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小説|腐った祝祭 第一章 9

 州立孤児院の玄関前では職員が迎えてくれた。
 ロビーに入ると二歳から十五歳までの子供たちが二十人ほどずらりと並んで待っていた。ここでは数十人の子供が生活しているので、迎えてくれた二十人は何らかの方法で選ばれたのだろう。
 サトルを見ると、一同は教えられた通り、といったポーズで恭しくお辞儀をしてくれる。
 六歳以上の子供は授業があるので、挨拶の後で教室に戻っていった。
 残った十人の子供たちはわらわらとサトルの周りに集ってきた。
 サトルがこの孤児院に訪れるのは、夏が来る前と冬が来る前の年二回だが、半年に一度でも子供達はサトルのことをよく覚えていて、その都度快く迎えてくれた。
 特に年少組は、サトルが来て帰るまでずっと一緒に過ごすので、仲良く相手をしてくれる。
「大使ぃ、大使ぃ」
 と言って、先に近付いてきた子供二人と手をつないで、サトルは廊下を歩き始めた。
 するとすぐに年少組の教室から残りの子供が十人ほど続々と出てきて、子供の輪が一回り膨らんだ。院長と副院長が最後尾について来て、騒がしい子供に囲まれた、真ん中辺りにいるサトルに声をかける。
「た、大使!」
 子供がはしゃいでいるので、院長は大声を張り上げていた。
 サトルは一瞬だけ振り向いて言う。
 そうでないと子供達に引っかかって転びそうだからだ。
「なんですか?」
「まずは左に曲がって下さい!運動用の部屋を作ったんですよ」
「そうですか」
 サトルは左に曲がろうとしたが、右手をつないでいた子供が、ぐいっと手を引っ張った。
「ダメだよ!まずはこっち!」
 すると、周りの子供達も口々に賛同する。
「そうよ。いちばんはワタシたちのベッドルームよ」
「大使が贈ってくれたシーツを自分たちで敷いたんだもん」
「ベッドメイクしたのよ!」
「へえ、凄いね。自分たちで出来るのかい?」
「もちろんっ」
「あ、あの、大使……」
 サトルは子供に引き連れられて、廊下を右に曲がった。
 大抵ここに来ると、職員の思い通りの視察は行われないことになっている。
 サトルはいつも子供任せに院内を見て回って、ただ遊んで帰るだけなのだ。
 サトルが寄付した金で何を作ったとか、この設備のお陰で国から優良賞をもらったとか、院長が知って欲しい事はあまりサトルに伝わらないまま視察が終わるのが常だった。
 廊下を右に曲がると階段になっていて、ぞろぞろとそれを登っていく。
 二階は年少組と、年長組の女子の寝室が並んでいた。
 三階は年長男子と職員の宿直室がある。
 小さな子供達の部屋にはずらりとベッドが並んでいる。
 確かにサトルの見覚えのある花模様のシーツでベッドはおおわれていた。
「へえ。上手いことできてるね。本当に自分たちでやったのかい?」
「やったよう!」
 心外だと言うように一人が叫んだ。
「なによ。エディーは見てただけだったわよ。アタシちゃんと見てたもん」
 左手をつないでいる女の子が言って、みんなが笑った。
 エディーは怒って文句を言ったが、サトルがそれを止めた。
「こら。女の子に乱暴な言葉を使っちゃいけないよ」
「だってぇ」
「ほら見なさいよ。大使は女の子の味方なんだから」
「ズルイやそんなの」
「男の子は嫌いなの?」
 輪の中で一番小さな男の子が不安そうにサトルを見上げた。
 見覚えのない新入生だった。
 サトルはしゃがんで、男の子に聞く。
「名前は?」
「フレッド」
「私は男の子も好きだよ。でも、いい子じゃないと嫌いになるかもしれない」
「え!ぼくは?」
 エディーが叫んだ。
「エディーがいい子なのは知ってるよ。だから今は好きだけど、女の子をいじめたって噂でも流れてきたらすぐに嫌いになってしまうだろうな」
「えー。ぼく、いじめたりしないよ!」
「約束するかい?」
「する!」
「じゃあ大好きだ」
「よかった」
「アタシが見張っててやるわ。大使」
「ああ、頼んだよ」
「なんだい、それ」
 エディーは不満顔だ。みんながクスクス笑う。
 フレッドがサトルの耳に口をつけてコソコソと話した。
 それに気付いた子供が「内緒話なんてずるいぞ」と言った。
 サトルはフレッドに「いいよ」と答える。
「なに?なんなの?」
 みんなが注目する中、フレッドは嬉しそうに笑ってサトルの肩によじ登った。
 サトルが立ち上がると、小さかったフレッドの頭が一番上になった。
「あー、ずるいっ。アタシも肩車がいい!」
「ぼく二番!」
「じゃあ三番」
 サトルはその後、全員を肩車することになった。
 すっかり疲れてしまったので、ベッドを借りるよと言って小さなベッドに体を丸めて横になったが、子供たちが上に乗って来たり髪を引っ張ったりするので全然休めなかった。
 強盗に襲われたみたいに洋服をくしゃくしゃにして出てきたサトルを見て、廊下で待っていた院長は叫び声を上げた。副院長はすっかり顔を青ざめさせていた。
 そうこうしいてるうちに三時になったので、食堂に下りてお茶をご馳走になる。
 お茶の時間には赤ん坊以外の子供たちがみんな揃った。
 出てきたデザートは年長組生徒が午前中に手作りしたものだった。
「全て裏の畑で取れたものを使っているんですよ。この栗も梨もそうなんです」
 副院長はしきりにそうアピールしていたが、サトルの寄付で農作業の道具や苗木などを買ったことを、サトル自身は知らなかった。
 お茶の最中に、被害に見舞われたサトルの髪を見かねた年長組の男の子が、ブラシを持ってきて髪を梳いてくれた。
「えっ、そんなに酷かったのかい?」
「踊り場に鏡あったでしょう?見なかったんですか」
 男の子は少し大人びた口調で言う。
 彼は将来は美容師になりたいそうだ。
「これじゃあ、色男も台無しですよ」
 女生徒がクスクスと笑った。
 院長の顔が引きつった。
「困ったな。うんと男前にしてくれよ」
「いいですよ、お客さん」
「こらっ、マイケル!口を慎みなさい」
 サトルは「シミュレーションですよ」と、院長をなだめた。
 サトルが初めてここに来た時、マイケルは九歳で、背も今よりうんと小さかった。
「そうだなあ、まずは色を変えてみましょうか?お客さんならきっとブロンドも似合いますよ」
「ええ、それはないよ。この髪の色は気に入ってるんだ」
「そうですか。残念だな。この辺にメッシュなんか入れたりして」
「ダメダメ。これでも私は公務員だから、真面目そうな感じにしてもらわなきゃ」
「そうですか。判りました。でも、真面目そうって言うのは……」
 マイケルは不意に堪えるように笑った。
 ティーンエイジャーにもなれば、何処かから仕入れたゴシップ雑誌くらいは目にしているだろう。
 院長はヒステリックに言う。
「マイケル!」
「なんだい、君?感じ悪いぞ」
「だって、お客さん。あんまり真面目そうには……」
「失礼な店だ!私は帰るよ!」
 サトルが腰を上げると大人以外が一斉に笑い出した。
 マイケルは何度も大袈裟に頭を下げた。
「すみません、旦那!まあ、機嫌を直してくださいよ」
「それなら、ちゃんと仕事をしてくれたまえ」
 サトルは急に横柄な客に変身した。
 マイケルは丁寧な手付きで髪を梳く。
 隣の席に座っていた女の子がサトルの手を引っ張った。
 今年の夏に入ってきた四才くらいのマーサという女の子だ。茶色い髪を頭の上の方で二つに結んでいて、その先は小鳥の尻尾のように小さくて可愛らしかった。
 サトルは優しい男に変身する。
「どうしたの?」
「でもパパが言ってたわ」
「なにを?」
 マーサが「パパ」と言った途端、院長の表情が緊張した。
 すぐに立ち上がり、マーサの傍に音を立てないように駆け寄ってくる。
「大使はこいおおき男なんだって。それって、マジメじゃないってことでしょ?」
「マーサ、おやめなさい」
 院長がマーサの肩に手を置き、たしなめる。
 そしてサトルに言う。
「お許しください。この子はまだ小さくて、自分が何を……」
「いや、いいよ」
 サトルは院長に微笑んでやった。
 グレーの地味なドレスに黒いベールを被ったクリスチャンである院長は、サトルが来る時にはいつも胃を痛めたような顔をしている。時々不憫に思えるくらいだ。
 サトルはマーサに目を戻した。
「多分それは、真面目じゃないって言うのとは、少し違うんじゃないかな」
 そして、マイケルを見上げて聞く。
「君はどう思う?」
 マイケルは困ったように眉をひそめた。
 それは芝居ではないようだった。
「いや、僕にもよく判んないけど、ちょっと違うんじゃないかな、マーサ」
「そうなの?」
 マーサは悪意のない瞳をマイケルに向けていた。
 サトルは言う。
「マーサにはお父さんがいるのかい?」
「うん。でもパパはお酒をたくさんのむから、わたしと同じお家にすめないの」
「そうなのか」
「マーサね、ここにくる前にね、パパにポーンて投げとばされちゃったのよ。それをむかいのお家のおばちゃんが見てたの。それでここにつれてこられちゃった」
「ここの住み心地はどう?パパがいないと淋しいかな」
「パパがいないのは淋しいけど、ここはたのしいわ。マイケルはね、いつもみんなの髪を切ってくれるのよ。マーサね、いつもパパに切ってもらってたの。でもパパッたらヘタなんだもん。いつもおかしな髪になって、それだけはイヤだったの」
「そうか。マイケルは優しいかい?」
「うん。でもときどきコワいのよ。髪を切ってるときに動いたらすごく怒るんだもの」
 サトルはマイケルを見上げる。
 マイケルはふて腐れたように言う。
「動いたら危ないからだろう」
「パパとマイケルはどっちが怖い?」
「マイケルよ」
「そうなんだ」
「パパはべつにコワい人じゃないのよ。みんなはそう言わないけど」
「君には優しかったのかな?」
「うん。だって投げとばされたときだって、ベッドにポンって落ちたのよ。痛いことなんか少しもなかったの。でもみんな、どうしてだかパパをワルイヤツだって言うのよ。パパはじぶんのこと、そうじゃないって言ってたわ。でも少しはワルかったのかもね」
「どうして?」
「だって、パパはこないだのメンカイの日に言ってたんだもん。大使はワルイ男だって。でも、わたしはそうは思わないわ。ワルくない人をワルく言うのはワルいことでしょ?だから」
「ありがとう」
 サトルは礼を言う。
 マーサの後ろでは、院長が頭を抱えてうなだれていた。
「こんどのメンカイの日に言っておくわね。大使はワルイ男じゃないって」
 サトルは微笑んでマーサの細い前髪を撫でた。
 マーサは思い出したように言う。
「ねえ大使。こいおおきってどういうこと?」
 サトルは少し弱って、マイケルを再び見上げる。
 マイケルは関わり合いになりたくないような顔つきだった。
 他の子供たちを見てみる。気まずそうにしている子や、ニヤニヤしている子など様々だ。
 小さい子たちはほとんど、目の前のケーキを食べる事に熱中していた。
 サトルは腕組みをして少し考えた。
「女の子をすぐ好きになっちゃうってことじゃないかな」
 正直過ぎたのか、院長が咳き込んだ。
「マーサのことも好き?」
「うん。でもね、マーサを好きなのとはまたちょっと違う感じかな」
「そうなの?いろいろあるの?」
「うん。いろいろあるんだ」
「むずかしいのねえ」
 マーサのその言い方は少し大人びていた。
「マーサも、マイケルくらいになれば判るかな」
 それを聞くと、マーサは興味深そうにマイケルを見上げる。
 すると、サトルの向かい側の列に座っていた十歳くらいの男の子が手を上げた。
 サトルは「はい」と、彼を指名する。
「大使は今、好きな人いるんですか?」
 周りの子供たちが笑い出して、同席していた数人の職員が口々に注意を始めた。発言者はしょんぼりと肩をすくめる。
 サトルは職員に首を振った。
「いいよ。今日はみんなとお喋りするために来たんだから」
 背後で、「申し訳ありません」という院長の呟きが聞こえる。
 マーサは遅ればせながらケーキを食べ初め、マイケルはセットが終わったので自分の席に戻った。
 マイケルが着席するのを見届け、サトルは言う。
「実は、いるんだ」
 離れた席の女の子が二人「きゃーっ」と言って、手を合わせて喜んだ。
「お静かに!」
 職員が言うが、サトルは多少騒がしい方がいいがなとも思う。
「でも彼女にはなかなか、私の気持ちが伝わらなくて、困ってるところなんだよ」
「片想いなんですか?」
「うん。どうしたらいいと思う?誰かアドバイスをくれないかな?」
 年長組の子供たちがザワザワと相談を始める。
 そして何かをプレゼントしたらどうか、という意見にまとまったようだった。
 その中で、女の子が元気よく発言した。
「バラの花がいいわ。女の子にプレゼントと言えば、まずは真っ赤なバラよ!」
 その発言には「そんなのありがちだよ」という批判的な意見も続いたが、サトルは気に入った。
「参考にさせてもらうよ」
 お茶の時間が終わると、義務教育期間中の六歳から十五歳の子供達はまた教室へ戻った。
 年少組はお昼寝の時間になり、サトルは全員が寝付くまで子供達のベッドルームで過ごした。
 帰り際に、院長がすまなそうにサトルに言う。
「誠に申し訳ありません。今日は本当に、いつにもまして失礼なことを……」
「いや、なかなか楽しかった」
「ありがとうございます。大使がいつもそう言って下さるので、こちらは甘える一方になってしまっているようで、本当に申し訳なく思っております」
「みんなが元気ならそれでいいですよ。それより、マーサは大丈夫なんですか?父親が依存症のようですね」
「はい。二月に一度、彼女を連れて療養所に面会に行っています」
「回復しているんですか?」
「今のところ難しいようです。あちらの話によれば、隠れてアルコールを口にしているそうなんです」
「そうですか」
「あの、大使」
「はい?」
「ミリアは元気にしておりますか?」
「ああ。元気ですよ。もう五年になりますね。今ではすっかり私が彼女の世話になっています。彼女は仕事熱心であまり休みを取ろうとしないから、今日にでも偶にはここに顔を見せに来るように勧めてみましょう」
 院長は深々と頭を下げた。 

 サトルは帰りの馬車の中から街を眺めていた。
 そして花屋を見つけると馬車を止めた。店にある赤い薔薇を買い占める。
 しかし、一軒分の量では物足りない気分だった。
 大きな花束だが、三つだけだ。それではインパクトにかける。サトルはそのあと四回馬車を止め、合計二十の花束を集めて帰った。
 公邸の玄関前に馬車を止めると、すぐに目を丸くしてクラウルが出てきた。
 馬車はサトルの移動用なので二人乗りの小さめのものだった。
 それで花は車内に入りきらずに御者台も埋め尽くしていた。
「また酔狂な……」
「そう言うなよ。ほら、手伝って」
 サトルは二束抱えて、クラウルは三束抱え、御者は四束抱えて玄関フロアに入った。クラウルがそこで手伝いを呼び集め、残りの花を運ばせる。花がなくなると御者は厩に戻った。
「ナオミはどうしてる?」
「お茶の時間の後に庭を散歩されていましたが、今はお部屋にいらっしゃいます」
「そう。じゃあ、みんなついて来て」
 サトルは二束を持ったままナオミの部屋へ歩き出した。
 その後ろにジョエルの助手二人とクラウルの部下二人、清掃係の男二人が三つずつ花束を持ってついて行く。
 その後ろには花瓶を持った女中が数人続いた。
 ノックをして、ドアを開けたナオミの目の高さに、サトルは花束を差し出した。
「お土産だよ」
 ナオミは急に赤い色が目の前に広がって驚いたが、サトルの背景にも赤い薔薇があることに気付いて、更に驚いた。
「どうしたの?」
「ありきたりだと笑ってもいいよ。でもきっと、少しくらいは私の気持ちを表すのに役立ってくれるんじゃないかな」
 部屋の中にサトルが入ると、続いて女中たちが入ってキッチンへ向かう。
 そこから円形のテーブルを入口近くまで持ってきて、男たちから花を受け取って載るだけをそこに載せた。収まらなかったものはキッチンへ運ぶ。
 男たちは自分たちの持ち場へ戻っていった。
 ナオミは半ばあきれたように言った。
「こんな沢山の薔薇を一度に見たのは初めてだわ」
「そう?喜んでくれたかい?」
「ええ、でも、驚いた方が強いかも……」
 サトルはテーブルからバラを一本取り上げ、ナオミに差し出す。
「棘は取ってあるから平気だよ」
 ナオミはふっと微笑んで、それを受け取った。
「ありがとう」
 女中たちは手際よく薔薇を花瓶に活け、部屋のあちこちに飾っていく。
「でもいいのかしら?なんだか贅沢ね」
「気持ちだよ。素直に受け取って」
「そうね。とても嬉しいわ」
 ナオミが喜んでくれているのは判ったが、そういう割りに表情は晴々とはしていなかった。
 今までの女なら、首に腕を巻きつけて、キスの一つもしてくれただろう。
 しかしそれも風習の違いが影響している筈だった。本国ではそんな大袈裟な表現はしない。サトルはこの国に慣れてしまっているのだ。
 サトルは、花束を一つだけはそのままにしておくように女中に頼んだ。
 ナオミは受け取った薔薇を口元に持っていき、その香りを楽しんでいた。
 女中たちが仕事を終えて部屋を出て行く。
 サトルは言った。
「さてと、これから仕事にかかるよ」
「え?何をするの」
「たしかキッチンにあると思うんだけど。さあ、手伝って」
 サトルはナオミの手を取ってキッチンに行き、ほとんど使用される事がないのにぴかぴかに磨き上げられている食器棚から、ガラスのボールを取り出した。
 それに少し水をはり、大袈裟に重そうな顔をして、ボールを運ぶのをナオミにも手伝ってもらう。
 部屋に戻り、二人でテーブルの上にボールを置いた。
「どうするの?」
「花びらをちぎって、中に入れる」
「何だか勿体無いわね」
「でも綺麗だよ」
 二人は花びらをちぎっていった。
 水の面は徐々に赤く染まっていったが、思ったより疲れる作業だった。
 サトルはキッチンからナイフを取ってきて、薔薇の首根っこを切っていく。
 ナオミは丁寧に花びらを一枚ずつはずしながら、クスクスと笑ってサトルに言う。
「恐ろしい人ね」
「でも綺麗だ」
 サトルは同じ言葉を繰り返し、そのうちテーブルには薔薇の茎だけが残った。
 ガラスボールは、原形をとどめた薔薇と花びらとで一杯になった。
 やや、一杯になり過ぎた。
「お皿に花を浮かべるって言うのは綺麗だと思うんだけど、これはかなりの迫力があるわね」
「確かに。じゃあ、器をもっと大きくしよう」
「どうするの?」
「お湯に浮かべよう。バスルームに入ってもいいかい?」
「薔薇のお風呂?素敵ね」
「夕食までまだ少しあるから、お風呂に入るにはいい時間じゃないかな」
 ナオミが拒否しないのでバスルームに薔薇のボールを持っていく。
 今度は一人で軽々と抱えていくので、ナオミは笑いながらついてきた。
 バスルームは使用された痕跡もないほど整然と片付けられている。
 朝食の間に女中の誰かが掃除をしてくれているからだ。サトルはどういう手順で掃除をするのか知る訳もないが、どの部屋も丁寧に掃除をしてくれる使用人たちに満足していた。
 要請すれば、本国から秘書や庶務担当の派遣員を送ってくれる。
 雑務を担当してくれる従業員も然りだ。
 しかし、サトルは全てルル国内から職員を雇っている。
 それは費用の削減にも役立ってはいたが、それは大した理由ではない。
 本国人との付き合いや手続きが面倒なのと、この土地の雇用対策に少しでも貢献すれば大使館の印象が良くなるという利点があるからだ。
 事実上業務を手伝ってもらっているクラウルを合わせて、大使館には四十人の従業員がいる。
 サトル一人に対して四十人の使用人なら、州の労働局から褒めてもらえる程度には貢献しているだろう。
 サトルは一人で大使館を切り盛りしているために、通常の大使の給料にかなりの手当てが上乗せされている。いくら仕事が暇でもその額は変わらない。
 そして使用人を二十人までは公費で雇える。
 それを超える使用人については雇用費用の四分の一が支給されることになっていた。
 サトル自身について言えば家賃と食費は公費で賄われるうえ、その収入に税金はかからない。
 そうなれば、金の使い道にも困ってくると言うものだった。
 女に金をかけたり、気まぐれに病院や孤児院に多額の寄付をしたりしても、少しも惜しいことはなかった。
 ナオミは部屋に飾った沢山の薔薇を見て贅沢だと言ったが、サトルにとってはそんなもの贅沢でもなんでもない。
 いつもの可愛い気まぐれに過ぎなかった。
 とは言え、次にこの地を訪れる大使がサトルと同じように上手く立ち回れるかと言えば、サトルを知る者なら誰もが首を捻るだろう。
 舞い込んでくる大金をただ溜め込もうとする者や、周りを身内で固めたい者、あるいは(もちろんこれが最重要課題だが)人付き合いの上手くない者であれば、この国での本国への親近感は一気に失われるだろう。
 サトルの価値はまさにそこにあった。
 女性関係でタブロイド紙に書き立てられようと、パーティーの席で雑誌記者に狙われようと、それ以外のことでサトルには悪い噂は上がらない。
 返って、「女には多少弱いが人格者」などという都合のいい評判を身につけている。
 その受けの良さは、サトルの天性と言えるかもしれない。
 バスタブにお湯を入れながら、サトルは薔薇のボールをその上で返した。
 すぐに薔薇の香りが部屋中に立ち込める。
 女のためにバスタブに湯をはってやるなど、さすがのサトルでもこれが初めてだった。
「いい香り」
「ねえ、ナオミ」
「なに?」
「夕食にはクロゼットに入っている服を着てくれないかな?」
 ナオミは溜め息をつきそうな表情で言う。
「可愛いドレスが入ってたわ」
「見てくれてはいたんだね」
「でも、似合わないと思うわ」
「どうして?きっと似合うよ」
 ナオミは乗り気ではないようだ。
「もちろん、気に入らなければ無理に着なくてもいいけど」
 と、サトルは今気付いたように言う。
「とりあえず、私はここから出て行こう。いつまでも女性のバスルームにいるのはマナー違反だね」
 そしてボールを持って部屋に戻り、その中にテーブルの上の薔薇の残骸を全て入れると、キッチンへ持っていった。
 再び部屋に戻ると、ナオミはテーブルの脇に立っていた。
「お花、ありがとう」
「うん。手紙は出したの?」
「書いたけど、まだ」
「そろそろ郵便局の集配係が来てくれる頃だけど、どうする?急ぎでないなら毎日、朝と昼と夕方に来ているから、その時に一緒に出していいんだよ。クラウルに言えばやってくれる」
「そうなの。そうね、でも、明日の朝でいいわ」
 サトルは目を細めて言う。
「内容を書き直したりする?」
 ナオミは微笑んだ。
「いいえ。書き直さないわ」
「良かった。それじゃあ、私はたぶん居間にいると思うけど……」
「大丈夫よ、ちゃんと探すから。迷子になってお腹が空いたら叫ぶから、その時は救出に来てね」
「OK。判った」
 サトルはウィンクをして、ナオミの部屋を出た。


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