていたものだから、その花を踏みにじられるのは、ご先祖様を傷めつけられているようにも思え、深い悲しみを覚えたし、悔しくてたまらなかった。

 それにしても、睦斗と同じ時間を共有できないという今の状況は、思ったよりも六夏を孤独にさせた。当たり前だが、睦斗はどんどん大人になっていく。このまま弟にまで相手にされなくなってしまうことを考えると、一人突き放されてしまったような、辛い感情がこみあげてくる。ついこの間までの睦斗は、波乗りを終えて海からあがってくるたびに、「お姉ちゃん、今のライディング見てくれた? 凄いでしょ?」と真っ先に六夏のもとに駆け付けてくれていたというのに。

 睦斗がサーフィンを始めたきっかけはいつの頃だったか。父と母に連れられて、夏休みに御宿海岸のビーチに遊びに来た時のことであった。波乗りをする大人らの姿を見て、六歳の睦斗が、「僕もあれに乗りたい」と言い出し、父が手始めにブギーボードを渡し、やらせてみたのが最初だったかもしれない。睦斗はそのブギーボードを、最初から玩具のようにして波を乗りこなすものだから、父と母を驚かせた。海は初めてではないといえ、まだプールなどでまともに泳ぐことすら教えていなかったので、なおさらであった。

 そんな睦斗の才能を思いがけずに知ることになった父は、本格的に睦斗にサーフィンをやらせようと、地元のサーフショップのスクールに通わせることにした。睦斗はそこで才能を開花させ、小学生であるにも関わらず、大人顔負けのライディングを披露し、いつしか御宿サーフ界の新星と目されるようになっていた。六夏にはそんな弟が誇らしかった。同時に、自分にはない秀でた能力を持ち、大人たちからもてはやされる睦斗が、妬ましいという思いもあった。それでも、睦斗が波乗りをする姿を見ることは、たまらなく愛おしいものに違いなかった。だからこそ、「見ているだけで何が楽しいの?」と睦斗にいくら揶揄われようとも、毎週末は必ず睦斗の練習に付き添った。

 六夏の目に今も焼き付けられているのは、昂ぶる波の上を、まるで波と一体化しているかのように滑走する睦斗の姿である。
 それは房総半島に台風が近づいている時のことである。ゆうに、マンションの三階程の高さはあろう巨大な波が繰り返し打ち寄せてくる中、サーフボードに腹這いになったままで両手を漕ぎ、波のてっぺんまで持ち上げられていく睦斗の姿が現れる。それと同時に睦斗は自身の体を起こすと、隆起する波の斜面を、垂直落下するように滑り降りていくのであった。波が突き進む力と、睦斗の身体が連動し、一体化する瞬間である。そのあまりの高さに六夏は、睦斗の身に何かあったらどうしようという不安な気持ちでいっぱいになる。

 だが、当の睦斗は涼しげな顔である。睦斗はすぐに両脚をキックさせ、サーフボードを跳ね上がらせると軌道を変え、弛んだ波の腹の上を軽やかに滑走する。まだ陰毛も生えていないであろう未熟な体躯の子が、よくも自分の何倍もの背丈がある波に臆することなく、まるで馬や何かの動物を操るように乗りこなしてしまうものかと、六夏は溜め息交じりに感心する。

 それにしても、まるで海そのものに愛されているかのような睦斗の能力は、一体どこから来ているのだろうかと六夏は不思議に思う。それこそ、祖父がある時の宴会の席で、阿泉家のご先祖様とは、海人族と呼ばれる、出雲に端を発する海の民であると語っていたことが思い返され、合点がいく。

 親戚も集まるその席で、酒に酔っていた祖父を見る周囲の視線は冷ややかであった。父や親戚のものは皆、また始まったというような空気を出していたが、幼い六夏だけが「海の民?」と目をぱちくりさせながら祖父に訊き返すので、祖父はよくぞ食いついたという感じで、得意げに語り出すのであった。その話は、のちに手記でも同じ内容が確認できる。第三章〈古の種族の末裔たち〉で書かれていることがそれだ。

海人族とは、航海や漁業など海上において活動し、大和朝廷が形成された四世紀頃には海上輸送で力をつけることになった集団で、陸地よりも海と共に生活を作ってきた氏族のことをいう。その中でも安曇(あずみ)家と呼ばれる氏族が強大な力を持っていた。それは今でいう海賊的な存在であったようで、安曇族は、もともと古代より海人族として出雲の地から日本海側から太平洋側へ、北は本州最北の津軽、日ノ本へ、南は薩摩、肥後へ神々の国を造りながら進出する。関東にやって来て切り拓いた地は「あずま」と呼ばれるようになり、房総半島の東端にある、今の夷隅の地に住み着いた者らの一つが、「阿泉家」となった。

『阿泉家の歴史と賦霊の力について』561頁


 睦斗だけではない。六夏自身もまた、ずっと水泳を得意としてきた。幼い頃から祖父の手に引かれスイミングスクールに通っていた六夏は、小学校に進学する頃にはもう、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライと四泳法のいずれもこなしていた。

「お前たち姉弟は、びっくりするほど運動能力が高いんだな」と祖父も舌を巻いていた程であった。

 しかし祖父はそのことを、六夏の父である、龍二の血、相馬家の血が入っているからだと考えていた。なぜなら、祖父自身は昔からの虚弱体質で、運動とは無縁の文科系の人間であったし、母の波月も、普段の動きを見ている限り、運動音痴は明らかであったから。それに対し父は、花園出場が常連である名門校のラグビー部出身のスポーツエリートである。その血が、睦斗と六夏にも受け継がれてはいるのだろうが、二人とも球技や陸上ではなく、水中、水上のスポーツを選んだというのは、阿泉家の血が父の血に抗してのことなのだろうか。

 御宿小学校に水泳部があれば、六夏も水泳を続けていたかもしれないが、今ではもうすっかり運動自体からは遠ざかっている。せいぜいこうして、波乗りに興じるサーファーの姿を見ることくらいであったが、こうも穏やかな海を見ていると、自分も海に入り、御宿の海女たちのように素潜りでもやってみようかという気になってくる。ここ御宿は、昔から日本三大海女地帯と呼ばれるくらいに、海の産業が有名である。それもまた、漁業などで生計を立てていたという海人族との関連を想起させる。
 
 そんなことをぼんやり考えながら、六夏は御宿海岸の沖を見続けていた。色々と思い詰めてしまうことが息苦しくもあり、何度か深呼吸をしてみる。潮の香りと湿った砂の匂い、サーフボードに塗るワックスのココナッツの香りとどこかで誰かが吸っているマイルドセブンの煙の匂いが同時に、六夏の鼻腔に入り込んでくる。目を見開き、改めて周囲を眺め回すと、御宿海岸を囲うようにして、海に突き出た山々がある。その山に吹きかけるようにして、息を大きく吐いた。
 
 御宿には海もあれば山もある。その山々の神々しさは、出雲からやってきた海の民のものにとって、自分たちが理想としていた神の国そのものに見えたのかもしれぬと祖父は言う。

「御宿という地は、出雲から各地に散った、海の民と山の民が合流した場所である」

 これが、祖父が仮説として唱える、阿泉家先祖の歴史の核心である。
 

出雲の民から、山の民と海の民に分かれた。東北へ逃れ山の民となった者らは、大武丸が統べる国を作り、大和王朝と対立した。その地に住まう者は、「蝦夷」と呼ばれた。大武丸が討たれて以来、さらにこの地から逃れる者もあったろう。北海道へ渡るか、南下し関東にやってくるか。一方、海の民である安曇家は有力な氏族となり出雲から各地へと散った。その一つが関東の房総である。こうして東北から南下してきた山の民、西からやってきた海の民。それら古の種族が再び合流し、居付いた地こそ、房総半島外房の「夷隅」と考えられる。ところで、「夷」は「えびす」とも読む。えびすは、恵比寿様としても知られる、コトシロヌシのことであるが、このコトシロヌシは、オオクニヌシの子息である。この点からも、わが御宿町の夷隅の地は、東北の日の本と、そしてオオクニヌシの出雲の地と結び付くのである。

『阿泉家の歴史と賦霊の力について』513頁


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