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小説|青い目と月の湖 26

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 暖炉の前でクロードは小さく息を吐き、腕組みをした。
 マリエルは、大きなソファーのほんの前の方に腰掛け、思いつめたようにテーブルを見つめている。
「決心は、つかないだろうか」
 マリエルは頼りなく首を振った。
「決心とか、そういうことではないの」
「じゃあ、何だい?」
「私、あなたと一緒にいたいと思うわ。あなたが一人で村を去るなんて、そんな哀しいこと、考えたくない」
「それなら一緒に来てくれれば」
 マリエルは再び首を振る。

 クロードは歩いて、マリエルの隣に座った。
 その体重でマリエルの体は揺れ、クロードの側に寄り添う形になり、クロードはその体をそっと抱きしめた。
「私も、君を残して出て行くことはできない」
「ねえ、クロード。私あなたが好きなの。あなたと一緒に旅をするのは楽しいと思う。あなたが前にも言っていたように、楽しいだけじゃないだろうっていうことは判ってるわ。私だって、魔法使いが世間からどう見られているか、少しも知らない訳ではないのよ。それでも、きっと楽しいだろうと思うの」
「それなら」
「この城で私は育ったのよ。代々、私たちはここで育ったの。この城に育てられたと言ってもいい一族なの。私がここを出て行くということは、私が持っているもの全てを捨てて行くと言うことよ。湖も城も城の中にあるもの全て。でも私は、それについて悩んでいるのじゃないわ。自分でも不思議なくらいだけど、私は、あなたとならそれを引き換えに出来ると思うの。それでも私がここを離れられないと思うのは、ここには私たちの思い出があるからよ。母の、ずっと昔の母達の思い出が」
「思い出?」
 マリエルはクロードを見上げた。
「私たちは自分を魔女だと信じていた。この城から離れて生きていくなんて無理だと思っていたし、考えすらしなかった。そんな、私たちの思い出よ。この城の隅々にそれは息づいているわ。私にはそう感じられるの。この城を捨てるというのは、母を捨てるのも一緒だと思えるの。私怖いのよ。私はこの城を捨てていいの?みんなが信じて生きてきたものを、私が捨てていいの?」
「君は、ここを出ない限り自由になれない。一生をここで終えることになるんだよ。もし私が村の住人なら、こんなことは勧めなかったかもしれない。私がこの城を訪れればいいことだからね。もしそうだとしても、君がこの呪縛から逃れられないということは変わらないだろうが、それでも二人で時を過ごすことは出来る。しかし、私は魔術師だ。それも叶わないことなんだ。マリエル。私と一緒に来てくれ。私の妻として、私と共に生きてくれ。いいかい、マリエル。君は決して母親を、一族を捨てるわけではないんだ。思い出はこの場所にあるのじゃない。君の心の中にあるものだろう?」
「クロード」
 クロードはマリエルの後頭部をそっと手で支え、ゆっくりとその唇にキスをした。
 そうするのはこれが初めてだった。
 何度か二人で会ううちに気持ちは通じ合っていたが、それでも髪や額にキスするくらいで、強く抱きしめたこともなかった。
 
 
 クロードは慎重になっていた。
 幾つもの町を渡り歩く魔術師が、生涯独身であることは珍しくない。
 人に頼られると同時に疎まれる彼らに心を開く女は多くはないし、普通ならその家族も魔術師などには近付かないよう忠告をする。
 彼らに近付く女がいるとすれば、大抵は普通とは違う彼らに、普通とは違う何かを期待する女たちだ。
 魔術師達に向けられるそれらの感情は、愛などと呼べるようなものではなく、好奇心のようなものだった。
 クロードも幾度となくそんな女たちに出会い、幾度か相手にしてきた。
 彼女たちは押し並べて慎重で、土地の者に決して悟られないように行動する。
 クロードの方にそんな関係に対する緊張感はなかった。
 嫌われようが恨まれようが、クロードは構わないと思っていた。
 どうせ出て行く土地なのだ。
 彼女らの行動も、それを承知の上でのことだ。
 
 
 しかしマリエルは、それらのこととは比べられない特別な存在だ。
 彼女を愛しくは思うが、使命のような気持ちの方が、正直に言えば強かった。
 彼女を月の湖から引き離さなければならない。
 それには湖に目を付けられたハンスの命と、やがてはマリエル自身の命がかかっているのだ。
 マリエルに愛想を尽かされる訳にはいかない。
「私と来てくれるね?」
「私が、あなたの妻に」
 マリエルがためらうように呟き、クロードは緊張した。

 失敗は許されない。
 マリエルの心を何としてでも自分に引き留めておかなければ。

 マリエルは言った。
「母が言っていたの。いつかあなたにも、父さんのような素敵な人が現れるって。私、時々、それは嘘だろうと思っていたわ。そういうことがあるかも知れないけれど、きっと、ない可能性の方が高いだろうと思ってた。そんなのは、本の中だけの話。母はそうだったかも知れないけど、私は違うかも知れない。一族は私で滅ぶの。魔女はもういなくなって、村の人が怖がる理由もなくなる。私は一人でこの城で生活して、一人で死んでいくの」
「そんな哀しいことを」
「でも、覚悟してたの。それが、こんなことになるなんて、とても不思議な気持ちよ」
「マリエル」
 マリエルの頬にかかる髪を耳にかけた。
 彼女の青い目が力を帯びたような気がした。
 クロードは見つめ返しながら、湖のことを忘れようとした。
 マリエルに対する好意だけを強く考えた。
 気を抜くと、その目の力でこちらの思惑を見抜かれそうだった。

 嘘ではない。
 これは嘘ではない。
 私はマリエルを好いている。

「あなたは、私と生きてくれると言うの?」
「もちろんだ。私はそうして欲しいんだ」
「私……決心するわ。あなたと一緒に、この城を出る。二人で、この村を出ていく」
 クロードはマリエルを抱きしめた。
 ほっとはしたが、まだ早いとも思う。
 確かにこの湖から離れない限り、安心はできない。
 マリエルの口が、クロードの耳の傍で小さく動いた。
「クロード。あなたが大好き」
 クロードは少し手の力を緩め、マリエルの顔を見つめた。
「私、今からあなたの妻になりたい」
「それなら私は、今から君の夫だ。それでいいかい?」
 クロードの心から、湖の存在が消え去ることはなかった。
 マリエルの熱っぽい表情に見惚れながらも、ハンスや村のことを考えていた。
 自分とマリエルが村を出て行けば、きっとハンスは悲しむだろう。
 しかし、放ってはおけない。
 ハンスを殺させるものか。
 もし必要となれば、ハンスに再会する手段はあるはずだ。
 とにかく今は、湖からマリエルを遠ざけなければ。
 クロードはマリエルを強く抱きしめた。


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