小説|青い目と月の湖 7
大人のくせに喜んで揚げ菓子を食べている魔術師を、ハンスは冷めた視線でじっと見ていた。
そして、どうしてこんな彼を、みんなは怖がるのだろうと不思議に思った。
ほんの少し特技を持っているだけの、ただの男じゃないか。
父さんほど大きくもないし、僕を引き裂いて大釜に放り込むほどの迫力もないや。
「なんだ?不満そうな顔して」
「別に」
「ロディーに負けたのが口惜しいのか?」
ハンスはテーブルの上に置いていた両の手を、ぎゅっと握りしめた。
「負けてないやい!」
「嘘つけ。お前が勝てる訳ないだろう。ロディーは見るからにすばしっこそうだったし、お前より背も高かった」
「負けてないもん!」
「じゃあ勝ったのか?」
ハンスは口をつぐんだ。
勝ってはいない。
二人で転げ回っている所を大人たちに見つかって引き離された。
勝負をつける間はなかったのだ。
「引き分けか。良かったな、負けるまでやらずに済んで」
「恩知らず」
という言葉が、自然とハンスの口から漏れた。
クロードのせいで母さんとも喧嘩になったって言うのに、まったく!
「なんだよ?」
「なんでもないよ。ミルク飲む?」
「ああ。外に置いてるから注いできてくれ。カップはキッチンに」
「知ってる」
ハンスは食器棚から陶器のマグカップを二つ取って、勝手口から外に出た。
クロードの家もログハウスだった。
森の中で材料は沢山あるのだから当然だ。
クロードが住み着く前はしばらく空き家だった。
元々は樵職人の住んでいた家だが、村が魔術師への報酬の一部とする為に買い入れた。
キッチンから丸太のデッキに出てくると、壁付けにブリキの箱が置いてある。
上部の蓋を開けると中にはミルクの瓶が入っている。
夏は無理だが、秋頃から春先にかけては、この家の北側でミルクも保存できた。
ただ、真冬にここに置いたままだと凍ってしまうのだが。
両肩に取っ手のついた瓶を傾けて、マグカップにミルクを注いだ。
瓶には注ぎ口がついているので、三キロほどの重みがあったが、上手く注ぐことができた。
瓶を戻し、ブリキの蓋を閉め、床に置いていたカップを持ってキッチンに戻る。
キッチンに火はなかったが、扉のない出入り口から流れてくる居間の暖かさが感じられた。
もうそろそろ冬になる。
雪が積もれば森に来るのも簡単ではない。
去年の冬はハンスの食糧運びの仕事は休みになった。
その間、馬を使って誰かが嫌々運んでいた筈だ。
ただ寒さのお蔭で保存が利くので、一度の量を増やして回数を極端に減らしてはいるようだった。
今年はどうなるだろう?
僕もやっと馬に乗れるようになったし、頼んだら僕に仕事をさせてくれるだろうか。
役場は承知しても、母さんが駄目だと言うかもしれない。
でも、僕が来なくなったら、こんな淋しい山奥で、クロードはずっと独りぼっちになってしまう。
ハンスは部屋に戻ると、ミルクを温めるかを聞いた。
クロードは冷たいままでいいと言うので、一つをテーブルに置き、一つは、曲がった鉄パイプの煙突を壁から突き出している薪ストーブの上に置いた。
そこには既に水を張った鍋が置いてある。
そうしておいた方が、水分のせいで部屋が速く暖まるらしい。
ハンスはストーブ前の床に座った。
ぼんやりと小窓の向こうに揺れる火を見つめる。
クロードが背後から話しかけてくる。
「お前、一人で帰れるのか」
「うん」
「まだ日は出てるけど、帰る途中で暗くなるぞ」
「ああ、うん」
「どうするんだ」
「ここに泊まる」
クロードは返事をしなかった。
ハンスはまだ火を見つめていた。
こんな所に一人でいて、クロードは淋しくないのだろうか。
村にも空き家はあるんだ。
そこに住めばいいのに。
村の誰もがそれを承知しないことを承知の上で、ハンスはぼんやりとそんな事を考えていた。
ぱちぱちと木の爆ぜる音が、耳に心地良く響いている。
「ロディーの気持ちは、お前も判るだろう」
「え?」
ハンスは振り向いた。
クロードは冷たいミルクを飲んでいた。
「どう言うこと?」
「お前と同じだよ。親父が死んで、悲しいんだ」
「……それは、判ってるけど」
「だったら、むきになるな」
「だけど、それと、クロードとは関係ないよ。クロードのせいで死んだ訳じゃないもの」
「そんなこと、冷静に考えられるようになるのは、ずっと後になってからだ。今はまだ早すぎる」
「けど」
「お前もそうだった。お前は私が帰る時、ちゃんと仕事をしていけと怒鳴ったじゃないか」
ハンスは軽く唇をかんだ。
確かにそうだ。
あの時は口惜しかった。
何もしないで帰ろうとするクロードが、憎らしかった。
カップに手を伸ばすと、直接持つには熱いくらいになっていた。
服の袖を伸ばして、取っ手をその上から持ち、テーブルに戻った。
中のミルクはカップほどは熱くなかったが、カップが少し冷めるのを待った。
「そうだけど、でも、クロードは口惜しくないの?」
「ロディーほどは口惜しくないよ」
ハンスは再び黙った。
カップに口を付けると、温かいくらいになっていた。
ミルクを飲む。
冷たい時より、ずっと甘く感じられた。
「じゃあ、クロードは淋しくないの?」
返事がなかった。
ハンスは顔を上げる。
目が合うと、クロードは思い出したように口の中の菓子を噛み始めた。
ハンスは彼がそれを飲み込んでしまうのを待った。
そして、ミルクを三口飲むのも待ってやった。
「さては、ここで夕飯を食べるつもりか」
ハンスは目を閉じた。
クロードは時々こうやって話しをはぐらかそうとする。
でも、僕だって少しずつ大人になってきているんだ。
いつまでも誤魔化されてばかりはいないぞと、ハンスは目を開けた。
「みんなと仲良くなりたいでしょう?いつまでもこんな、一人でいるなんて」
「いつまでもかどうかは判らないさ」
「この村を出て行くから?でも、行った先でもきっと同じなんでしょう?それに、そこに僕はいないんだよ。今よりずっと淋しいんだ。本当は淋しいんでしょう?みんなと仲良くしたいんでしょう?」
クロードは溜め息をつきそうな表情で、自分の首の後ろを掻いた。
その手に揺らされて、波打つ黒い髪が揺れた。
波。
黒い髪。
ハンスの心に、その単語がふと静かに着地した。
「まあ、いつかは何とかなるかも知れないが、とりあえず今はこれでいいんじゃないかな」
「また、そんなあやふやな事を言って誤魔化そうとしてる。この村に留まることを考えないの?僕はいて欲しいよ。ずっとこの村の魔術師でいて欲しいんだ」
「お前がそう思ってもな」
「クロードも思うんだよ。それで、村の人もそう思うように。そうなれば、何の問題もなくなるんだ。みんな仲良く、やっていけるのに」
クロードがかすかに笑ったのが判った。
バカにしたという訳でないことは判ったが、駄々をこねる子供を見守るような、優しい笑みだった。
ハンスは少し口惜しかった。
「なんだよ。淋しいくせに。本当は孤独で、」
孤独。
自分が口にしたその言葉が、再び心の底に舞い降りてきた。
なんだろう、この感覚は…?
ハンスは眉をひそめて考えた。
なんだろう?
この感じ。
孤独?
そんな言葉、今までまともに使った事なんかなかった。
「どうした?」
心配そうにクロードがハンスの顔を覗いた。
ハンスはクロードを見た。
黒い髪。
悪魔。
孤独。
波。
…さざ波。
「ああ」
と、ハンスは声を漏らす。
クロードは聞く。
「どうした?」
「僕」
思い出した。
「魔女を見たんだよ」
あれは孤独だ。
その時は気付かなかった。
でも、あの時感じたのは孤独だったんだ。
強烈な孤独感。
深くて、冷たい、孤独。
「知ってるんだ」
「何の話だ?」
「僕、去年、北の森に入ったんだ」
「北の森……。魔女って、月の湖の魔女のことか?」
「うん」
「村では行くなと言われてるはずだろう」
「うん。だから僕、誰にも言ってないんだ。ずっと黙ってたんだ。だから、夢みたいな気になってたけど、夢じゃないよ。僕、確かに見たんだよ、魔女を」
クロードはかぶりを振った。
「大丈夫だったのか?」
「うん。平気だよ。だから僕はここにいるんじゃない」
「そうだが」
「クロードは知ってるの?魔女の話」
「知ってるって程ではないが」
「この村に来る前から知ってたの?」
「噂には聞いていた。月の湖の中には千年ほど前に建てられた城がまだ建っているという事や、そこに魔女が住んでるという事なんかは」
「見に行った?」
「いや」
「僕は見たんだよ。綺麗な湖だったよ。霧がかかっていて、どれくらい広いかは良く判らなかったけど、城も見えたんだ。城はよく覚えてる。岩で出来ていて」
「行くな」
「え?」
「もう行くんじゃない」
「……どうして?どうしてクロードがそんなこと言うの?実際には知らないんでしょう?実際に見たら判るよ。あそこはただの綺麗な湖なんだ。霧のせいでみんな神秘的に感じてるだけだよ。あそこに住んでる魔女も、きっとただの女の子だ。みんな誤解してるんだ。クロードと同じだよ。みんな知らないんだ。実際に会って話しをすれば、きっと判り合えるよ。案内する。今度一緒に」
「駄目だ」
ハンスは息を飲んだ。
今までになく、クロードの口調は真面目なものだった。
「行くんじゃない。村が禁止していることだ」
「だけど」
「湖のことは、もう忘れろ。思い出だけで充分だよ」
ハンスは首を振った。
「判らない。どうして?行っても見てもいないのに、どうしてそんなこと言うの?村の言うことなんか、どうしてクロードが気にする必要があるの?みんなは知らないだけだよ。あの女の子はきっと、クロードと同じように孤独なんだ。僕にはそれが判ったんだ」
ハンスの気持ちは昂り、口調もたたみ掛けるようなものになっていた。
しかし、クロードは冷静だった。
「もちろん、私はその湖を見たことはない。噂しか知らない。だが、北の森を歩いたことはある。湖があると言われる方角に進むほど、動物たちの気配が減っていった。そして、結局は聞いていた通り、すっかり動物がいなくなっていた。いいかい。森の中で、それは尋常なことではないんだ。私はそこで引き返した。ハンス。月の湖に何があるかは判らない。でも、行ってはいけない。獣達も怖れる場所に、人が踏み込んではならないんだ」
「そんなこと……」
「エレンも行くなと言うはずだ。私のいうことが聞けなくとも、母親のいうことは聞かなければならないよ」
「でも、もし、あの女の子が、悪魔なんかじゃない、普通の、ただの女の子だったらどうするの?彼女は、きっと今も淋しく暮らしてるんだよ。あんな、動物たちも遊びに来ないような湖で、一人で、ずっと。判るでしょう?クロードになら判るでしょう?きっと淋しいはずだよ。彼女は孤独なんだよ」
ハンスはテーブルの上に置いた手を、クロードからぎゅっと強く握りしめられた。
「もしかしたら、そうかも知れない。でも、もし何かを解決しなければならないのなら、それは、その女の子が自らするべきことだろう。違うか?」
「彼女が、困っていたら?本当は出て行きたいのに、何か理由があって、あの城から出られないとしたら?」
「お前は、彼女に会ったのか?」
「うん」
「話をしたのか?」
「ううん。ただ、遠くから見ただけ。彼女は舟に乗っていた。でも、向こうも僕に気付いたはずだよ。僕らは目が合ったんだもの」
「それで、彼女はお前に何かを訴えたのか?傍に来て、助けてくれと言うようなそぶりを見せたのか?」
ハンスは、あの時の少女を思い浮かべた。
それは鮮明に思い出すことが出来た。
美しい孤独な少女は、ハンスを静かに見つめていた。
そして、舟を漕いで、ハンスから遠ざかっていった。
ハンスは力なく首を振る。
「ううん。彼女は自分から、舟を漕いで向こうに行ってしまった」
「それなら、お前に何かをして欲しいとは、彼女は多分、思っていないんだろう」
ハンスはすっかり黙り込んだ。
クロードは元気付けるように、ハンスの手をポンと叩いた。
「さあ、シチューを作ってやろう」
ハンスは、それでもやはり、納得がいかなかった。
クロードの否定的な意見は、本当に意外だった。
いつしかハンスの心の中では、クロードと一度見ただけのあの少女が、全く同質であるという認識で存在していた。
クロードになら判るはずじゃないか。
どうして判ろうとしないの?
それじゃあ、クロードだって村の人たちと同じだ。
クロードを判ろうとしない、ロディーと同じじゃないか。
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