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『フィッシュ・アイ・ドライブ』第2話:暴れ馬


 
 アキラは、東麻布の修理工場に預けていた愛車のフェラーリに、半月ぶりに再会した。「やっと戻ってきたな」アキラは嬉しさが抑えきれないというように口角を上げながら、メタリックレッドにラッピングされた愛車のボディを両手で撫でまわす。そのまま口づけもしたくなるほどのテンションであった。

「ご主人様に久しぶりに会えたって、車も喜んでいるみたいです」

 修理工場の主人が微笑ましそうに言う。

「ああ、こいつは喜怒哀楽が激しいんだ」アキラは得意げだった。

 フェラーリのオーナーになって五年が経つが、今の車種である『360スパイダー』は、まさに気品と野生を兼ね備えた跳ね馬だった。

 アキラは、愛馬に跨るというように運転席に乗り込むと、ハンドルを握り、大きく息を吸ってからクラッチをいれる。アクセルを踏み込むと、重厚な音とともに車が飛び出す。エンジン音が、夜の空に響き渡った。そのけたたましい音に、通行人の誰もが振り返っていた。

 彩香(あやか)とは、ロアビルの前で待ち合わせをすることになっていた。以前まで通っていた、銀座の並木通りにある高級クラブで知り合った女だ。今はもう店には金を落としていない。それでも、アキラが誘えば会いにくる。アキラにとっては都合のよい女になっていた。
 
 ドライブがしたいと綾香がいうので、横浜に行こうと提案した。インターコンチのレストランを予約し、高層階の部屋もおさえてある。

 約束の時間である八時まで、まだ十分にあった。それまでは、高速で湾岸を流すことにした。久しぶりに風を感じたいと思った。
 
 芝公園から高速に乗り、湾岸に向かった。二速から三速。三速から四速へとギアを入れる。スパイダーの登場に、それまで意気揚々と追い越し車線を走っていた車が、一斉に走行車線に避け始める。それがまたアキラには滑稽であり、優越感に浸ることもできた。また勝手に口角が上がってくる。

 オーディオから音楽を流す。フェラーリに乗る者はエンジンサウンドを楽しむのであり、音楽をかけるというのはあまりしないようだが、アキラは高速を走るときには幌を閉じ、ジャズを楽しむことに決めていた。それもコルトレーンが一番熱かったころのフリージャズだ。コルトレーンのサックスが持つ疾走感。破天荒なスタイル。五年前のオレがまさにそうであったなと、アキラは一人嘯く。

 レインボーブリッジから見渡せる夜景にジャズはよく似合った。
 七月の闇夜に浮き上がる高層ビル群の灯りは、地上に映し出されたもう一つの星空だ。その星空の光を見ているだけで、世界の孤独を一手に引き受けたような気分になる。

 孤独はまさに自分にふさわしい。そんな気取ったことを一人ごちると、その臭さに思わず苦笑してしまう。

 おもむろに煙草を取り出し、火をつける。それから、三年前に起きた嵐のような出来事を振り返る。

 何も考えたくなかった。孤独というのが比喩ではなく、まさに身にしみて降りかかってきたのだ。世間から悪の権化のような目で見られ、それまですべて自分のものであるかのごとく存在していた目の前の世界が、あっという間に遠ざかってしまったのだ。積み上げてきた、地位、名誉、財力は根こそぎさらわれた。

「人間が手に入れられる力など脆いものです。<自然>の前に簡単に崩れ去ってしまうことでしょう。お気をつけください」

 歌舞伎町であったか。たまたま占いバーに入り、テレビにも出ていたという著名な占い師がアキラに警告していた言葉を思い出した。立ち上げた会社が勢いに乗り始めた五年前のことだ。

 その時のアキラには、「自然」という占い師の言葉がよくわからなかった。「もののけ姫」でも現れるのか?と占い師を鼻で笑った。

 それが今、妙な説得力を持ってよみがえる。まさに世間というものが、得体のしれない「自然」そのものに思えたのだ。

「お前だけだ、手放さなかったのは」

 アキラは車に話しかけるように囁く。

 逗子の別荘や、自家用フェリーは売り放ったが、こいつだけはそうしまいと決めていた。

「おれはお前とずっと一緒だ」

 アキラにとって、360スパイダーは愛馬であり、相棒だった。

「敗戦の将にでもなった気分だよ」とアキラは笑う。

 だが、オレはしぶといぞ、とアキラは念じるように唱える。法に触れることをしてしまい、一度はすべてを失ったが、捨てる神あれば拾う神ありだ。獄中の経験を出版本にし、今はその印税だけで生活ができている。いつまで続くかわからないが、もうひと山あてるためのチャージ期間だと思えばいい。

 レインボーブリッジを抜け、道は縦に延び続ける湾岸道路に入った。音楽を止め、幌を開いた。風を浴びたいと思ったのだった。生ぬるい風が、アキラの体を愛撫するように通過していく。

 いっそ、風になりたいとアキラは思う。

「行くぞスパイダー」ギアを上げ、アクセルを踏み込んだ。



 
 夜の六本木は、いつ来ても異国の地にスリップしたような感覚になる。学生の頃は、それこそ安易に踏み入れる地ではなかった。田舎育ちのアキラにとって、六本木はいつも変わらず魔都として君臨していた。

 客引きの黒人や、クラブ遊びで酒に酔った白人らで賑わう通りを走り、ロアビル付近にやってくる。向かいのドン・キホーテの前で車を停める。ビルのネオンを反射させ、真っ赤な威光を放つフェラーリ360スパイダーの登場に、通行客がざわめき始める。 

 アキラは煙草の火をつける。左腕のチープカシオの腕時計を見る。約束の時間まで、まだ時間はあった。

 五本目の煙草を口にした時には、待ち合わせの時間がとうに過ぎていた。
 
 アキラは苛立ちながら彩香に電話をかける。

「あ、アキラさん」彩香はすぐに出た。

「アキラさんじゃないよ、今どこよ」

「どこって、家だけど。今日出勤ないから」

「家? 何言ってんだ。今迎えに来てるよ、みなとみらいに行きたいって」

「え? 何それ」

「何それって、この前飲んだ時そういう話してただろう」

「あ、そうだっけ? ごめんなさい、その場のノリかと思ってた」

「メールでも連絡してたじゃねえか。なんだそれ」

「ごめんなさい、うっかりしてた・・・」

「車の修理も急がせたんだぞ」

「あ、ごめん、ちょっと、お店から電話かかってきちゃった。また今度電話する。埋め合わせは絶対にするから」

 電話はあっさりと切られた。

「なんだこのクソ女」

 やり場のない怒りに、ハンドルを両手で叩きつける。
 
 どうやら、今の自分はいろんなことから見放されているようだとアキラは憤慨する。苛立ちの矛先をどこにも向けることができず、アキラはただただ髪を掻きむしった。

「クソが!」思わず叫んだ時、驚いた通行人が怪訝な顔で振り返る。「見るんじゃねえ」とアキラは心の中で怒鳴りつけ、通行人を睨んだ。

 このままどこでもいいから車を走らせよう。しばらく放心していたアキラは、深呼吸をしたのちに気持ちを切り替え、再びエンジンをかけた。

 その時だった。

 右側の耳元で誰かが叫ぶ声が聴こえ、アキラは隣を振り返った。

 アキラは目を疑った。

 バスローブのようなものを一枚だけ羽織った女が、あろうことか助手席に勝手に飛び乗ってきたのだ。

「何してんだおめえ!」アキラは叫びながらも、思わず身をのけ反った。

「早く出して! 命狙われてんの」女が叫ぶ。

「何言ってんだ、タクシーじゃねえぞ」

「いいから出せって! あいつに殺されちゃう」女が後ろを指さす。

 アキラは怪訝な思いで後ろを振り返る。

 見ると、黒ずくめの男が、剣幕な形相でこちらに向かってくるのであった。

「あいつのこと? あいつなんだ、手に何か持ってるぞ?」

 その時、男が銃を構えてきた。アキラは、一瞬それが何のことかよくわからなかった。

 溢れ返る通行人から、悲鳴があがった。

 それと同時に銃声が響き渡った。

 銃弾が、スパイダーの車体をかすめる。金属が擦れるキューンという激しい音が劈いた。

「あああ、何これ、何か撃ってきたぞあいつ」

 アキラは状況こそわからなかったが、ともかく何か危険なものが身に迫っているということだけはわかり、途端にパニックになる。
 興奮なのか、恐怖なのかはわからない。膝が自分のものでないかのように震え始める。

「わかったでしょう。すぐに出して!」

 女が、怒号のような叫び声をあげる。言われるまま、アキラは勢いよくアクセルを踏み込んだ。

 走りながらアキラはバックミラーをのぞく。すると、黒服の男は右手に拳銃を振りかざしたまま、タクシー運運転手を外に引きずりだしているのがわかった。

「あいつタクシーで追いかけてくるつもりだ」

 アキラは震えた体を鎮めようと唾を呑み込もうとするが、カラカラに乾き切ってしまった喉で通らない。

「一体何なんだこれは」とアキラは涙声でぼやき、息を切らしている隣の女を振り返る。


続く

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