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十字路と悪魔のブルース〜田園と憂鬱な30歳の迷い道〜


 実家の目の前は、一帯が田園になっていて、その田園を貫く一本の舗道がある。この一本道を五百メートルほどまっすぐに進み、田園を渡り切ったところに、私が通っていた小学校はあった。

 その小学校を囲むようにして、昭和のバブル期に建てられたというモンスター団地群が広がっている。約一万戸の住宅戸数を誇っていて、ピーク時には二万人が住んでいたということだ。

 私の地元であるM市の人口が、六万人くらいだったというのだから、実に市民の三分の一がこの団地に集結していたことになる。

 その巨大な団地群が、田園の向こう側で、蜃気楼の街のように屹立していた。今、この団地は、日本人が減り、出稼ぎにやってきた外国人らで溢れているのだという。
 
 幼いころから、この舗道を歩きながら、その団地を目の前にしてきた。

 いつも、「こちら側」と「向こう側」といった、境界のようなものを感じていた。私にとって、田園から先の団地群は、どこか異界のような、虚構の世界に思えていたのかもしれない。

 もっとも、友達と遊ぶため、その団地には何度も訪れているのだが。団地から家に戻る時、いつも現実に引き戻されてしまうような、不思議な感覚があったのだ。

 この団地のさらにその先には、M市の駅があり、今では日本の大手デベロッパーの開発計画により、田舎町の巨大ショッピングモールへとさま変わりしていた。

 アメリカやヨーロッパの巨大資本まで入ってきたというのだから驚きだ。市民は大喜びなのだろうが、それによって、昔からあった駅前の商店街は軒並みシャッターを下ろし、ゴースト化しているという嫌な噂も耳にする。

 
 イベント制作会社で働いていた三十歳の時、仕事で忙殺されていた私は、しばらく会えていなかった親の顔でも見ようと、なんとか休みをとり、久しぶりに実家に戻ってきた。帰ってきたものの、何もやることがなく、朝からこの田園の一本道を歩くことにしたのであった。

 夏の光をめいっぱい浴びて育ち切った稲穂が、頭を垂れ始めている。九月の田園は、緑色から黄金色に染まり変わるころ合いだった。風が弱々しく吹いている。そのたびに、稲穂の先がゆらゆらと揺れる。もう少しすれば赤蜻蛉がこの稲穂の上を飛び回るようになるだろう。

 風景は、小学生の頃からまるで変っていない。もし、変わったものがあるとすれば、この風景を受け止めている、私の方なのだと思う。

 何か物思いに浸りたい時、いつもこの田園の景色と一緒だった。

 友人関係に悩まされていた中学生時代。好きだった女子を振り向かせたかった高校生時代。就職から逃げたかった大学生時代。

 「何者」かでありたかった、若かりし頃の、私の時間のすべてが、この田園とともにあった。私は、他の人間とは違う、私にはきっと、普通ではない、何か特別な能力がある。そう信じて疑わなかった、田園の中の覇王。

 何かと悩める一人の青年は、季節の移り変わりと共にいつもこの田園の一本道を歩いていた。飼っていた犬の散歩道でもあったから、この道を何度往復したことかわからない。

 その一本道を進んでいく途中に、左右の砂利道へ分岐する、十字路がある。この十字路に立つたびに、伝説のブルースミュージシャン、ロバート・ジョンソンの十字路と悪魔の逸話が思い出されるのであった。

 数多くのブルースミュージシャンを輩出したミシシッピ州のある十字路で、ロバート・ジョンソンは、悪魔と邂逅し、自らの魂と引き換えにギターの超絶テクニックと歌声を手に入れたのだという。

 ロバート・ジョンソンは、それにより一気に名声を得たのだが、悪魔は約束通りロバート・ジョンソンの魂を引き取りにきた。二十七歳という若さだった。

 夭折であったゆえに生み出された伝説ではあるのかもしれないが、私もそんな特別な「才能」と引き換えに、悪魔に魂を売ってみたいものだ。若い頃の私は、いつもそんなことをぼんやりと考えていた。

 だが、私が立つこの十字路に、そんな都合のいい筋書きはない。この十字路は、私にとってはいつだって、ただの<行き止まり>の象徴だった。

 この田舎町を脱け出せないというはがゆさと、特別な才能が降りてこない自分への憤りはいつも重なっていた。

 十字路をまっすぐ進むか、右へ行くか、左へ行くか。

 いつも、その時の気分で進路は変える。だが、どちらに進むにせよ、またもと来た道に戻ってくることはわかっている。

 そんなことの繰り返し。

 私を囲む日常は、ありきたりの田園風景、退屈で鬱陶しいまでの、反復でしかなかった。だから、少しでも早くこの風景から抜け出したかった。何度も反復されるこの風景、この状況から、いつもジャンプアップを求めていた。

 そんな都合のよい飛躍など、どこにもありはしないとわかっているのに、人はそれでも、神であるとか、悪魔の誘惑であるとかの思考に逃げたくなってしまうのだ。

 今日は、左の道を選んでみた。

 私は宗教的な神や悪魔という存在を信じていない。もしそれに近いものがあるとすれば、それはいつだって、スピノザの「神」だった。あのアインシュタインが信望していた神であり、その天才科学者の言葉を借りれば、スピノザの神とは、「この世界の秩序ある調和の中に自身をあらわされる神であって、人間の運命や行動にかかわる神ではない」。

 スピノザの神は、人間的な感情など持たない。生きることの意味や目的なども認めない、きわめて冷徹、無慈悲なものである。しかしそれでも、その神の力の必然性を捉え、自分が持っている力と、その必然の力が合致するスイートスポットに、神への喜びと無償の愛がある、というのがスピノザ思想の根幹ではある。

 だが、社会人になってからの私には、そのことを容易に肯定できるわけがなく、その過酷さがなんとも身にこたえてしまう。スピノザの神は、何も教えてくれないし、どこか別の道へと導いてくれるわけではない。ただ、自然の必然のままにあれ、とスピノザは唱えるのみである。

 ライプニッツが、この神に抵抗を示したのも、しごく真っ当な反応だったといえる。人はか弱い。だからこそ、信仰が必要とされるのではないか。この頃の私には、そんな方向へと傾いてしまいそうになる脆弱さがあった。

 砂利道をゆっくりと進みながら、私は、時折立ち止まっては、用水路を流れていく水の揺らめきに目をやる。それから煙草を取り出し、風が吹けば消えてしまいそうな貧弱な火を灯す。煙を吐く力も、どこか弱々しい。

 そう、弱い。私はどこまでいっても弱い。

 武力という物理的な強弱のことではない。この世界をサバイブするのに必要な力が圧倒的に不足しているという、生物的な脆さである。あるべき自分の未来を切り拓けなかった私は、いつからか、負け癖がついている。そう、私はこれまで何にも勝っていないのだ。

 いつだって、現実は、勝者によってのみ築き上げられてきた歴史が、わがもの顔で支配する。勝者が、勝者であり続けるために敷かれた、巨大な経済システム。

 だが、勝者たちはこう言うだろう。チャンスは誰にでもある。機会こそは常に平等であるのだと。あとはレースの勝ち負けにすぎない。だからこそ、その勝利という可能性は自らの努力で掴み取れ、と。

 だってそうだろう? この自然そのものが弱肉強食の世界なのであり、それが摂理というものだ。お前の言う、スピノザの神は、その自然の摂理そのもののことではないのか?

 であれば、肯定せよ。この弱肉強食の世界を。認めろ、目の前の現実を。
そして、いつまでも、自分には特別な才能があったはずだ、自分の未来はこうであったはずだ、などという過ぎ去った可能性にすがるのではなく、この先やってくる可能性のために鼓舞せよ、意思決定せよ。人はいつでもリスタートできるのだから、と。

 いや、少し待て。と私は答える。

 かつて私はこう考えていた。スピノザの思想は、行き過ぎた資本主義を許容するものではない。だからこそ、資本主義社会に立ち向かおうとしたマルクスらによって必要とされた思想なのであると。

 理性に従うものは、より自由を求める。この自由とは、勝者が言うような個人の自由なんかではなく、他者と築き上げる自由なのだ。なぜなら、個人で生きるということは、この社会においては不可能であり、無力なのだから。他者との協力、共生において、人はより多くの自由を得ることができるのだ。

 スピノザが言う自由人、自然の必然性を知る理性人とは、より善き社会を目指す。ゆえにスピノザの思想は、資本主義であるとか、社会主義であるとかを越えたところにあるものなのだと。

 弱肉強食的な原理の人間社会への投影は、勝者たちに都合がよいフィクションでしかない。なぜなら、生物は種においては、何よりも連携し連帯するのだから。だからこそ、勝者たちの物語に踊らされていてはダメなのだ。

 しかし、と再び私は自問する。

 現実はどうだ? この勝ち負けを明確にしないと気が済まないレースが、勝者の手によるフィクションにすぎないと言ったところで、それでもこのルールの中で私たちは生活を続けていくしかないわけで、それを抜きにした現実など、考え及ばない。つまり、これこそが紛れもない現実ではないのか? 

 このフィクションを、虚構にすぎないと否定したからといって、そこから逃れられるわけではないし、何も変わることはない。そう、ジャンプアップなど、やはり、ないのだ。
 
 すると、私はこう言わざるをえない。

 このフィクショナルな社会システムは、決して、なくすことなどできないのだと。スピノザ思想を担いだマルクス主義者や、左寄りの運動家が、どんなに打倒格差社会を掲げたところで、「現実」は微動だにもしないことだろう。彼らが言うような、連帯する希望の社会、格差のない未来の世界を悠長に待ち望めるほど、私たち弱小労働者には時間がないのだ。

 そう、事態はもっと深刻だ。市民の顔をした巨大資本という歴史上最大の権力機構が、国家と結託し、労働者という奴隷を囲う。その囲いの中で、私たちは自由という名の隷従を強いられているわけで、いわば見えない檻、感覚されることのない檻の中で、可能性に満ち溢れた自由な世界を生きているかのように、錯覚させられているだけなのだ。

 それはまるで、ラリってぶっ飛んでしまっている薬物常用者のように、「目を開けたまま夢を見させられている」だけだということに気付かない。気付けない。この飼い殺しのためのカラクリの、なんという複雑さ、巧妙さよ!

 私は再び歩き出した。

 十字路を左に曲がったところで、またもと来た一本の舗道に戻ってくる。

 私が頭の中で考えていることに、解決はない。考えるだけでは、何も変わらないというのはわかっている。わかっていて、だらだらとこの十字路を行き来する。そんなことの繰り返しである。

 どれくらいの時間が経過したかわからないが、何も生み出すことのない、無為な時間に耐え切れなくなった私は、一本道に戻ることにした。

 十字路が再び見えてくる。スピノザの神を信じ切れなくなっていたこの時の私の脳裏に、なんと、悪魔が舞い降りてこうようとしていたのであった。
 
 そして悪魔は、こう囁くのであった。

「魂を売れ、そうすれば、オレはお前に特別な才能を与えてやる」

 私は再び、煙草に火を点け、煙を吐き出すと、十字路に降り立った悪魔を睨みつけていた。


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