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宗教や信仰についての雑記 #70

◯迷いながらも

以前の投稿(#31)で、「はじめから『私』という存在の奥底にまで『願い』が織り込まれて生まれてくる」と書きました。
しかし、何かの出来事から自分が護られていると感じるときや、目を閉じ静かに座って「願い」を感じ取っているとき、「願い」が自分の一部というよりも、自分が「願い」の一部になっている、そんな感じがします。

そして「願い」の一部であるが故に、他者へと差し向けられた「願い」の媒介者ともなります。
それは、未熟で煩悩にまみれ、罪深い存在のままで救われると同時に、そのような存在のまま「願い」の媒介者ともなるということです。
野生の動植物が、持って生まれた生態や本当に従って生きていながら、それぞれが生態系の中で重要な役割を果たしているのと同じように、我々も自分では気づかず意識しなくても、何か大切な役割を果たしているという感覚です。

人類とは宇宙が自分を認識するための眼のようなものだという考え方があります。
宇宙は悠久の時を経て生命を誕生させ、永い進化の果てに知性を持つ人類を生み出し、その人類が宇宙を観察し解明しようとしている。そのありさまを、宇宙の自己認識のための眼と表現しているようです。
そのことを「願い」という観点から考えると、我々は「眼」であるにとどまらないようにも思います。

我々はただ認識するだけの静的な存在ではありません。我々の身体を構成する細胞が様々な情報をやりとりしながら協働して生命を意地しているように、我々も常に「願い」を受け渡しながらこの世界を構成している動的な存在なのです。煩悩を捨てきれず日々迷いながら暮らしていてもなお、我々はそのような存在なのだと、私はそう思うのです。

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