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小説|腐った祝祭 第一章 7

 サトルは朝七時になると、女中を一人連れてナオミの部屋の前に来た。
 自分は廊下で待ち、女中にナオミの様子を見に行ってもらう。
 廊下の窓から庭を見る。公邸の裏側にあたる庭だ。本館との間の中庭より広い。
 まだ薄暗い朝だった。庭全体に低く靄が立ち込めている。視界が悪いので、遠くに見えるはずの街並みはかき消されていた。
 改めて見れば神秘的で美しい庭だ。晴れた日も綺麗だが、朝の気温が急に下がるこの時期は、この靄のお陰で幻想的な雰囲気になる。冬になれば、気温差がさほどでもなくなるためにか靄はかからない。今が一番いい季節かもしれない。
 しばらくすると、ナオミが部屋から出てきた。白い二枚扉を開けてやった女中は、サトルに合図されると、扉を閉めて廊下を歩いていった。
 サトルは少しがっかりしていた。
 ナオミはサトルが用意していたワンピースを着てくれてはいなかった。ジーンズ姿の女性を見るのは何年振りだろうと思った。上にはブルーグリーンの柔らかそうなブラウスを着ている。そのデザインは可愛らしかった。
「おはよう」
 と、サトルが言うと、「おはようございます」と、ナオミは遠慮がちに応えた。
「どうしたの?二日酔いで気分が優れないのかな」
「いえ、そういうんじゃないんですけど」
 言葉使いも遠慮がちになっていた。
 このまま食卓についても、話は弾まないような気がした。
 サトルはナオミの隣に並んで立った。庭を散歩しませんか?そう誘うと、不安な瞳でナオミはサトルを見上げた。少し、お話をしましょう。もしかしたら昨夜、私はあなたに悪い夢を見せてしまったかもしれない。
 ナオミは頼りなげだが、微笑んでくれた。
 サトルは廊下の先を手で示し、二人は歩き始める。
「とてもぐっすり眠れました。あんなに寝心地のいいベッドは初めてだわ」
「それは良かった」
 庭に出ると、ナオミは朝靄に驚いていた。
 部屋の窓から外を眺める余裕もなかったのだろう。
「綺麗」
 と、呟く。
 二人は黙ったまま庭に進み出た。しばらく歩いて、屋敷の様子もぼんやりとしてきた頃に、ナオミは立ち止まった。サトルよりもナオミの方が少し早歩きだった。その分だけ離れた場所でサトルも立ち止まり、彼女を見つめていた。
 ナオミは顔を上げ、辺りの様子をよく見ようとしているようだった。そして、ゆっくりとその場で体を回転させ、庭をぐるりと眺めようとする。しかし、朝靄に視覚を惑わされたのか、体がゆらりと揺れた。
 目眩をおこしたようだった。
 サトルは慌てて駆け寄り、彼女の体を支えた。
「大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさい」
 ナオミは恥ずかしそうに髪をかき上げる。
「やはり、体調を崩したんじゃないかな。私のせいだ」
「そうじゃないの。まだ何だか、夢の中にいるような気がしてるだけなの」
「そう?それならいいけど。散歩でもすれば気分がすっきりするかと思ったんだ。逆効果だったね。戻ろう。長居すると風邪をひくかもしれない」
 サトルは上着を脱いで彼女の肩にかけた。
「寒いかい?すまない、気付かなくて」
「いいえ。そんなには寒くないの。本当よ。外の空気は気分がいいわ。ここは森の匂いがするのね」
 そう言うナオミを見ていると、サトルは急に彼女を愛おしく感じた。
 怒られるのを覚悟でそっと抱き寄せてみた。しかし、ナオミは嫌がらなかった。少しのあいだ抱きしめて、体を離す。髪をそっと触って、唇にキスをした。
「・・・・・・サトルさん」
「はい」
 ナオミは怯えるように睫毛を震わせた。
「もしかしたら昨日も、こんなことがあったのかしら?」
「どちらなら、あなたは安心できますか?」
「判らない。でも、本当のことが知りたいわ」
「それなら白状しましょう。同じようなことが、昨夜もありました」
「・・・・・・やっぱり。夢じゃなかったのね」
「ぶつならぶって下さい。私がしたことが罪ならば、罰を受けます」
「いいえ。ぶたないわ。でも、あなたの気持ちがよく判らないの。私をからかってるの?」
「どうしてそう思われますか?」
「だって昨日から、おかしいのよ。私の周りであり得ないことばかり起こってるんだもの」
「でも、これは夢じゃありませんよ」
「そのようね。だから判らないのよ。私、何処にいるのかしら?」
「ルル王国」
「ルル王国。そうよ。飛行機で来たの。ド・ゴール経由だったわ」
「だけどここは、ルルでもない」
「そうね。大使館だもの。ルルであって」
「ルルではない。我々の国です」
「・・・・・・不思議ね。あなたのことを、昔から知っている人のような気がする。でもこれは勘違いよ。判ってるの。知人もいない、知らない国に一人で来たんだもの。そこで同じ言葉を話す人に会えば、懐かしく感じるものなのよ」
「それだけですか?私は、それだけではありません。これだけは言っておきます。私はあなたを懐かしく感じているだけではない。クラウルに聞いてみたらいい。かつてこの大使館を訪れた母国の女性に、こんな感情を抱いたことはありません。本当です」
 ナオミは疑うように首を左右に振った。
「こんなって、どんな感情なの?判らないわ」
「あなたを愛しいと思う感情です」
 ナオミは更に強く首を振る。
「昨日会ったばかりよ」
「恋に落ちるのに時間は必要ない」
「私は・・・・・・私には必要だわ。頭が混乱して、理解するのに時間が要るわ」
「恋愛を理論的に説明するなんて無理です。ナオミ。今の私には、あなたへの愛を実践することしか出来ません」
 ナオミが哀しい表情をするのを、サトルは理解できなかった。
 自分が嫌われていないことは肌で感じるのに、ナオミの心が頑なであることも強く感じた。
 サトルは気分を変えるためにナオミの髪にキスをし、肩を抱いて屋敷へ歩き始めた。
 歩きながら、サトルは言う。
「許してください。私はもう少し、冷静になる必要があるようです」
 ナオミは食事を始めるまで、口を開かなかった。

 二人の朝食の席には、給仕のために二人の女中が付いてくれた。
 ナオミは食事の世話をやかれる事に慣れていない様子だったが、女中の方はサトルが連れてきた女の機嫌を損ねないように給仕をすることに慣れていた。彼女たちは、微笑まれることを嫌いな女には微笑まないし、微笑んで欲しい女には控えめに微笑むことを心得ていた。サトルとの会話を聞いて欲しくないと思っている女に、聞いていないふりをしてやるなどは容易なことだった。
 ナオミは女中に微笑んで欲しいし、少しくらいは会話をして欲しいと願ったようだ。女中はナオミに何かを尋ねられると、行儀のよい微笑を浮かべ、知っているナオミの母国語を交えながら丁寧に答えた。ナオミはそれを喜んだ。
 しかし、サトルには複雑な状況だった。
 なぜならナオミは、サトルと会話をするよりも、女中との会話の方が楽しいようだったからだ。だがそれは不愉快ではなかった。そう。ナオミには少しも不愉快な所がなかった。
 警察から電話が入ったのはその食事の最中だった。
 サトルはナオミに断りを入れて食堂を後にする。
 公邸内の書斎に入り電話を受けた。ナオミのパスポートが発見されたという知らせだった。部屋に戻り、サトルは言った。
「警察が昨夜捕まえた窃盗犯の所持品から、あなたのパスポートが出てきたそうです。今から持ってきてくれるそうですよ」
「本当に?」
「ええ」
 サトルの口調は事務的なものだった。
「どうやら無傷のようです。再発行する手間が省けますね」
「よかったわ」
 ナオミは心からほっとしたように、笑顔で言った。
 よかった?
 サトルはそう聞き返そうとしたが、やめた。ナオミは続ける。
「私のパスポートが偽造されたり、犯罪に使われたりしたらどうしようって、凄く不安だったの」
「警察が言うには、その心配はないようです。加工される前でよかったですね」
「ええ」
「食事は終わりましたか?」
「はい。とても美味しかったです」
 サトルは女中に「もういいよ」と言った。二人は食卓を片付けるのではなく、その場から立ち去った。サトルがそういう意味で言ったからだ。
 ナオミは、黙ってコーヒーを飲むサトルを見て、首を傾げた。
「あの・・・」
「後一時間もしないうちに警察は来てくれます」
「そうですか」
「でも財布は見つからなかったそうです」
「そうですか。でも、あれには現金だけで、カードは入っていませんでしたから良かったです。現金も分けていたものが残ってますから、それで飛行機代は足りると思います」
「宿泊代は?」
「・・・長居はできないと思います」
「それなら帰るまでここにいて下さい」
「・・・何を怒ってるの?」
「あなたの様子が、警察からパスポートを受け取ったら、すぐに帰ろうしているように見えるからです」
「でも、明日の夕方の便で帰る予定だったことは、昨日お伝えしました」
「でも、あなたは今日にでも帰ることができます。どうしますか?」
「帰った方がいいような気はしています」
「会社の方の休暇はまだ一週間以上残ってるのに、どうしてです?」
「会社は関係ないわ。帰って、自宅でのんびり過ごすつもりだったんだもの」
「それなら、今日帰ろうと思うのは、間違いなく私のせいなんですね」
「・・・ええ」
「私はあなたを帰したくない」
「そういう訳には行きません。だから、それなら、早く帰ってしまった方がいいんだわ」
「だから?どうして、だからになるんです?」
「だってそうじゃない。ずっとここにいる訳には行かないんだもの。それともあと一週間、私が滞在を延ばせばあなたは満足するの?そんなのって酷いわ。残酷だわ」
「私はそんなことは言っていない。いや、私の気持ちは先ほど伝えたように思っていたが、言葉が足りなかったようですね。愛しいという言葉だけでは満足ではないんですね。もっと細かく説明しないと判ってもらえないんですね。そんなのは無粋だと思うが、言いましょう。全てはあなた次第です。ここにはあなたが満足するまでいたらいい」
「・・・・・・嘘よ、そんなの」
「嘘じゃない」
「信じろって言う方が無理よ、そんなこと」
 ナオミは乱暴に席を立つと、走って部屋を出て行った。
 なぜ信じない?
 そして、どうしてこんなに、むきになっている?


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