小説|腐った祝祭 第一章 37
ナオミの様子が少しおかしいように感じたのは、グリーン卿の告別式の翌日のことだ。
その日は少し忙しい日で、昼過ぎまで大使館で仕事をし、午後には文化庁の会議に呼び出され、夕食は寄附をしている病院の院長から招待を受けていた。
帰宅したのは9時頃だった。
ナオミは図書室にいるということだったので、先に風呂に入って着替えてからナオミの元へ向かった。
「ただいま」
と言うと、ナオミは「おかえりなさい」と言ってくれたが、声に元気がない。
サトルは隣に座ってナオミの顔を覗き込む。
「どうした?」
額を触ったが、熱は感じなかった。
「別に、なんでもないわ」
「そうかな。顔色が、」
「なんでもないわ」
ナオミは言うと、読んでいた単行本を閉じて立ち上がり、棚にしまいに行く。
「ナオミ?」
「もう眠いの。眠ってもいい?」
「ああ、いいよ」
サトルも立ち上がる。
しかしナオミはその肩を触られる前に部屋を出て行った。
サトルは首を傾げて後についていく。
留守の間に何かあったのだろうか?
しかし、今日はナオミは出かけていないと、クラウルは言っていた。
ナオミは部屋に戻るとすぐにベッドに入った。
サトルも一人で特にすることもなく、ナオミの右側に潜り込む。
「ナオミ」
頬をそっとつつくと、ナオミは寝返りを打ってあっちを向いてしまった。
「怒ってる?」
「眠いだけ」
「嘘だよ。怒ってるじゃないか。何があったんだ?」
「何もないわ。今日は一日家にいて、別に面白い事もなかったし」
「面白くない事があったんじゃないのか?何に怒ってるの。私か?私が原因なら教えてくれよ」
「なんでもないったら」
サトルは仕方なく仰向けになってぼんやりしていた。
ナオミが怒るような原因を考える。
告別式ではベラと馴れ馴れしくするようなことはしなかった。
ナオミの方がベラと少し話をしていたくらいだ。
そもそも今朝はこんな風じゃなかった。
だとしたら、やはり留守のうちに何かがあったのだ。
明日、ミリアにでも聞いてみよう。
そう思っていると、ナオミが呟く。
「背中」
「え?」
「私の背中に背中を当ててちょうだい。それくらいいいでしょう?偶には私の命令も聞きなさいよ」
サトルは鼻で笑った。
なんだか機嫌は悪いようだが、ナオミの言い方は可愛らしかった。
「はいはい」
サトルは命令に従って寝返りを打ち、ナオミの背に自分の背を当てた。
背中は温かくて気持ちよかった。
ナオミの元気がない日はそれから続いた。
ミリアに聞いても原因は判らなかった。
セアラに聞いても同じことだった。
セアラは少しサトルを恐れているようだったので、サトルも気をつけて深く追求はしなかった。
ある真夜中、サトルは体を揺り動かされ、無理やり目を覚まさせられた。
かなりタイミングの悪い時間帯だった。
きっと一番深い眠りについていた時だったのだ。
目は薄く開けることができたが、酷く頭が痛かった。
簡単には起きられなかった。
目を開けるのもやっとだった。
「どうしたの?」
くもった声でやっと呟く。
ナオミがベッドに座り込んで、サトルの体を揺らし続けていた。
「起きてよ」
サトルは額を押さえて、何とか上体を起こした。
「なに?なにがあったの」
「起きなさいよ」
「うん。判ったから」
ナオミの前に座って、髪をかき回した。
まだ頭はぼんやりしている。
ナオミは素早くベッドから降りると、サトルの腕を引っ張った。
「早く!」
「ちょ、ちょっと、待って」
ナオミはサトルの腕をぽいと離した。
「じゃあいいわ。でも私、起こしたからね。後で文句を言っても知らないわ」
「どうしたんだ、いったい」
サトルは目をこすってベッドの縁から足を下ろす。
「散歩に行くの」
「散歩?何を言ってるの」
壁掛け時計に目をやる。
外灯の差し込む位置にあり、読めないことはないのだが、まだ目がぼやけていてはっきり判らなかった。
しかし、夜中であることは間違いない。
「家の中を散歩するのよ。嫌なら一人で行くわ。でもあなたが起こせって言ったのよ。夜中でも起こせって言ったのよ。私は悪くないわ」
サトルは頭を手で押さえて立ち上がった。
時計の針が見えた。
午前3時少し前だった。
サトルはナオミを一人で行かせるわけには行かなかった。
「判ったよ。行くから」
サトルはナオミの前まで歩き、手をつないだ。
途端にナオミは歩き出した。
サトルは少しふらついて、ナオミに従った。
ナオミは廊下に出ると、無言のまま先へ進む。
歩いているうちに、サトルもやっと目が覚めてきた。
二人は階段で二階に下りていった。
夢遊病患者を見たことはないが、ナオミはもしかしてそれじゃないだろうかと心配になった。
しかし、言葉はしっかり話していたし、ぼんやりしている雰囲気もない。
確かな足取りで歩いていく。
「ナオミ。どこに行くの?」
「散歩って言ったでしょう。散歩に目的地なんかないのよ。それじゃ散歩にならないわ」
そう言ったナオミは、二階の廊下の真中辺りまで歩いてくると立ち止まった。
窓から庭を眺めた。
サトルはナオミの手を離して、肩を抱き寄せた。
「じゃあ、君が街に散歩に出かけるのにも、目的はないんだね」
「そんなのは秘密よ。教えてあげないわ」
秘密か。
仕方ないな。
サトルはナオミの髪にキスをした。
「そろそろ戻ろうよ。廊下は少し寒い」
「サトルさん」
「ん?」
「傍にいてくれるの?」
「当たり前だよ。どうしたんだい」
「眠いわ」
「じゃあ、部屋に戻ろう」
ナオミはサトルの胸にもたれて言う。
「もう寝ちゃうわ。すごく眠いの」
「困った子だな、まったく」
サトルはナオミを抱きかかえた。
ナオミは宣言通り、部屋に戻る途中で眠ってしまった。
朝起きて、サトルはナオミに昨夜のことを覚えているか聞いた。
ナオミは覚えていると言った。
あまり元気はなかったが微笑んでいた。
「だって、散歩したかったのよ。この家は広くて楽しいわ。少しも飽きない」
「それならいいけど」
どうして夜中に?とは追究できなかった。
きっと気が向いただけなのだ。
それ以外の理由はないだろう。
サトルは着替えるためにパジャマのボタンを上から外した。
ナオミが手を伸ばしてそれを手伝ってくれた。
ナオミの肩をつかまえてキスをする。
ナオミは嫌がらなかった。
そのままナオミを横にして、ベッドに戻した。
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