小説|青い目と月の湖 15
マリエルは湖の西岸に広がるスミレの野原を歩いていた。
小さな黄色いスミレの花が咲き始めた頃で、湖のすぐ縁までそれは続いている。
湖から風が吹き、その花とマリエルの髪を優しく揺らした。
足を止めた。
湖から吹く風を、マリエルはいつも暗示のように感じていた。
不穏に感じた時、城に閉じこもっていると、そのうち嵐がやってくる。
優しく感じた時、外に出てみると、森の何処かで咲いた空木の花びらが風に運ばれ、湖に幻想的に舞い降りて目を楽しませてくれる。
いつもそんな具合だったので、マリエルはいつも風の動きには素直だった。
去年の冬、急に窓から吹き込んできた冷たい風に胸騒ぎを覚えた時もそうだ。
マリエルは急いで外に出て、冷たい氷の水に沈んでいこうとするハンスを見つけた。
冷たさのショックで気を失っていたが、彼を助けることはできた。
マリエルは目を閉じ、風に頬を撫でられるままにした。
すると、その優しい風の中に潜む違和を感じた。
なんだろう?
それは、質問のような気がした。
まるで風が、どうする?と、尋ねているようだった。
しかし、それはほんの微かなもので、マリエルに対する問いかけとは思えなかった。
マリエルはしばし考え、湖に向かって歩き始めた。
いつも使っている小舟を岸に留めていた。
月の湖の畔に座り込んだクロードは、苦しい息を吐きながら、湖面を睨みつけた。
左手で傍の木の枝を掴み、右手を地面についている。
いっそのこと地面に寝てしまいたい気持ちだったが、何とか堪えていた。
意地と、驚きとが、クロードの体を支えていた。
月の湖は異常だった。
湖の水は、表面こそ何の変哲もない水で覆われていたが、クロードにはその底に潜む、暗い闇のようなものが見えていた。
今まで見てきた魔物とは明らかに形態の違うものだったが、それが魔物であることは間違いない。
しかし、その大きさは疑いたくなるほど巨大だった。
この湖の全てから感じるのだ。
それが液体なのか個体なのか、気体なのかさえ判らない。
こんな化け物は、どの町でも話にも聞いたことがなかった。
たどりついた時はうっすらと見えていた城が、今ではほとんど見えなくなっていた。
霧が徐々に濃くなっている。
まるで自分の意思で動いているような霧だった。
クロードの視界を、わざと遮ろうとしているようだ。
おそらくは、確かにそうなのだろう。
湖の底からの意思で、霧は動いているのだ。
クロードの意識は朦朧としていた。
湖からの静寂の圧力で、胃は押し潰されそうだった。
目眩がし、吐き気を催し、それでも湖面を睨んでいた。
「お前は、ここで、何をしている」
ハンスと話をしていた時とは比べ物にならないくらいの、かすれた声を出した。
湖から、嘲笑うような気配が感じられた。
「答えろ」
しばらくして、風のような声が聞こえた。
「お前は何をしている?」
「知っているはずだ」
「今日は、あの子供が来る予定だった。それをお前が止めたのは知っている。マリエルが悲しむだろう」
「ハンスをどうするつもりだ」
「どうするとは?」
湖には、からかうような調子があった。
苦しみを堪えて口を開くクロードに、もっと話しをさせようとしているらしかった。
「ハンスを呼んだのは、お前か。何の目的で、呼んだ」
「彼は自分からここに来たがったのだ。私の姿が見えない者には、私は心地よい風を送ることくらいしか出来ない。彼は好奇心が強く、勇気がある。なかなか気に入った」
「ハンスを、どうする気だ」
「マリエルの友人として、ちょうど良いと思ったのだ。そういう人間を見つけることはなかなか骨を折る。大抵の人間を、私は気に入らないのだ」
「マリエルとは、魔女なのか」
「ほう」
湖から、軽蔑するような雰囲気が流れてきた。
「それが判らないとは。その程度の魔術師か」
「私には、彼女は、普通の人間としか、思えなかった」
湖は笑う。
「普通と言うには、若干の語弊があるだろう。彼女は、私の愛する特別な人間なのだから」
クロードは目をつむり、倒れてしまいたいと哀願するような頼りない体を何とか持ち堪えさせた。
目を薄く開け、湖を見据える。
「その娘を、お前が、支配しているという訳か」
「支配とは、気に入らぬ言いようだ」
「結果として、そういう事ではないのか」
湖は、機嫌を損ねたように押し黙った。
しばらくして、冷めた様子で言う。
「人間などに、私の気持ちを理解するなどできないことだ。それでも、死ぬ気で私を確かめに来たお前に、少しヒントを与えてやろう」
いきなり、クロードの喉に濃い霧が流れ込んできた。
クロードは両手で喉元を押さえ、大きく後ろに仰け反った。
息が出来なかった。
地面に膝をつき、天を向いていたが、堪えきれずに真後ろに倒れた。
自分でも、目を開けているのか閉じているのかの区別がつかなくなった。
ぐるぐると目の前の景色が巡る。
目眩を起こしていると感じてはいたが、次々と瞬間的に襲ってくる映像は、見ている筈の空でなく、クロードの記憶にないものばかりだった。
何人もの女が現れては消えた。
古めかしいドレスを着ていた。
独り暗い部屋の窓辺で外の湖を見ていた。
少女が石の階段を駆け上がっていた。
軽やかにワンピースの裾を翻して桟橋を走っていた。
母親が幼いわが子をあやしていた。
湖で小舟を漕いでいた。
その時々に若い男たちが現れた。
どれも年頃の顔立ちの良い青年だった。
男が桟橋を城に向かって歩いていた。
急に霧が彼を包んだ。
足がもつれて湖に落ちた。
マリエルがいた。
塔の窓から、遠くの空を見つめていた。
どっと、肺に空気が送り込まれた。
クロードは貪るように呼吸をした。
苦し紛れに地面を転がり、地を這うような姿勢が一番楽だと判ると、その体勢を保持し、呼吸を繰り返した。
繰り返しながら、今、自分が目にした映像は、湖が見せたものだと理解した。
「お前は……」
クロードは両手をついて、上体を起こした。
まだ苦しかったが、呼吸は出来ていた。
湖が、クロードより先に聞いた。
「お前は私を少しは知っているのか?」
クロードは、途切れ途切れに答える。
「噂を、聞いていた。千年も昔から、魔女が住んでいると」
「浅はかな噂だ」
「お前は、その昔から、この城の女を支配していたのか」
「まだ、その言葉を使うか」
「支配以外の、何ものでもない。お前は……」
「では、マリエルに聞いてみるがいい。誰かに支配されているのかと。彼女はNOと答えるだろう」
「彼女は、知らないんだな」
「私は全て、彼女の意思に任せている。これを支配と言うのは、横暴だ」
「……ハンスを、利用するつもりか」
「利用と言えるか?彼は自由意志でここに来た。マリエルも、自由意志で彼を迎えた。それだけの事ではないのか?」
「お前はそうやって、今までそうやって……」
クロードは震えだした肩を自分で抱きしめた。
この化け物は、その長きに渡って女たちを支配していた。
そして、彼女たちのほとんどは、それに気付いていなかった。
湖は時期を見ては、見合った男を城に招きいれた。
男たちも、魔術師でない限りそれに気付きはしない。
用済みになった男たちは、湖に沈められた。
「女たちは、いったい」
「私は愛していた」
「マリエルの母親は」
「マリエルが一人で生きる力を身につけた時に」
「殺したのか」
「私は彼女を愛していたのだ。しかし、彼女は人間を愛した。お前に判るか?私の不幸が」
「お前が仕向けたんだ」
「お前には判らない」
「判るものか。お前は、そうやって」
「仕方がない。私は愛しているのだ。しかし、人間の寿命は、私には短過ぎる」
「ハンスから手を引け。彼はまだ子供だ」
「今はな。しかし、数年で良い若者になる。彼の体は調べた。全くの健康体だ。それになかなかハンサムだ。私は気に入った」
「駄目だ。ハンスを殺させるものか」
「そうなるかどうかは、私が決めることじゃない。ハンスとマリエルの自由な意思が決めるのだ」
「結果として、お前が決めるんだ。殺さない約束をしない限り、私は許さない」
湖は鼻で笑う。
「魔術師ごときに許しを請うつもりはない。約束もしない。しかし、お前はなかなか面白い人間だ。今まで、私に意見する者などいなかった。なるほど。人間と会話するのも、これでなかなか楽しいものだ」
「私は許さない」
「許さなくとも、私は困らない。何故なら、お前に私を殺すほどの力はないからだ」
「ハンスを止める力ならある」
「どうやって?」
「私がここで死ねばいい」
「バカなことを。お前達を忌み嫌う人間たちに尽くしても、なんの報いもないのだぞ」
「私をここで殺せ」
「望みとあらば良かろう。お前が湖に入れば簡単なことだ」
「湖には入らない。ここでだ」
湖は少し考えていた。
「断わる」
「それなら、私が自ら死のう」
「そんな事が出来るものか」
「お前らに出来なくとも、人間には出来ることが少しある。これもその一つだ」
「無駄だ」
「無駄にはしない」
「どうやるというのだ」
「私は魔術師だ。毒の一つや二つ、いつも身に付けている」
「……それは困る」
「何故?」
「マリエルが驚くからだ。私は死体など、彼女に見せたくはない」
クロードは、この化け物が湖の外にいる者に直接は手を下せないことを知った。
霧や風を利用は出来ても、自らの手は出せないのだ。
ここでクロードを殺すことが出来ても、その体を湖に引きずりこむことが出来ない。
「私は、ハンスを死なせたくはない」
湖は再び黙った。
その間に、クロードは呼吸をあらかた正常に戻すことが出来た。
空気が正常に戻ったからだった。
湖が手を抜いてくれたのだ。
「なかなか面白い男だ。どうだ、試してみるか」
「試す?」
「ハンスを死なせずに済むように、何とかやってみるがいい」
からかうような口調になった。
「ただし、私のことはマリエルには秘密だ。それだけは約束してもらおう」
「それを言えば、マリエルはこの場を離れるかも知れないな」
「いや。その前にお前が死ぬだけだ。私を甘く見るな」
クロードも少し考えた。
「お前の秘密を守るかぎり、私を殺さないと約束できるか」
「約束しよう」
「お前の秘密を守ると、私も約束しよう。ただし、マリエルとハンスの自由意志は絶対に守ってもらう」
「何が言いたいのだ」
「マリエルが自らの意思でこの城を出ると決めた場合、邪魔をするなと言うことだ」
「出るなどと言う訳がない。彼女は私がいてこそ生きていけるのだ」
「もしもの場合だ」
「お前は、私の存在を秘密にした上で、彼女にそう言わせると言うのか?」
「そう出来れば、言うことはないと思っている」
「彼女はここで生まれここで育った。彼女にとって世界はここが全てだ。そして彼女の母も、またその母も、ずっとそうだったのだ。出て行くなどと言う訳がない」
「約束するのか、しないのか」
「……面白い。出来るものならやってみるがいい。私からマリエルを奪えるものなら、やってみるがいい」
「約束するんだな」
「約束しよう。私はマリエルの自由を奪わない。今までも奪ったことはないが、この先もだ。約束しよう」
クロードが微笑むと、湖の気配は大人しいものに変わった。
クロードを取り巻いていた真っ白な霧が、徐々に薄れていった。
霧の向こうで湖とは異質の気配を感じた。
ゴツンという音と波の音が聞こえた。
クロードは霧の湿気に混じった額の汗を手で拭い、もっと呼吸を楽にするために、シャツの襟を広げるように指で引っ張った。
霧が動いてますます薄くなっていった。
見据えている先に人影が現れた。
若い女は、不意に霧の中の人影を見つけ、声にならない悲鳴をあげて後退った。
クロードは彼女を見上げていた。
これがマリエルかと、クロードは思った。
美しい女だった。
清流のように涼しげな黒髪。
神秘的な影を持つ黒い瞳。
これが、魔物を惹きつけてやまない、人間の娘だ。
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