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宗教や信仰についての雑記 #153

◯「きれい」と「美しい」

高校生の頃、美術の先生が「きれい」ということと「美しい」ということは違うと言っていました。でも、この二つがどう違うのか、結局詳しいことは聴けませんでした。

一般的に「きれい」は、主に視覚的に美しいことを指し、形、色、質感などが美しく整っている様子を表現したもののようです。
そして「美しい」は、「きれい」よりも深い美しさや感動を表す言葉で、視覚的な美しさだけでなく、内面的な美しさや、心が洗われるような美しさなどを表現しているようです。

ですから、
美しい音楽
美しい友情
美しい思い出
美しい物語
といった言い方の「美しい」を「きれいな」に置き換えると、何だか違和感を覚えます。

以前の投稿(#150)で紹介しました「置かれた場所で咲きなさい」という本には、「きれいさはお金で買えるが、心の美しさは、自分の心との戦いによってのみ得られる。」と書いてありました。
そこでひとつ疑問に思ったことがあります。
それは、もし「私の心は美しい」とか「私は美しい心の持ち主だ」とかいったことを、冗談ではなく大真面目に言う人がいたとしたら、そのような人を美しいと思えるだろうか、ということです。
おそらく大多数の人は、そのような人を美しいとは思えないでしょう。
そうすると(心の)美しさとは、戦いに勝ったその戦利品として得られるものではないのでしょう。
おそらく美しさとは、それを求めて努力している姿の中に宿るものなのだと思います。

美術の先生は、絵を描いて完成した時はそれでいいと思っても、しばらくするとその絵の中に満足いかない点が見えてくる。これでいい、これで完璧だと思い込んだら、その人は画家としてそこで終わりだ、ということも言っていました。
禅の言う「修証一如」もそれに近いものなのかもしれません。上記の「自分の心との戦いによってのみ得られる」というのも、そのような意味だったのでしょう。

言い方を変えれば、「きれいさ」は完成するが「美しさ」には完成はない、ということになるかなと、そんなことを考えました。

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