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小説|腐った祝祭 第一章 1


 サトルは言った。
「なかなか面白い」
 本当はそれほど面白い話でもなかった。しかし、それはほぼ口癖になっていたのだ。それでサトルは頷きながら、実にもっともらしい顔つきで、もう一度言う。
「君は、なかなか面白いことを言う」
 カクテルグラスの脚を、人差し指でトントンと、煙草の灰を落とすくらいの勢いで叩いた。そして不意にグラスを持ち上げ、酒を飲み干す。
「ではそろそろ、私は帰るとしようかな」
「え、もうお帰りで?」
 腰を上げたサトルに、テーブルの前の席で話し相手になっていた男は、慌てた声を向けた。
「もうずいぶん夜も更けてしまった」
「まだこれからですよ」
 男はサトルを引き止めようと、情けない表情で腰を浮かす。手入れの行き届いていない髪に、目の下に隈のある不健康な顔色を持った中年だ。痩せて背は高く、指先は鳥の足のようにカサカサしていて細かった。偶に酒場で出会う男で、気が向くとサトルは酒を奢った。彼が酒を飲むこと以外、何をしている人間なのかサトルは知らない。名前は初めて会った時に聞いた覚えがある。テラ、もしくはテルと言ったはずだ。
 サトルは酒場の出口にゆっくりと歩いた。男は残念そうに後についてくる。サトルのコツコツという革靴の音に対して、男のものはギュッギュッという響かない音だった。騒がしい大衆酒場にあってはスーツ姿のサトルの方が場違いな観はあるが、特にそれを気に留める客はここにはいなかった。この町には何でも受け入れる寛容さがある。さすがに国王がやってくれば、そこを中心に空間と静寂とが広がるだろうが、駐在大使程度では誰も驚きもしなかった。
「旦那、本当に帰るんですかい」
「ああ」
「じゃあ、馬車でも呼びましょうかね?」
「そうだね」
 サトルが答えると男は少し顔をほころばせ、サトルを追い越してさっさと店を出て行った。
 サトルは出入口付近の会計カウンターで立ち止まる。給仕をやってくれていたウェイトレスが駆け足で寄って来ると、テーブルの上に並んだ伝票からサトルのものを選んで手に取った。
「テラの分もね?」
「ああ、そうだよ」
 ウェイトレスは呆れたように首をすくめると、赤い唇に皮肉な笑みを浮かべて合計額の計算を始めた。サトルは飲み仲間の名がテラだと確認できたので覚えておこうと思った。しかし、きっとすぐに忘れてしまうような気もしていた。
 女は言った。
「大使もお人好しよね。あんなじいさんにいつも奢ってあげて」
 じいさんと言うほど老けている訳はないが、この若い女からすれば、痩せこけた彼の男はそう見えるのだろう。
 サトルは、女が言った金額を軽くカバーできる額の紙幣を渡した。
「残りは君に」
「いつも、ありがとう」
 サトルの決まり文句に、女はお礼に艶めかしい視線を送ってくれた。
「でも大使。偶にはあたしにも奢って欲しいわ」
「そうだね。いつか機会があれば食事にでも行こう」
 これも決まり文句だった。女も、本気で自分を誘ってくれる気などないのだと承知しているのだろう。一瞬冷めた目付きになって、それからすぐに微笑みを取り戻す。
「寄り道せずにちゃんと大使館まで帰るのよ?テラなんかにそそのかされたら、とんでもない店に連れてかれるんだから」
「判ってる。浮気はしないよ」
 サトルは気が向いたので女の頬に顔を近付けた。女は喜んで頬を差し出してくれた。サトルはそれにキスをして言う。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい、大使」
 きっと私の名前を知らないのだろう。
 サトルはそう思いながら、スウィングドアを押して外へ出た。サトルの方も女の名を知らないのだった。
 五段だけの階段を降りて道に出ると、テラは既に二頭立ての馬車を止めてくれていた。馬車に乗り込みながら、ドアを開けてくれたテラに銀貨を一枚手渡す。
「ありがとう」
「毎度どうも、旦那。おやすみなさいまし」
「おやすみ」
 馬車はガタゴトと揺れ、大使館に向かった。
 ルル王国に駐在する外交官は一人だけだった。つまり、特命全権大使のサトルだけだ。だから全ての業務をサトルが兼任していることになる。しかし、この国は小さく、自国民も観光客も少ない。大使館が忙しくて一人では手が回らない、などというような事態に陥ったことは、赴任以来一度もなかった。
 高い生垣と鉄柵に囲まれた大使館には、その敷地に大使公邸も併設してある。サトルは馬車を降りると御者に金を払い、門のベルを鳴らした。敷地内の監視小屋にいた警備員が出てきて、鉄格子の大きな門の横にある通用門を内側から開けてくれる。
「お帰りなさいまし」
「ただいま。何か変わったことは?」
「ありません」
「そう、よかった。今何時かな?」
 神経質な顔立ちの警備員は、名をリックという。サトルが現地採用した地元出身の男だ。ルルはその国民性がおおらかなので、神経質で健康な男を六人見つけるのはそれなりに大変な作業だった。しかしその甲斐あって、彼らは几帳面に仕事をこなしてくれている。決められた時間に決められたルートを巡回警備し、決められた以上に細かい注意を全般に払ってくれる。その上腕っ節も強い。
 リックは身長こそサトルより小柄の方だが、制服の上からでも判るくらい逞しい体つきをしていた。一人で二、三人の悪漢は相手にできそうだ。そういった意味では、大使館の職員の中でサトルが一番信頼しているのはこの警備員たちだった。警備員に限らず、この大使館で働くサトル以外の人間は全て現地の者たちだ。自国人は一人もいない。
 リックは腕時計を確かめて、現地訛りの言葉で返事をする。
「午前零時五分です」
「おや、午前様になっていたのか」
「そのようで」
 リックは几帳面にそう言った。言い方に工夫を加えれば、そのセリフが冗談になるとは思いつかないのだろう。リックは警備員の中で一番真面目な男だった。
 サトルが公邸に向かって石畳の小路を歩き出すと、リックも後についてくる。現段階での彼の任務は、サトルが安全に家に入るのを全力で補佐し、見守ることだ。
 正面玄関まで来ると、リックは先回りしてドアの鍵を開け、扉を開いてくれた。
「君は、そろそろ交替の時間だね?」
「はい」
「今日も一日ありがとう。おやすみ」
「はい。おやすみなさいまし」
 リックはかしこまって頭を下げ、ドアを閉めた。
 サトルが玄関から三歩進まないうちに執事がフロアに顔を見せ、かぶりを振りながら歩いてくる。サトルは彼の言いたいことが判っていたので、片手を上げてそれを制しようとした。しかし、執事のクラウルには効き目がなかった。
「遅いですよ、旦那様。何時だと思ってるんですか?あれほど今日中に戻られるようにお願いしているのに」
「そう責めないでくれよ」
 クラウルは文句を続けながらサトルの上着を脱がせると、ネクタイに手をかける。
「また品のない酒場に行っていたんですか?それとも女性の所ですか?」
「言わなきゃならないのかな?」
「当然です。私は閣下の健康管理から建物の管理から全ての責任を負っているんですからね」
 下手なことを言えば、タイをゆるめる代わりに締められしそうな気がしたので、サトルは白状した。
「飲んでた方だよ」
「やっぱり」
 ふうっと溜め息をついて、クラウルはタイをするりとサトルの首から外した。きっと、サトルがなんと答えようと、返事は「やっぱり」に決まっているのだ。
「ギリヤ街の飲み屋ですか?」
「ああ。君は何でもお見通しなんだね」
「もちろんです。私はなんと言っても閣下の・・・・・・」
 サトルは自室に向かって歩き出し、クラウルは後についてセリフを続けたが、サトルは聞き流した。部屋の前で振り返る。
「おやすみ、クラウル。明日は気をつけるから」
 そう言ってドアを閉めた。ドアの向こうで「明日も行く気ですか?」とくぐもった声の文句が聞こえていた。
 化粧室で服を脱いでいると、女中が入ってきた。ミリアはサトルの私室専属の女中で、彼女以外この部屋には入れないことになっていた。もちろん、サトルが許可すれば例外はある。
 ミリアはサトルの脱いだ物を掻き集めて、抱えているカゴに入れてしまうと、それを床に置いた。それが床に置かれるまで、サトルは下着姿で待っていた。自分の身の回りの世話が彼女の仕事とは言え、さすがにサトルは若い使用人の目の前で素っ裸にはなれなかった。
 見慣れた上半身裸の姿には少しも動じず、ミリアは言った。
「明日の起床時刻は?」
「八時にしてもらおう。今日は少し遅くなったからね」
「承知しました、サー」
「遅くなってすまなかったね」
「いつもの事ですわ」
 サトルは肩をすくめた。女中の中でもミリアは一番身近なので、クラウル程ではないにしろ、多少の苦言は呈してくる。それでもクラウルより優しいことは間違いなかった。美しい赤毛の娘は真面目くさった表情を終了させ、クスリと意地悪な笑みを、ソバカスの目立つ顔に浮かべた。
「きっといつものように、酔っ払いたちに酒を振る舞ってこられたんでしょう?」
「酒臭いかな?」
「ええ、とっても。でもご安心ください。バスタブにバラの花を浮かべておきましたから。明朝一番に恋人が尋ねてこられても、きっと嫌われないですみますわ」
「君はいつも気が利いているね」
「光栄です、サー。それでは後で洗濯物を取りにきますので、」
「あ、いや。いい」
 サトルはミリアの言葉を遮った。
「今日はもう休んでくれ。これは明日の朝でいいよ」
「一晩中、汚れ物を部屋に置いておくのですか?」
「平気だよ。それほど汚れてる訳じゃない」
「もちろんです。でも」
「いいから、君は寝なさい。睡眠不足はお肌に悪いよ」
「まあ!立ち入ったことですわ」
 ミリアは少し頬を膨らませたが、
「おやすみ、ミリア」
 と、サトルに言われると、渋々「承知しました」と頷いた。
 ミリアが化粧室から出て行くところを、サトルは呼び止める。
「ねえ、ミリア」
「はい?」
 ミリアは振り向く。
「君が気を使ってくれるのは嬉しいんだけどね」
「はい」
「実は、彼女とはもう終わったんだ。だから当面、朝一番に私を尋ねて来てくれるご婦人はいないと思うよ」
「まあ」
 ミリアは目を丸くした。
「そうなんですの?今度の方は良いお人だと思っていましたのに」
「そうだったかな」
「そうですわ。その前はとても酷かったからよく判るんです。あの方は優しいところがありました。女中部屋に立ち寄って、ケーキの差し入れをしてくれたのなんか、今までにあの方だけでしたもの」
「おや、そんな事があったのかい」
「ご存知ありませんでしたの?それなら、奥ゆかしい所もあったんですわね。化粧は濃かったけれど」
「そうだね。まあ、そんな訳だから」
「どちらに原因があったんですの?」
「それは、立ち入ったことだね」
 サトルが言うと、ミリアは慌てて姿勢を正した。
「申し訳ありません。つい・・・・・・」
「いいんだよ。それじゃあ、おやすみ」
 サトルはバスルームに消えた。

 薔薇の香りに包まれてベッドに潜り込んでも、すぐに寝入ることはできなかった。
 きっと酒が入っているせいだ。過ぎた酒は眠り薬にはなってくれない。
 そのせいでフラフラしているという訳ではないが、喉は渇いていた。
 サトルはベッドを出て、隣のキッチンにパジャマ姿のまま歩いた。クロス型のハンドルをひねって水を出し、直接流水に口を付けた。この敷地内の水道は全て浄水器を通してあるので、他人の家へ尋ねた時のように水質を気にする必要はない。キッチンだけでなく風呂でも洗面所でも、庭の水撒き用の蛇口からでも、飲んで差し支えはない。
 水を止め、顔を上げる。
 テラスから月明かりが差しているのが見えたので、そちらへ歩いた。外に出ると、庭の植木が星明りに照らされていて美しい光景だった。サトルはテラスの椅子に座り、しばらくそれを眺めた。
 外は涼しかった。本当は寒いのだと思う。季節は秋だ。落葉樹の葉は落ちている最中だ。その夜なのだから、涼しいくらいで済むわけはなかった。体の中のアルコールがサトルの感覚を狂わせていた。
 パジャマの上着を脱いだ。テーブルに置くと、絹の塊は頼りないくらいに沈み込み、天板にへばりついた。椅子の背もたれに体を預けると、首を曲げて天を仰いだ。星が綺麗だった。
 女と別れて既に二週間経っている。しかし、サトルが一人静かにテラスで星を見ているのは、その感傷に浸っているからではない。女のことはもう忘れている。名前さえ、どれが一番最近のものだか思い出せないくらいだ。
 サトルはただ、退屈していた。
 何しろ仕事と言える仕事がないのだ。大使館を訪れサトルと面会した邦人は、これまでに三人しかいない。二人はパスポートを紛失した観光客で、一人は道を尋ねにきた旅行者だ。ルル王国に在住している邦人は全部で十一人。彼らが大使館を必要とする場合は電話か郵便でその用が事足りてしまうので、わざわざ彼らがここに足を運ぶことはなかった。それ故にサトルの主な仕事は、この国の要人や、ここを訪れる海外の要人と仲良く付き合う、というものになる。そして会議の数はパーティーほど多くはなかった。
 サトルは人当たりのよさを発揮して、要人の令嬢や婦人たちとダンスを踊っていればいいのだった。ルル王国は今までの赴任地の中でも一番滞在期間が長く、一番居心地のいい国だ。
 しかし、退屈だった。女に夢中になっていればその退屈も忘れていられるが、その情熱はいつも長くは続かない。それで偶にこうやって飲み歩き、遅く帰ってくるのを使用人たちに咎められる、という楽しみを味わっている。しかしそれは、慢性化した退屈を払拭するには余りに軽い処方だ。
 サトルは星の数を数えていたが、途中で判らなくなり月に戻った。
 月からスタートし、その周囲を時計回りに数えていく。
 とは言え、長い海外生活にサトルは慣れきっている。今さら狭苦しく忙しい本国に戻りたいとは思わない。もし戻るとしても、それはずっと年を経てからの話になるだろうし、そうであってもらわなければ困るとも思う。来期すぐに帰国せよ、などという命令でも出れば、きっと気が狂ってしまうだろう。
 サトルは不意に襲ってきたクシャミに、星数えを終了させた。
 知らぬうちに、体が寒さを感じていた。
 椅子の上でギュッと体に力を入れて、立ち上がり、部屋に戻る。テラスのテーブルではパジャマが月光浴を続けている。朝が来ればミリアが片付けてくれるので、なんの心配もなかった。夜風がそれを吹き飛ばしてしまわない限りは。


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