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赤坂見附ブルーマンデー 第5話:「自己実現」という可能性の阿片

 

「7日間戦争」というのは、決して比喩ではない。少なくとも今のオレの境遇、オレの仕事においては。

 一週間のうち、まともに家に帰れるのは二日あるかないかだ。

 家に帰ってもシャワーを浴びて眠るだけ。

 生活と身体のリズムが崩れているせいか、どんなに疲れ果てていても、身体だけが寝ていて、脳はまどろみの中を起きているという、金縛りの状態がよくある。心地よい眠りは無縁だ。一日一日を過ごすたびに、命が摩耗されていくような感覚である。

 そんな毎日を繰り返している。

 オレの会社では、大抵の人間がそういう状況だというのに、そのことについて文句をいう者が一人もいない。むしろ、肉体を削り、精神を擦り減らしながらでも過剰に働くということに、誇りのようなものさえ感じていたりする。
 
 オレにはそのことが到底信じられなかった。
 彼らはむしろ、イベントプロデューサーという未来の成功を想い、過酷な環境に置かれていることそれ自体が、いつか成就するであろうことを信じて疑わない。
 
 イベントプロデューサーへの道。

 ここでも、可能性という未来への無償の投資が美学とされている。
 
 マルクスが、宗教とは民衆にとっての阿片であると言っていたように、オレたちは「自己実現」という可能性の阿片に、思考を麻痺させられているだけなのではあるまいか。

 しかし、そんなことを声高らかに叫んだところでどうなる。嫌なら辞めればよい。それだけのことだ。
 
 むろん、オレにそんな度胸も覚悟もないことは自分でわかっている。一度組み込まれてしまった労働者のシステムにおいては、そこから抜け出すことなど容易ではない。金がなければ何も実現できない社会だ。生活もかかっているし、積み上がっていく支払いローンに追いかけられている現状にあっては、命が続く限りこの身を捧げなければならないのだ。

 中日の昼あたりに、大学時代からの旧友である江崎から珍しく電話があった。江崎は同じメディア論のゼミ仲間だった人間だ。

 集団となるとリーダーシップを発揮したがるタイプの人間で、ゼミを仕切っていたのも江崎だった。江崎の意識の高さは当時からも有名で、上辺だけの知識を、さも自分の課題意識であるかのように語れる、稀有な才能の持ち主であった。

「よお、中谷。久しぶり」
 
 数年ぶりに江崎の声を聞いた。江崎と会ったのはいつの日だったか。思い出そうとしたが、なかなか出てこない。

「江崎か、珍しいな」

「仕事中だった?」

「少しなら大丈夫だけど」

「あのさ、今日の夜、六本木あたりで、ゼミの仲間で集まろうってなってるんだけど、お前もどう? 確か、見附とかで働いてるんだろう?」

「おお、久しぶりだな。いつ以来だよ」

「有泉の結婚式以来かな。五年ぶりとかか?」

「誰が来るの?」

「有泉も来るし、谷山とか、志賀とかかな。けっこうメインどころは揃っているぞ」

「いいね、何時から?」

「七時から店を予約してる」

「七時? それまた早いな。公務員じゃないとそんなの無理だろ」

「え、そうなの? 七時でも遅いくらいと思ってたんだけどな。中谷は何時なら来れるの?」
 
 オレは自分の仕事を七時に終えることができるのか、頭の中でシミュレーションしてみた。今日であればもしかしたら、思い切ってそれくらいの時間には切り上げられるかもしれない。さして根拠はなかったが、思わず「大丈夫」と答えてしまった。
 
 江崎、有泉らとは数年ぶりである。そんな旧友との付き合いを、今日なら優先したいとも思った。

「おお。すばらしい。じゃあ、席とっておくから、七時に来てくれ。場所はあとでメールしておくから」

「了解。出る時にまた連絡するよ」
 
 江崎、有泉らは、メディア論ゼミの優等生だった。メディア論のゼミは、マクルーハンやメディア史、特にテレビ創世期と世論形成についてなどを学ぶゼミで、大手マスコミへの就職を志望する人間が集まっていた。実際に江崎をはじめ、ゼミのほとんどの人間は、キー局や大手出版社、新聞社にと、こぞって就職している。

 そんな彼らは、どう考えても世に言う勝ち組側の人間である。三十になったオレの今の年収を、彼らは入って数年経つころには手にしているのだ。
もう、何年も会っていなかったが、順当にいけば課長とか、早い者であれば部長などに出世していてもいい歳である。

 ほとんどの連中は、世田谷区や杉並区で一軒家を購入しているという話だし、独身のやつでも、港区や目黒区で家賃二桁代のマンションに住んでいるようだ。

 高給取りの彼らと飲むということは、相当の店に行くことになるわけで、大きな出費を覚悟しなければならない。だが、オレはそれでも旧友との付き合いは大事にしたい。それはプライスレスなものであるからだ。
 
 今日は仕事を早く切り上げる。
 そう息巻いて会社に戻るやいなや、エレベーター待ちの際にすれ違った宮戸さんに呼び止められる。宮戸さんはクライアントへのアポで外出するタイミングだった。

「中谷、オレが戻ったらミーティングさせてくれ」

「え、会議ですか」

「ああ、明日提出のマニュアルがあってさ。その作業、手がつかないからお
前にお願いしたいんだよ。オリエンするから、よろしく」

「ちょ、今日は用事があって」と伝えるよりも先に、宮戸さんは行ってしまった。

 仕方なくオフィスで宮戸さんの帰りを待つことにした。だが、今日は用事があるため、作業はできない。先に帰宅させてもらいますと、そう伝えるつもりだった。

 十五時が過ぎたころに、宮戸さんがオフィスに戻ってきた。
 
 そこから「やろうか」と恋人と交わすような気軽な口調で声をかけられ、二人で会議室に入る。

「それでさ、今度のフードフェスのマニュアル、まだ何にも手がつけられてないんだわ」
 
 宮戸さんは会議室の席に着くなり、大きなため息をつく。
 
『フードフェス』は、『IT Business Days』ほどではないが、それなりにスケールが大きい、食品業界の一大イベントである。
 
 オレは、「今日はできません」という、その一言を伝えるタイミングを見つけられず、ついつい相槌を打ちながら宮戸さんの話に聞き入ってしまう。

「そもそもの担当は誰なんですか」

「田村に任せていたんだけどさ、あいつ別の案件で体持ってかれちまって、フードフェスはできないって、エクスキューズ出してきやがってよ」
 
 宮戸さんは、オレに逃げ道を与えまいと、外堀を埋めるように話を続ける。

「他のメンバーもホビーフェアで忍さんに貸しちゃってるからさ」

「はい」

 オレは少しすっとぼけるような調子で返事をする。

「というわけで、お前しかいないんだ」

「それはわかりました。自分が担当でもいんですが」
 
 オレは先手を打とうと思った。完全に断るわけではない。この仕事は引き受けるが、今日に限っては用事があるので帰りますよ、と。

 だが、そう口にするよりも先に、宮戸さんが塞ぐように言葉をかぶせてくる。

「ありがとう。でさ、運営マニュアルの初稿出しが今日中なんだ」

「え、今日中?」

「まあ、叩きでいいからさ。数時間ちゃちゃっとやればできるべ。お前も資料作成に慣れて来たころだろう?」

「OKなんですが、自分、今日はどうしても七時に前には出ないといけない用事がありまして」
 
 オレはようやく宮戸さんに事情を打ち明けた。今日こそはオレを縛ることなく、開放してほしいと宣言したつもりだった。

「別に構わないよ。ちゃんと提出さえしてくれればな。やるべき仕事をこなしてくれれば、いつ帰ろうがそれはお前の自由だ」
 
 宮戸さんはよき理解者のように爽やかな返事をくれた。だが、この「ちゃんと提出さえしてくれれば」が曲者だった。
 
 オレはなんとしてでも、約束の時間に間に合わせようと、急いで仕事に取りかかった。江崎からEメールが送られてきて、予約してくれた店の情報を教えられた。それはいかにも江崎のような高給取りが好みそうな洗練されたワインバーだった。オレにはとても敷居が高くて、普段なら選択肢にさえ入らない。だが、江崎らとの時間は、年に一回あるかないかの特別なものだ。

 資料のアウトラインは、これまでのものを踏襲する形で作成した。しかし、まだまだ先のイベントであるため、未確定要素は多い。そのため、ガワは作成できても中身はスカスカのものになる。それでも、ページネーションさえできていればよいだろうと、早速宮戸さんに見てもらうことにした。

 だが、チェック者である宮戸さんは別の打ち合わせでなかなかつかまらず、宮戸さんが資料確認に入るころにはすでに十八時をまわっていた。
 
 この時点でなんとなく嫌な予感はしていたのだが、それはまさに的中した。

 宮戸さんはオレの資料を見るなり「なんじゃこりゃ」と眉間に皺を寄せた。

「お前よお、こんなスカスカな資料、代理店に見せられると思ってんのか?」

「はい、叩きなので大丈夫かと。情報入れようにもまだ揃ってないですからね」

「アホか。フードフェスは何年やってるイベントだと思ってんだ。過去のやつ遡って、ある程度想定した計画や、あての情報は反映できるだろう」

「いや、それは最初に指示されないとわからないです」
 
 オレの言い訳は、宮戸さんのスイッチを入れてしまったようだ。

「この程度の資料でいちいち指示しないと何もできないって、お前何年目だ? 先回りして情報を提供するのがオレらの仕事だろうがよ。もっと頭使え、客がなんでこの叩きの資料を求めているのか、もっと想像しろ」
 
 こうなってしまうと、何をどう返しても無駄である。結局、オレのアウトプットは、宮戸さんが求めていたイメージにまったく近づけていなかったのだ。
 
 資料作成は当然ながら、やり直しになる。なぜやり直しなのか、宮戸さんの説教を受けているだけで、時間は、十九時に近づきつつあった。
 
 仕方なくオレは、江崎に状況を知らせようとLINEで連絡をした。

――ごめん、三十分くらい遅れてしまう。先やっててくれ
 
 すぐに江崎から返信があった。

――わかった。なる早でよろしく! 
 
 オレは再び資料作成に取りかかったものの、とても数十分で仕上げられるものでないことがわかってきた。これがスタート時点でわかっていれば、展開は異なっていたはずだ。どのイメージに近づければ正解だったか。なぜその事前確認を怠ってしまったのか。そのことばかりが悔やまれる。旧友と飲みに行けることで浮足立ってしまったか。脇の甘さに、ほとほと自分の性格が嫌になる。

 手は動かすものの、早く江崎らと合流したいという思いが勝ってしまい、作業は投げやりになる。投げやりとわかっていたが、ワンチャン宮戸さんの目をくぐり抜けられるのではと思い、十九時を少し過ぎたあたりで、再度、宮戸さんを掴まえ資料を見てもらう。

「ダメ。誘導計画はもっと精緻にシミュレーションできるだろ。こんなの穴だらけだぞ。ここも、ここも、ここも、抜けてる。スタッフの配置がぜんぜんできてねえ」
 
 またしてもやり直しとなった。もはや、抜け出せないループに入ってしまった。オレはこのループを数十分で脱け出す超人的な能力を持ち合わせていない。
 
 それで、何度も江崎とメールのやり取りをすることになる。江崎からは何度か着信があったが、時間に追われていたので、話すよりもメールで返した。

――ごめん、あと三十分遅れる

――もうスタートしてるぞ。どれくらいになりそう?

――八時半までにはなんとか

――おーい、みんな待ちくたびれてるぞ

――ごめん、九時にはなんとか

――もうできあがっちゃってるよ。二軒目どうするって話になってる
 
 宮戸さんのOKはまったく出なかった。何をどう修正しても、お前は根本がわかっていないと、ダメが出される。
「あとはオレがやっとくよ」と、宮戸さんがオレを気遣う気配はまるでない。
 
 それで、オレは断念することにした。苦渋の判断ではあったが、江崎に詫びのメールを一本入れる。

――本当にすまん。仕事がまったく片付かない。今日やはり無理かも

 しばらく、江崎からの返信はなかった。怒っているのだろうか。それはそうだろう。さんざん、行く行くと待たせた挙句、ドタキャンをしたのだから。
 
 江崎からの返信があったころには、二十二時を過ぎていた。

――見通しが甘いな(笑)まあ、また今度飲もうぜ
 
 今頃、江崎は有泉らと一緒に、オレの社会人としての不甲斐なさをさんざんなじっているに違いない。約束を破るなど、ビジネスマンにおいては御法度だ。
 
 見通しの甘さ、その言葉がオレには激しく突き刺さった。
 
 だが、こんな事態を一体どうやって予測すればよいというのか。
 フードフェスタのマニュアル作りなど、今日のオレの予定にはまったく入っていなかったのだ。そしてそんな不測の事態に、オレの能力ではまるで処理できず、上司もこれ以上できないとわかっていて、オレのことを解放しようとしないのだ。
 
 結局、宮戸さんのダメを受けながらの作業は延々と続き、これなら提出できるというところまできたころには、とうに終電の時間を超えていた。
 
 宮戸さんはギリギリ終電があったようで、鞄を抱えてすぐにオフィスを出ていったが、「こんな仕事でこんな手間かけさせやがって」と捨て台詞を吐かれた。
 
 終電を逃したオレは、タクシーで帰る金の余裕がないので、結局、会社で寝泊まりすることにした。早くも、今週二度目の社内泊である。ベッドなどあるわけはないから、会議室の床に、段ボールを広げてその上で眠る。

 備品倉庫に緩衝材があるとラッキーだ。段ボールの上にそれらを何層にも敷けば、寝心地はいっそうによくなる。

「見通しが甘いな」
 
 江崎の言葉を何度も反芻しながら、いつまでも抜け出せない仕事の無限ループへの憤りと、自分のいい加減さに呆れながら、緩衝材で仕上げた簡易寝床に倒れるようにして伏す。
 
 緩衝材があっても伝わってくる会議室の床の固さに苛立ちを覚えながら、同時に悔しさと憤りの感情がいや増しにこみ上げてくるだが、頭の中でいろいろと考えていても、すべての思考がシャットダウンするかのように、脳が休息につく方が速かった。


続く

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