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小説|腐った祝祭 第一章 6


 公邸の居間にたどり着くなり、ナオミはソファーに崩れるようにして座った。
「ああ、緊張したぁ」
「君は先刻からそればっかりじゃないか」
 サトルは傍にいた女中に水を二つ頼む。
「まだ緊張が解けないのかい?」
「だって、四日前は狭いオフィスで班長に怒られてたのよ?『何だね、このニガヨモギみたいな色は?君の絵はいつも緑ばかりだ。こっちは戦車のデザインを頼んでるんじゃないんだぞ!』って。それが、今日はルル王国の皇太子とダンス?ありえないわ。だいたいダンスだなんて、生まれて初めてなのに、その相手が王子様だなんて!」
「まあまあ、落ち着いて」
 すぐに戻ってきた女中からグラスを二つ受け取ると、サトルは女中におやすみを言った。
 女中は仕事を終えて居間を出て行く。
 サトルはナオミにグラスを持たせて、自分は隣に腰を降ろす。
「しかし、さすがは王子様だ。リードが凄く上手かった。君は上手く踊っていたよ」
「まさか。いいのよ、自分がみっともないことは判ってるの。だって、初めてだったんだもの。神様だって許してくれるわ。そうでなきゃ嘘よ。もし駄目だって言うなら、無理やり私を引っ張り出した何処かの国の大使に罰を与えて欲しいわ」
 ナオミは水を続けて三口飲んだ。
 サトルも水を飲んで、グラスをテーブルに置く。
「大袈裟だよ。かなり酔ってるんじゃないかい?」
「ええ。酔ってるわ。だって恥ずかしかったんだもの。あんなに大勢の人に見られたことなんか、今までになかったんだから」
 言い終わると、ナオミは水を飲み干してしまった。
 サトルは彼女の手から滑り落ちないうちにグラスを奪い、テーブルに置いた。
 そして彼女の肩を抱き寄せる。
「少しもおかしくなんかなかったよ。二人は絵になっていた。だからみんなが見ていたんだよ」
「嘘よ」
 ナオミは非難がましくサトルを見上げた。
 サトルは空いていたもう片方の手を、ナオミの背中に回した。
「嘘じゃないよ。君は綺麗だった。私の鼻も高かったし、我が国の代表としても少しも恥ずかしい所なんかなかった。なにより君は人の話をよく聞いて、誠実に答えようとしていた。その姿勢は多くの人が目にして、そして好感をもった筈だ。君に好印象を持つということは、我々の国にも好印象を持つということだよ。わが国の政府は君に感謝状を贈らなければならないくらいさ」
「そんな・・・・・・それこそ大袈裟よ」
 ナオミはサトルに間近で見つめられ、少し酔いが冷めたようだった。
 興奮が治まり、サトルの瞳を静かに見つめ返していた。
 サトルは彼女に顔を近付けようとした。
 しかし、ナオミはサトルの喉もとにそっと手をあてて、サトルの動きを封じた。
「サトルさん」
「なに?」
「あなたも酔ってるわ」
「君にね」
 サトルは軽くキスをして、すぐに唇を離した。
「殴るかい?」
「いいえ。でも、駄目よ。私は酔ってるもの」
「そうだね。もう寝る時間だ。部屋に案内するよ。心配しないで。君専用の部屋だ」
 サトルはナオミを両手に抱え、既に用意してあるナオミの部屋へ連れて行った。ベッドの端にかけさせる。
「こっちがバスルーム。それと、こっちはキッチンになってるから。どちらも勝手に使っていいよ。部屋にあるものは全て遠慮せずに使ってくれ。パジャマも洋服もいくらかはある筈だから、好きに着ていいよ。それじゃあ、おやすみ」
 それだけ説明して出て行こうとしたサトルを、ナオミは呼び止めた。
 サトルは廊下に出て、ドアからナオミを振り返る。
「どうしたの?」
「なんだか、夢を見てる気分なの」
「残念だけど、明日の朝、君は私と朝食をとらなければならない。それは現実のことだよ。おやすみ。いい夢を」
 サトルは自分の部屋に戻り、すぐに風呂に入った。
 純白のバスタブにゆっくり浸かっていると、ガラスの壁の向こうからミリアの声がした。
「失礼します、サー。明日の起床時刻は?」
「七時。いや、六時半にしてくれ」
「かしこまりました」
「ねえ、ミリア」
「はい?」
「ナオミを見たかい?」
「ええ。少しだけですが」
「どう?彼女の印象は」
「今までになく、おしとやかな方だと感じました。それに良い人のような気がします。先程は少し酔ってらっしゃるようでしたけど、きっと悪い殿方に飲まされたんだと思いましたわ」
「勘がいいね。彼女はあまり酒が強い方じゃないみたいなんだ。これからは気をつけないとね」
「でも・・・・・・」
「なんだい?」
「あの方は大使館のお客様です。私、心配ですわ」
「なにが?」
「立ち行ったことだとお怒りになります」
「怒らないから言ってごらん」
「あの方はすぐに本国にお帰りになるんでしょう?」
「・・・・・・どうかな。まあ、パスポートは明後日には出来上がってくるだろうけど」
「大丈夫なんでしょうか・・・・・・。サトル様のことが心配です。それ以上に、あの方のことが心配です」
「私が彼女に迷惑をかけると思ってるんだね」
「正直に言ってしまえば、そうですわ」
「君は正直者だから好きだよ、ミリア。それに優しいしね。今日初めて会ったナオミの心配をするなんて」
「お怒りになったんですか?」
「いや、違うよ。感心してるんだ、素直にね。君を私の専属にしたのは正解だった。ナオミの帰国がいつになるか判らないけれど、私も彼女の迷惑にならないよう気をつけよう。大丈夫だよ。私だって大人なんだ。自制できるよ」
 その言葉が信用できなかったのか、ミリアは返事をしなかった。
「できないかな?」
「私には判りません。サトル様が優しい方なのは知っていますが、気まぐれなところがあるのも知っていますから」
「そうだね。ミリアには隠し事はできないな」
 サトルは体をずらして、目の下まで湯に潜った。
「サトル様?」
「ああ、ごめん」
 伸びをして、体勢を元に戻す。
「ありがとう。もういいよ、おやすみ」
「おやすみなさいませ」
 サトルは、今度は勢いよく頭まで潜った。
 これは気まぐれか?いつもの?
 殿下。あなたはどうして、そんなにモルガを愛することができるんですか?
 その感情は本物なんだろうか。
 自分が気まぐれなのは判ってる。
 でも、女だってそうじゃないか。
 ナオミは私に関心を向けてくれたかな?
 手応えはあったね。明日には私の方へ振り向かせてみせよう。
 パスポートはおそらく明後日の昼くらいになるだろう。
 どうするんだ?ナオミは帰ってしまうぞ。
 いや、長期休暇をとっていると言っていたじゃないか。あと二週間は猶予がある。
 それから?
 一時の夢でいいのか?
 一日も二週間も同じようなもんだ。
 夢はいつだって甘美なものだった。
 迷惑をかけないでください。
 ミリア。君はいつから我が国の女の味方になったんだい?
 迷惑なものか。彼女さえその気になればね。
 ナオミは遅かれ早かれ帰ってしまうよ。
 やけにむきになってるね?今日、出会ったばかりの女に。
 もう一度お願いします。ゆっくりと。
 クラウル!珍しいこともあるもんだね!
 私の絵はいつだって緑色なんですもの。
 お前が大人だって?自制できるって?お笑い種だな。
 立ち回りが上手いことは認めろよ。
 そうだ。いつだって上手いことやってきたんだ。
 魔法のように、綺麗な別れ方ばかりしている。大したもんさ。
 彼女は帰ってしまうよ。お前をおいて。それは確かなことなんだ。
 確かって言葉ほど、不確かなものはないね。
 あなたほど誠実な殿方はいなくてよ。
 どうやったらそんなセリフが?世間知らずのマダム!
 真実の愛なんか存在しないんですよ。
 他でもない、あなたがその証人でしょう。
 ナオミは明後日、帰るかもしれないよ。
 どうした?今夜の酒には毒が入ってたんじゃないのか?
 世の中に、絶対なんてことはありはしないんだ。
 だったら殿下のそのお気持ちだって。
 不安の井戸に突き落とされればいい!

 サトルは我慢できずに湯から顔を上げた。
 温かい空気を思い切り吸い込んだ。
 手で顔を拭い、髪をかき上げて頭を振り回す。お湯が周囲に撒き散らされる。胸を大きく上下させ呼吸を続ける。
 三分か。上々だな。
 バスルームの壁にある時計を見て、サトルはそう思った。


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