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記憶のピース─#1─生理出血

一九九七年。十月。私は音楽室のある校舎の東端から、西端にある体育館へと重いバスドラムを担いで大移動をしていた。この日は文化祭の開会式のため、吹奏楽部の演奏が体育館で開かれることになっており、部員たちはそれぞれの楽器や譜面立てをせっせと運んでいる最中だった。

私は吹奏楽部の三年生で、あいにくの生理三日目だった。正面玄関前の、吹き抜けの太鼓橋を通っている時、冷やりとしたものを感じた。大きな生理出血の兆候を感じたのだ。私は生理が重い方で、この時体内からナプキンへと血が漏れ出る感覚は、体重が少し軽く感じる程の重量感があった。演奏が始まったら一時間はトイレへ行けなくなってしまう。大丈夫だろうか。

私は打楽器担当で、スネアドラムや木琴、軽音楽ではドラムを担当する。ドラムでは足を開いて演奏しなければならないので、万が一足に血が伝うような場面を同級生達に見られでもしたらと、不安な気持ちでスティック棒を取った。

午前十時ちょうど。吹奏楽部のロッキーのテーマによって、生徒たちが体育館へと入場してきた。大量に出血することが恐くてバスを叩く足に力が入らない。なんとか足首の力で音が鳴るように、工夫しながら演奏をした。生徒達の入場を終え、吹奏楽部の大会演奏曲の時間になると、スネアドラムやマリンバの前に移動する。ドラム中に大きく出血することがなかったために、いくらか安心して演奏に身を入れることが出来た。

それでも吹奏楽部の催し物を終えると、すぐさまトイレへと駆け込んだ。生理ショーツを下ろした瞬間、白い便器に血が飛び散った。はずみで運動靴へも鮮血がこぼれる。一瞬頭が真っ白になった。これは何? こんなに出血したことなど、生理が始まって以来経験したことがない。昼用のナプキンは白い部分が見えないくらいに血でぐしゃぐしゃになっている。昼用ではもたない。大きな夜用のものが必要だ。

頭が混乱したまま、とにかく保健室へと辿り着かなくてはと思案した。替えの昼用ナプキンを濡れたショーツに装着し、トイレットペーパーをこれでもかという程にぐるぐる巻きにして、血が漏れないようにそぞろ歩きで向かった。果たして、保健室へは無事に辿り着いたのだが、保健婦の先生は、

「生理になっちゃったの? ナプキンねえ、昼用ならあるけど夜用は置いてないのよ」

と言って私をあえなく落胆させた。仕方がないので担任の男性教師には、保健婦の先生から腹痛がするということを伝言して貰い、母に夜用ナプキンと替えのショーツを持ってきてもらうことにした。校門で母を待っていると、すぐに自転車を漕いでやってくる母の姿が見えた。私の家は学校から歩いて五分程の距離にある。母の顔を見ると泣きそうになった。

「お母さん、生理の血がすごいの」

「夜用ナプキン、二枚持ってきたけどそんなに酷いの? 文化祭は出られそう?」

「ナプキンがあれば大丈夫だと思う。着替えなくちゃならないから、もう行くね」 

母と別れると、再びトイレへと向かった。おむつのような夜用ナプキンで体操服を着ると、お尻が不自然に膨らんでいるようで気になったが、着替えた安心感でひと心地ついた。

クラスの出し物は生徒達主演による、予め撮影し編集してあったショート・ムービーを流すというものだったので、映画を観に訪れた他学年の生徒達が笑い声を上げる姿に一緒になって笑ったり、友人達と他のクラスの出し物に参加したりして楽しみながら、夕方まで文化祭を楽しんだ。

満足した気持ちで帰宅したが、やはり大量の出血は止まっていなかった。部屋で休んでいても、レバーのような血の塊りが出る度に、ひやっとしてトイレへ駆け込む。水道の蛇口が緩んだかのような出血に、トイレはあっという間に血で染まった。


「なおみ、出血はどうなったの?」

心配して母が様子を見に来てくれる。

「一時間で夜用ナプキンがいっぱいになっちゃう」 

便器を見下ろして母が言った。

「なにこれ。酷いじゃない! すぐに婦人科に行こう。これから開いている所は……」

母の言葉に、血だらけの股や白衣を着た男性医師の姿が脳裏に浮かぶ。それに金属の開脚台。

「やだよ。大丈夫だよ、生理なんだから。止まれば何てことないよ」

「生理って、こんな出血なんかないよ。一度診て貰えば安心出来るんだから」

「大丈夫。明日になれば収まるよ。婦人科なんか絶対に嫌だ」

私は急いで服を着ると、逃げるようにトイレを出た。翌朝のトイレも酷いものだった。念のため、夜用ナプキンを五枚ほど通学鞄にしまい込み、学校へと向かう。授業中、何度も出血の兆しを感じて青ざめ、休み時間になるとトイレへ駆け込んだ。ぐしゃぐしゃになったナプキンを変えながら、衣服に血がつかないように慎重に立ち上がる。

昼休みを過ぎると、なんだか体が怠くなってきた。気疲れだろうか。今日はもう早退してしまいたい気持ちになったので、担任巨教師には「熱っぽい」と仮病を使い、重い足取りで帰宅をした。

本当にとても疲れていた。ナプキンの替えを済ませ、部屋着に着替えると居間のソファに寝転ぶ。あまりに怠いので熱を計ると三七度以上あった。やだ、本当に熱がある。風邪を引いちゃったかな。その日はシャワーを浴びると、早々とベッドに入って就寝した。

夜中に酷い頭痛で目が覚めた。シーツに手をつくと冷たい感触がする。赤い絵の具を水で溶いたような血溜まりが出来ていた。粗相をした惨めさと、夜用のナプキンでも足りないのかという落胆で涙が滲んだ。重い体を起こして、シーツを引っ張り出して浴室で洗った。本当に出血は止まるだろうか。止まってくれなくちゃ困る。婦人科にだけは絶対に行きたくない。お願い、明日には落ち着いて──。

祈るような気持ちで着替えると、再び布団に入った。次の日、身体は更に怠かった。微熱はあるものの、風邪のような気配はない。あれだけの出血をしたために、身体が貧血状態に陥っていた。母が仕事へ行く前に部屋に入ってきた。

「なおみ、今日も血が止まらなかったら、明日は絶対に病院に行こうね」

「うん。分かった……」

私は観念してというより、身体の怠さに負けて呟いた。その日も出血は止まらず、私の顔色はみるみる土気色になっていった。階段を一度に登り切ることが出来ず、休みながら這うようにして自室へ向かう。食事は母の切ってくれた林檎を食べるので精いっぱいだった。横になっていても頭痛がして眠ることが出来ない。気晴らしに好きだったバンドのCDをかけてみるが、ベースの重低音が頭痛の疼きと相まって吐き気を催した。

体を起こしてCDを止めるのにも時間が掛かってしまい、地獄のドラムンベースの渦に巻き込まれながら、必死の思いで体を傾け停止ボタンを押した。以来、私はその曲を聴くとあの頭痛が蘇えり、長らく吐き気がこみ上げた。

次の日、私は母に付き添われて婦人科を受診した。生理が止まらないこと、身体の不調などを訴えると、医師はおもむろに、

「妊娠検査をしますね」

と言い放ち、私を驚かせた。妊娠検査って何?
そのままエコー検査に血液検査など、一通りの検査を済むと、

「妊娠はしていないみたいですね。血液検査の出る一週間後にまた来院して下さい」

と病院を放免された。

衣服を脱ぐ必要も、開脚台にも登らずに済んだため、私は幾分安堵した心地で病院を後にした。母は母で、今日の検査で何も見つからなかったために、私を特に心配する必要はなさそうだ、と判断したらしい。母は家計を慮ったのであろう。

「タクシーは学校の所まででいいよね。残りは歩いて帰ろう」

と言って私を放心させた。歩くだけだって心臓が波打つというのに……。

私は悲しみと怒りで、タクシーを降りるとずんずん母を追い越して歩いた。

「なんでそんなに早く歩くの?」

後ろから呼び掛ける母の声を無視して、壊れそうになる心臓にも構わず、ずんずん歩いた。家に着いてからも母を無視して自室へ入ろうとすると、側頭部に母の鉄拳が見舞われた。

「親に向かってその態度は何⁉」

母は般若の面になっている。そっちこそ、病気の子供に向かって何なのだ。私は捨て鉢に謝罪の言葉を告げると、母を一瞥もせずに部屋のドアを閉めた。ベッドに崩れ込むと、また涙が溢れた。とにかく惨めで、心細い気持ちを誰にも分かって貰えない気がした。

翌日は日曜日だった。只ならない息苦しさで目が覚めた。呼吸をする度に、首筋が生き物のように脈を打つ。苦しい。けど、ベッドを這い出る体力もない。私は横になったまま、母が部屋を訪れてくれるまでひたすら息苦しさと戦った。母が朝食の時間に部屋を見舞ってくれると、私はかすれた声で訴えた。

「お母さん、苦しい。やばいかも……」

「大丈夫? 何か食べれる? 何でも好きなものを買ってくるよ。今日は病院が休みだから、明日になったら一番に病院に行こう?」

私の額を撫でながら、母が優しく言った。

「うん。冷たいゼリーが食べたい……」

母は分かった、と頷くと、近所のスーパーへと出掛けていった。私はどうしちゃったんだろう。どうして生理が止まらないんだろう? 自分では見当もつかなかった。とにかく早く楽になりたい。母の言う通り、もっと早く婦人科を受診すれば良かった。眠りに逃げて時間をやり過ごしたかったけれど、あまりの息苦しさに眠ることさえ出来なかった。

夕方、頭痛と首の上下運動と、心臓の息苦しさが限界を超えた。私は這うようにゆっくりと階段を降り、居間の両親の元へ向かった。

「もうダメかも。救急車……」

両親は素早く立ち上がった。

「県立病院の緊急外来に行こう。車ですぐだから」

私を抱きかかえると、取るものも取らずに車のエンジンを掛けた。

記憶のピース─#2─輸血|由木名緒美 #note https://note.com/joyous_ixora568/n/nc601627e76a1


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