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小説|腐った祝祭 第ニ章 15

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 その日はテラには出くわさなかった。
 めずらしく話の合う者にも出会えず、一人で飲んでいた。
 パーティーの帰りだったので、もう10時は過ぎていた。
 近くの席で男たちが合唱を始め、煩くなったので店を出る。
 次の店を探していると、後ろから声をかけられた。
 振り向き様に殴られて、気を失った。

 首筋に生温かい感触を覚え、サトルははっと目を覚ました。
 首にあったものを反射的に右手でつかみ上げる。
「痛いっ」
 握ったのは人の手だった。
 サトルが上体を起こしたのは、小さく粗末なベッドの上だ。
 握った手を見て、手の主の顔を見る。
 ベッドの左側にあるのは、見覚えのある少年の顔だった。
 目を細めて少し考えると、名前が出てきた。
「マイケルか?」
「うん。手、痛いんだけど」
 サトルはタオルを握ったマイケルの手を離し、頭を押さえてベッドに体を戻した。
 背中を降ろした振動で、顎に痛みを感じた。
 手で触ると更に痛かった。
「ああ、駄目だよ。腫れてるんだから」
 マイケルは言いながら、サイドテーブルの上の洗面器でタオルを洗った。
 サトルは顎以外にも体の数箇所が痛いことに気付き、自分が裸でいるのにも気付いた。腰から毛布がかけてある。パンツははいているようだが、ズボンをはいている感覚はない。
「おい、どうなってるんだ」
「大使は運がいいよ。僕に助けられたんだからね。まあ、助けたって言っても、ちょっと手遅れだったけど」
「……殴られたような気はするが」
 髪をかき上げて、もう少し考える。
「追い剥ぎにでもあったのか?」
「まあ、そうだね」
「まさか身ぐるみ?」
 マイケルは笑った。
 タオルを絞る。
「上着を脱がされてタイも取られたけどね。あとは僕がやったの。だって泥だらけだったんだから」
「そうか。体を拭いてくれたのか?」
「うん。骨は折れてないみたいだね」
「そうみたいだな」
「服はそこにかけてるよ」
 狭い部屋の壁に、シャツやズボンがハンガーで吊るされていた。
 その下に革靴が置いてある。
「クリーニングまではしてないけど、とりあえず泥は払い落としといたよ」
「ありがとう。よかった。あの靴は気に入ってるんだ」
「靴まで頭が回らなかったんだろうね、奴らも。やけに身なりのいい人が倒されてるから、なんだろうと思って見たら大使なんだもん。びっくりしたよ。それで僕、言ったんだ。『やばい!夜警が来たよ!』ってね。そしたら慌てて逃げて行ったよ」
 テーブルの上を見たが、水の入ったコップと、林檎の入った紙袋が横になって置いてあるだけだった。
「それじゃ、私に残されたのはそれだけなんだね?」
「うん」
「カフス留めもやられたか」
「どんなのだったの?」
「エメラルドが入ったやつ。色が気に入ってたんだ」
 サトルは溜め息をついて体を起こした。
 ベッドの右側は壁に寄せてあった。
 その壁に背をもたれる。
「盗られるに決まってるよ、そんなの」
「そうだな」
 サトルは左手を上げて首を揉んだ。
 寝違えたような痛みがあった。
 首を曲げて手首を見る。
「時計もない」
「僕が外したんじゃないよ。もう違法な質屋に入ってるね」
「そう…」
 サトルは急に不安になった。
 首を揉む手を止めた。
 嫌な予感がした。
 ゆっくりと、左手を自分の顔の前に持ってくる。
 鼓動が徐々に速くなる気がした。
 薬指を見る。
 指輪がなかった。
 ナオミとお揃いの。
 サトルは左手を見つめたまま、右手で胸を押さえた。
 息が苦しくなった。
 鼓動は気のせいでなく、確かに速くなっていた。
 マイケルは驚いて、座っていた椅子から立った。
「大使、どうしたの……」
 呼吸が荒くなり、前のめりにベッドにうずくまる。
 指先に、ぴりぴりと電気が走るような感じがした。
 ゼーゼーと苦しみながらベッドでもがくサトルを、マイケルは呆然と見下ろしていた。
 サトルはテーブルに向かって、何とか手を伸ばすことができた。
 マイケルはテーブルに目をやる。
「なに?水?」
 コップを取ってくれたが、サトルはそれを払い除けた。
 コップは弾き飛ばされ、床で砕けた。
「なんだよ?まさか林檎なの」
「ふく、ろ……」
「袋?」
 マイケルはうろたえながら三つの林檎を転がして、紙袋を取り上げ、それをサトルに渡す。
 サトルは紙袋で鼻と口を覆い、袋の中で呼吸を繰り返した。
 マイケルは傍に座り込んで、サトルの肩にそっと手をあてていた。
 しばらくして、サトルの発作は治まった。
 紙袋を顔から離し、それからもうしばらくして、横向きの体を天井に向ける。
 マイケルは心配そうな表情でベッドの縁に腰かけていた。
 サトルは少し笑った。
 口を歪ませただけの笑みだった。
「悪いな。驚かせて」
「ううん」
「過換気症候群とかいうらしい。以前、医者に応急処置だけは聞かされていた。二酸化炭素を再呼吸してその濃度を上げるんだってさ。難しいことはよく判らないけど。若い女に多いそうだよ。今年はやたら気を失ったり発作を起こしたりする。今までこんな事なかったのに、情けないね」
「病気なの?」
「心配いらない。びっくりしただけだ」
 サトルは左手を天井に掲げる。
「指輪が無くなってたから」
「大使は指輪なんかしてたっけ?」
「ああ、最近ね。とんでもなく高かったんだ。驚いたな」
「じゃあ、一番に盗られてるよ」
「そうだな」
 マイケルは紙袋を拾い上げて立ち上がる。
 壊れたコップの欠片をその袋の中に集め、部屋の隅のくずかごに入れた。
 それからタオルを持って戻ってきた。
 サトルの右脇に腰を降ろす。
「汗かいたね」
 マイケルは額をタオルで拭いてくれた。
 美容師志望の少年は、乱れた髪も気になるようだった。
 髪も手ぐしで梳いてくれた。
 そして、何かに気付いたというように手を離した。
「もしかしたら、婚約指輪?」
「ああ。よく知ってるな」
「大使が……、大使のことは僕らの間でも話題になってたんだ。きっといつかの片想いの相手だって。そうだったの?」
「そうだよ」
「やっぱりね。だからね、みんな喜んでたんだよ。バラの花が上手くいったって。大使の記事も手に入れてさ、写真も見たよ。本物のサイキに早く会ってみたいって、言ってたんだ」
「サイキ?」
「ナオミさんのこと、あだ名でそう呼んでたの。シスターたちに判らないようにさ。プシュケのことだよ」
 サトルは鼻でふっと笑う。
「キューピッドが惚れた美少女か」
「うん」
「そうか。ところで、マイケル」
「なに?」
「ここはいったい何処なんだ」
「酒場の二階にある木賃宿。こんなとこ初めてでしょ?素泊まりの安宿だよ。大使が倒れてた近く」
「ふうん」
 ベッドと、小さな棚と、小さなテーブルが二つと、椅子が二つ。
 脚の付いた旧式のTV。簡素で狭い。娼婦が客と落ち合うのには良さそうな部屋だ。
 ダークオークの壁には時計があった。
 12時近かった。
「それで、どうして君がこんな所にいる。孤児院を抜け出したのか」
「家出じゃないよ。ちょっと抜けてきただけ。助けたんだから大目に見てくれないかな?」
「もう就寝時間を過ぎてるはずだ」
「過ぎなきゃ抜け出せないよ」
「ふん、道理だな。いつもこんな街をうろついているのかい」
「ヘルマンさんが時々、」
「ヘルマン?」
「床屋をやってるおじさんでね、この近くに店があるの。時々散髪の練習をさせてくれるんだ。それで偶に」
「夜にか?」
「昼間は授業があるでしょう。休日は都合の悪い時もあるし、それだけじゃ大した練習にならないもん」
「だからって、わざわざ夜中に出てくることはないだろう」
「ヘルマンさんはその方が都合がいいみたいだから」
 サトルは殴られた顎をそっと触って、その痛さを確かめた。
「アザになってるか?」
「うん。口のとこ切れてたしね」
「参ったな。また怒られる」
「大使が怒られるの?」
「ああ。クラウルって頑固者が家にいるんだ」
「へえ。大使館にもシスターみたいな人がいるんだ」
「ああ。お前、幾つだったかな」
「今年で14歳」
「それじゃ、来年いっぱいで孤児院は卒業か。早いな」
「うん。すぐに働けるようにと思って。僕だって頑張ってるんだよ」
「なるほどね。酒を飲むのか?」
「……ビールくらいだよ」
「酒は酒だな」
「でも、大使ほど飲まない」
「当たり前だ」
「シスターに告げ口する?」
「いや。でも、あまり夜に出歩くな。酔っ払いになるには早過ぎるよ」
「……うん。ねえ、もう帰るの?」
「そうだな。お前はどうするんだ?ヘルマンに会いに行くのか」
「今日はいいよ。約束の時間過ぎちゃってるし。馬車呼んでこようか?それとも、もう少し休む?この部屋には朝までいてもいいんだよ。前払いで払ってるから」
「金持ってるのか?」
「少しはね」
「院には何時に戻る?」
「夜明け前なら何時でも平気さ」
「そうか。……疲れたな」
「あれだけ殴られたんだもん」
「腹も減った。その林檎、お前が買ったのか?」
「うん。食べるならあげるよ」
 マイケルは棚からタオルを取ってきて、林檎をそれで拭いた。
 林檎の表面が輝いた。
「はい」
 マイケルは元の場所に戻り、林檎を差し出す。
 サトルは「ありがとう」と受け取って、一口かじった。
 が、殴られたところが痛くてそれ以上食べられなかった。
 それを見てマイケルは笑った。
「重病人だね。当分はお粥だよ」
「参ったな」
 林檎を返すと、マイケルがそれにかじりつく。
 サトルはマイケルを眺めていた。
「腹が減ってたのか?」
「大丈夫。院ではちゃんと食べさせてもらってるよ。ただ、夜起きてるとね。育ち盛りだからさ。雑貨屋が近くにあるんだよ。そこで買うの。残りは仲間に見つかった時の口止め用」
「金はどうした?」
「……高等部の子は、シスターから小遣いをもらってるもん」
「足りるのか?」
「うん」
 マイケルは林檎の芯を残して全て食べてしまうと、くずかごに向かってそれを放った。
 ゴトンと音をたて、見事に入った。
「ナイスピッチング!」
 マイケルは自分で言って笑う。
 サトルも微笑んだ。
 そして、額に腕をのせて目をつむる。
「少し、休んでいいかな」
「うん、いいよ。僕、シャワー浴びるよ。今日は飲んでないのに、大使のせいで酒の臭いが移ったかもしれない」
「悪かったな」
 マイケルは笑って、ベッドを離れた。

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