小説|腐った祝祭 第ニ章 23
ナオミの部屋の鍵を開け中に入る。
カレンはサトルの手からするりと逃れると、キッチンへと駆けて行った。
サトルは何と呼びかけていいのか判らず、心細い思いでカレンの後を歩いた。
キッチンに入ると、カレンは食器棚の前でしゃがみ込んだ。
脚付きの棚で、床との間に20センチほどの空間がある。
カレンはそこへ手を突っ込んだ。
「何をしてるの?」
サトルが尋ねても反応せず、カレンは何かを取り出した。
薄茶色の封筒だった。
少し厚みがある。
カレンは満ち足りたような表情で少しの間それを見つめ、立ち上がり、無表情でサトルを見つめた。
しかしそれは、笑顔を我慢しているような、少し作り物を思わせる無表情だった。
「それは?」
カレンは紙袋から紙の束を取り出した。
封筒を大理石のカウンターへ置き、紙の束だけを持ってキッチンを出た。
サトルは後を追う。
カレンは寝室に出ると、両手を高く上げて、ダンスをするようにくるりと回転した。
そうしながら、紙片を部屋に撒き散らした。
はらはらとカラフルな紙が部屋に舞った。
カレンはそうしておいて、今度はバスルームの扉を開けて姿を消した。
サトルは床に膝をつき、紙の一枚を手に取った。
―詩人サミュエルの悲恋 原因はまたもやあの某国大使S氏か?
すぐ隣の紙を拾う。
―スーパーモデル、リディ・クラリス帰国。8日午前、恋人のS氏に空港で見送られ、ルルを出国した。今後の彼らの動向が注目される。二人の交際は、昨春のゴルディアのコレクションのためにリディが来ルルした時から始まる。それより一年あまりの滞在で、結婚の噂も出始めた矢先の帰国騒動に関係者は…
違う紙を拾う。
―次の恋のお相手はプリンセス?かのS氏は王家の森を姫とその所有するサラブレッドで散策に出かけ…
―レディー・ロミー失踪事件解決す。真相はすでに各誌が報じた通りの『家出』だった。関係者によれば発見者は噂の某国大使。別名トムボーイ・ロミーはサトル氏に愛の告白を決行、玉砕、それゆえの失意の家出だったことが確定的に。この件でロミーの父親は発見者サトルに謝罪し…
全て週刊誌の切抜きだった。
サトルは読むのをやめて、それらを一つずつ拾っていく。
よく集めたものだと思った。
何年も前のものから揃っている。
カレンはバスルームから出てくると、今度は衣装室へ入っていった。
サトルはその間も紙を拾い集めた。
大きなもの、小さいもの。
白黒、赤、黄色。写真。
部屋中の記事を拾い集め、それを机の上に置いた。
ナオミが手紙を書いていた机。
マホガニーの細長いライティングデスク。
トンボをモチーフにしたテーブルランプ。
ゴシップ記事。
私、書き直すわ。
あと一週間、ここにいるって。
あの日も、床に便箋をばら撒いてしまったね。
ナオミが椅子に座っていた。
雑誌を机に置き、開いたページにスケールをあて、記事をナイフで切り取っている。
丁寧に、ゆっくりと。
違うよ。
サトルは思った。
なぜだか私は確信できるんだ。
君はこんな記事に惑わされたんじゃない。
確かに事実は書いてある。
でも、全て過去のことだ。
表立って知られたくはないことだけど、知られても平気だ。
何の関係もない。
そうだろう?
君に会ってからの私が全てだよ。
知ってるじゃないか。
どれほど君が愛おしかったか。
だから違う。
こんなのは大したことじゃなかった。
ナオミの肩に手を伸ばしたが、通り抜けて椅子の背もたれに触れた。
君は帰りたかった?
でも、一緒にいたいと言ってくれたよね。
でも判らない。
彼女が何故こんなことを知っているのか。
ふと気付くと、カレンの気配がなかった。
サトルは部屋を見渡す。
カレンはナオミのベッドに横になっていた。
上掛けの上にうつ伏せになって、両腕を顔の左右で曲げて、静かに寝ている。
サトルは歩き、ベッド脇に片膝をつく。
カレンの目元には髪がかかっていて、表情は判らなかった。
「寝てしまったの?」
カレンは片方の頬を下にしたまま、小さく首を振った。
そして言った。
黒髪が揺れたが、顔は髪で隠れたままだった。
「ナオミはずっと、ここに寝ていたの」
「ずっとじゃないよ」
「いつまで」
「去年まで。年末に旅行に行った。そこで式を挙げたんだ。だから、帰ってきてから新しい部屋に移ったんだよ。それからはずっと私と一緒だった」
「ずっと、あなたと一緒だった」
「ああ」
「毎日ナオミの髪を撫ぜた」
「ああ」
「毎日ナオミの背中にキスした」
「ああ」
「ナオミはよく笑った?」
「よく笑ったし、みんなを笑わせもした」
「みんなと仲良しだった?」
「仲良しだった。チェスや乗馬をした。窓拭きも、庭の落ち葉掃除も、銀食器の手入れも、私の目を盗んでは、みんなと楽しんでいた」
「そう」
「教えてくれないか。いったい、君は誰なんだい?ナオミなのか?もし、本当にナオミなのなら、ずっとここにいてくれよ。私の傍にずっといてくれ。約束したじゃないか。ずっと傍にいるって。私を一人にしないでくれ。君と一緒にいたいんだ。傍にいたいんだ」
サトルはカレンの頭をそっと撫ぜ、ゆっくりと髪を顔からよけた。
カレンは目を閉じていたが、そのうちに開いた。
泣いているようだった。
赤くなった目で、サトルをじっと見つめた。
「泣いてるのね」
と、カレンが言った。
「泣きなさいよ、サトル。もっと泣けばいいわ。もっと苦しめばいいわ」
カレンは自分の涙を指先で触り、手を延ばし、それをサトルの唇に押しあてた。
柔らかなしょっぱさを、サトルは感じる。
「判る?私の涙も本物よ」
「カレン。君は誰なの?」
「ずっと苦しんで、泣いて暮らせばいいわ。だって、ナオミは死んだんだもの」
サトルもじっと、カレンを見つめ返していた。
「トランクを用意して。気に入った服とバッグをもらうわ。スーツケースを壊した罰よ」
カレンは言うと、ゆっくりと体を起こし、ベッドの縁に座った。
涙を拭くと、ナオミの雰囲気は微塵も無くなった。
「私はカレンよ。チェックインした後にパスポートを貸してあげる。好きなだけ調べるといいわ。後で訪ねて来なさい。選んでおくから、部屋に置いてる服とバッグをトランクに詰めて、その時に持ってきて」
カレンはそう言うと、部屋を出て行った。
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