AIが生産性の9割を肩代わりした後の人間の価値を考える
久々にCanva触ったけどやっぱり楽しいな。
前の会社では社内のプレゼンで使ったりしてたんだけど、
あまりこういうのは自分には向いてないと思っていた。
だけどいざ触ってみると直感的で楽しい!
久々に触るから特に何を作ったわけでもないけど、
またまたAIの話題なのでたまにはそれっぽい画像を…。
※ちなみにいつも画像が一色ベタ張りなのはPantoneが好きで
それっぽくしたかったから
では本題です。
AIが人間の仕事を奪うという言説
思い出せる限り2015年頃からだろうか。
にわかにAI時代の到来を予告するニュースやテレビ番組が世間を賑わすようになった。
そして、その当初から人間の仕事が奪われるんじゃないかという
危惧が囁かれていた。
更に近年になって、いよいよ本格的に一般大衆の間にも肌感としての
危機感が蔓延しつつある気がしている。
確かに私自身、企業の中に入って業務改善の仕事を行った経験があるが
単純な事務仕事はAIでなくても自動化することが可能だ。
反復作業を要求されるようなデータ入力やデータ移行作業については
人間の出る幕はなくなるだろう。
また今後、コールセンターのような比較的業務内容がフロー化された仕事はいずれAIに取って代わられるであろう。
法曹の世界もAIに置き換わるスピードが早い可能性があるとされてきたが、
痴漢冤罪の話などを見ているともう少し時間はかかる気がする。
(冤罪を立証するために色々な実証が必要であるがゆえ)
またAIの進化と同時に体の機能を果たしていくロボティクスの分野も
並行して進歩・発展していく必要があるため、
いまいま直ぐに9割の仕事がなくなることはないだろう。
「仕事」が奪われたなら「使命」に生きたらどうだろう?
そもそも仕事って何だろう?
いまいま定義されている職業に就いて収入を得ることだろうか?
本当に?一応検索してみた。
なるほど、世間では大抵2の意味で「仕事」を定義し、
それがAIに奪われると言っているのだろう。
つまるところ「職業」が奪われるといった方が正しいのかもしれない。
その点についてホリエモンこと堀江氏が以下のような話をしている。
乱暴に要約すると、先ほど引用してきた「仕事の定義」の
2はAIに奪われ(またこれに縋りつくのはナンセンスであり)、
1が今後大事になってくる(更に遊びの延長としての仕事になる)と
言いたいのではないか。
ベーシックインカムの是非は置いておくとして、
この考えには概ね賛成ではある。
特に従業員として使役や労働としての仕事であれば、
AIに代替された方が良いとすら思っている。
堀江氏が「遊び」と提示した部分。
私も個人個人が遊びとして仕事ができればいいなと思う。
そしてもう一つ私が人の性質について考え、付加したい要素がある。
それが使命だ。
多かれ少なかれ、人は誰かの役に立ちたいと思っていると私は考えている。
私の大嫌いなアドラー心理学でいえば貢献感にあたるだろうか。
結局人は遊びを通じて、最終的にその遊びが「誰かの為になったらいいな」って無意識に思ってるんじゃないだろうか。義務感ではなく、だ。
それが本当の意味での使命感なのだと思う。
で、あれば、もし「仕事」が奪われたのだとしても
そこには各自の「使命」が残されているのではないだろうか?
だって皆、普段目の前のことに追われていて
自分の生きる意味を考える暇なんて無いって嘆いてやしないか?
私は考える。人が常々知りたいと思っている生きる意味や生きている意味は
きっとこの使命を思い出したいのだと。
知りたいんじゃない。思い出したいのだ。
人間は生産性の為だけに生きるべきか?
結局AIが突き付けてきた命題というのは、
この見出しのことなのではないか。
今の世の中では、それが資本主義であろうが社会主義であろうが
共産主義(ここが微妙に語弊があるが)であろうが、
結局職業人に求められるものは生産性だ。
だがしかし、私たちが本来何のために仕事をしているかというと
対価を受け取ったその先に「私たちの思う幸せ」が待っているからではないか?
もちろん、労働が尊いという考えもある。
労働により他人様のお役に立ち、貢献する。
しかし、それですら他人から強制されて同調すべきことではないはずだ。
あくまで自発的に、それも洗脳されてではなく本心からそう思えてこそ
尊いのではないだろうか。
こうやって一見入り組んで見えるような命題こそ、
心に素直になってシンプルに思い返してみることが大切だ。
本来はとても単純なことだ。
ただ、社会の仕組みがシステムが過剰な欲や企みや欺瞞が、
それを複雑化させてしまっている。
全然関係ないが、ヒトラーも絵描きになれていれば
きっと独裁者を選ばずに生きて、死ねたんじゃないだろうか。
またもう一つ、私は問いたい。
人はそんなに立派でなくてはならないだろうか?
私自身は「人間は常によりよい存在を目指すべきである」と
常々思っていたし、今もそう思っている。
ただし、その「よりよい」の意味付けが
最近変わってきたように感じる。
きっとAIは人類の誰よりも立派になるだろう。
ではその先の人間の価値とは何か?
私は案外、ダメなところやだらしないところ、
人を想う気持ち、涙もろいとか怒りっぽさ、
ボーっとしてたり遊び惚けてたり、
ついつい飲み過ぎて誰かに絡んで恥ずかしいことを
口走ってしまったり、それ全部私の過去のことだったり…。
でもその果てに見出したものを人に伝えたかったり。
そんな所謂人間臭さこそが人類に残された価値であり
最後の砦だとも思っている。
今こそ「幸福論」や「仕事観」を再定義しよう
私たちにとって本当の幸せとはなんだろう?
そんなもの個々人によって違うはずじゃないか?
無論、その通りである。
だが我々は昔から親や社会に「いつの間にか幸せの定義を刷り込まれている」のではないだろうか。
ゆえに、実は個々人によってそんなに違わないのが実情だ。
もっと言えば、ある特定の状態や状況を幸せだと思いこまされているのではないか?
人並みに青春を味わい、人並みに恋をして、人並みに結婚をし、
人並みに持ち家やマンションや車を所有し、人並みの老後を送る。
これを見て「いやいや古臭いよ!もうそんな時代じゃないでしょ!?」と
ツッコみたくもなるだろう。
だが世間を見渡してみてほしい。その使い古されたレールになんだかんだ
多くの人はトロッコを走らせていることに気が付くはずだ。
特に通勤電車や満員電車は皮肉そのものだ。
勿論、そういった幸せを否定はしない。
どちらかといえば、
それこそが唯一の幸せの形であるかのような暗黙の了解や
強制をそろそろやめるべきなのではないか?という提言をしたい。
他にも過剰な所有や消費、他人を使役することなど
追いかけても追いかけても満たされることはない欲の果てを…。
いや、それもいいのかもしれない。
欲が満たされる。つまり快楽や快感の永続は幸せとイコールなのだろうか。
この世の神になれば満足するのだろうか。
あなたはどう考える?
ここまで書いてみて、私だけでは答えが出せそうにないように思う。
逆に皆さんに聞いてみたい。
貴方の思う幸せとは何ですか?
貴方の考える仕事とは何ですか?
その答えは、もしかしたら誰よりもAIが待ち望んでいるかもしれない。
了
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