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小説|青い目と月の湖 14

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 息苦しさに、クロードは足を止めた。
 クマザサやニリンソウなどの群生にたまに出くわし、辺りが明るくなることもあったが、概ね高木の立ち並ぶ薄暗い森を歩いていた。
 白っぽい肌をした真っ直ぐに伸びる木に手をつき、息を整えているクロードを、ハンスは見上げた。

 この辺りはブナの原生林で、どの木も三十メートルもの高さを持っていたが、その木肌の色のお蔭で今までに歩いてきた場所よりは明るく感じられる。
 クロードの額に、汗が滲んでいるのがはっきりと見えた。
 クロードはコートを着ていたが、歩いて体が暖かくなったという訳でないことくらいは、ハンスにも判った。
 しかし、どうしてそんなに冷や汗が出るのかは理解できなかった。
 そこはなんの剣呑な雰囲気もない、景色の良いすがすがしい原生林だ。
 地面は落葉した古い葉に覆われ、なだらかで歩きやすかった。
 湖に行くにはここを抜けて、大きなヤマモモのある照葉樹林を抜けなければならない。
 おそらくまだ一キロは距離があるだろう。
 
 ハンスはクロードの腕をそっと触った。
「大丈夫?」
 クロードは音としてハンスの耳にも届く呼吸を繰り返しながら、おもむろにハンスを見下ろした。
「お前は、もうここで帰れ」
「え?」
「頼むから」
「嫌だよ。ここまで来たのに」
「苦しいんだ」
「だったら、なおさら僕がいないといけないじゃないか。僕は平気なんだ。僕が連れて行ってあげるよ」
「駄目だ。頼む」
 クロードは言葉を短く刻むように喋っていた。
 本当に苦しいのだろうというのはそれだけでも判るが、ハンスは引き下がりたくなかった。
「僕を支えにしてよ。そうしたら歩けるでしょう?」
 クロードは苛立ちを我慢するように、目を細めた。
「もし、マリエルに会えたら、私から、謝っておく。だから今日は、帰ってくれ」
「クロード、でも」
「頼んでるんだ。帰って、エレンの傍にいろ。もし何かが起こった時、私はこの状態で、お前を助けることができないだろう」
「僕は平気だって」
「頼む」
 その声は、命令のように厳しいものだった。
 ハンスはそれに逆らうことができなかった。
 クロードのこんな真剣な様子は初めて見るものだ。
 ハンスはクロードが魔物を退治する場面を見たことはない。
 その時は、いつもこんな感じなのだろうかと、ハンスは思った。
「判った。だけど、クロードも引き返した方がいいんじゃない?無理はしないで。僕、心配だよ」
「ここまで来たんだ。行く。でなければ、お前もずっと、マリエルに会えないぞ」
 クロードは、最後の方で少し微笑んだ。
 苦しそうではあったが、ハンスはそれを見て少し安心できた。
「判ったよ。気を付けてね。このままずっと北だから。途中でヤマモモの木があるんだ。一本だけ、凄く太いやつ。それが目印だからね」
「OK。お前も、帰り道で迷うな」
「うん」
 
 
 ハンスはクロードに背を向け、時々振り返りながらも歩いていった。
 クロードはその姿が見えなくなるまで見送っていた。
 そして、完全に木々の合間に見えなくなると、ガクンと地面に膝をついた。
 酷く空気が薄かった。
 ハンスは平気だと言ったが、どうして平気でいられるのか理解できないくらいだった。
 明らかに肺に入る酸素の量が少ないと感じられたし、のしかかる大気は重かった。
 
 ックソ。
 
 クロードは顔を上げ、進む方向を睨みつけて悪態をついたが、それは言葉としては出てこなかった。
 胸を押さえるように、コートの襟元をぎゅっと掴んだ。
 汗が体を伝っていくが、暑いどころか寒くて仕方がない。
 汗のせいで余計に体が冷えていく。
 
 魔術師などとは、笑わせるな。
 
 クロードは思い、不敵な笑みが自然とこぼれた。
 もしかすると、私たちの方に能力が欠けているのかも知れない。
 魔物の気配を感じ、魔物を見る特別な能力を持っているのではなく、それを追い払う能力が欠けているのかも知れない。
 ハンスを見ろ。
 この妖気の中で彼はあんなにも丈夫だった。
 だとすれば、魔術師などなんの役に立つだろう。
 選ばれた者を気取り、優越感に浸って、愚にもつかぬまやかしで、卑しく食いつないでいるのだ。
 魔物に取り付かれている人間たちは、病にかかっているのと同じなのではないだろうか。
 魔術師がおこがましくも助けてやる必要はなく、人間たちは忌み嫌う魔術師などにわざわざ助けてもらう必要もない。
 それを自然として受け入れれば、ただそれだけの事なのだ。
 生き物はいつか死ぬ。
 生まれた時に、既にその運命を背負っている。
 ただそれだけの……。
 

 クロードは右脚に力を入れ、地面を踏んだ。
 それを蹴るようにして立ち上がる。
 完全に呼吸が整った訳ではないが、しばらく休んだお蔭で少しはましになっていた。
 いつかは死ぬんだ。
 魔術師であろうともな。
 それが今日であっても、構いはしないだろう。
 せめて、ハンスに危害が及ばないように、魔物の正体を突き止めなければ。
 ことが上手い方向に運ばなくても、問題はない。
 
 クロードはゆっくりと歩き始める。
 山小屋の机にしまっている、封をしたエレン宛ての手紙を頭に思い浮かべた。
 クロードがこの森から帰ってこなければ、ハンスを通して村にそれが伝わる。
 山小屋にあるクロードの荷物は調べられるだろう。
 手紙には、自分が北の森に入ること。
 北の森に妖気を感じたこと。
 そして、自分が行方不明になった場合、それを捜索しないこと。
 北の森にはこの先も決して近付かないことを書いておいた。
 そして紙を替え、村人に口外しない注意を添えて、ハンスが月の湖に行っていたことを書いた。
 その手紙がエレンの手に渡るような事態になれば、おそらくハンスも、今度こそは言うことを聞いてくれるだろう。



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