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読書日記2024年5月7日〜17日

15年ほどまえに死んだ母親の生家に行ってきました。名鉄本宿駅からくらがり渓谷行きバスにのり30分ほど、千万町口バス停で降りてからほぼ上り坂30分でたどり着いたのが千万町です。母親の生家におばといとこがいたのですこし話をしたりしました。
その旅のお供はスコット・フィッツジェラルドの『グレード・ギャツビー』です。『ホテル・ニューハンプシャー』にこの本が登場してくるのですが、美しいラストというふうに書かれていたので読むのを楽しみにしていました。

ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の手からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと早く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。・・・そうすればある晴れた朝に・・・
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。

中央公論社『グレート・ギャツビー』P325

ラストの部分です。ここのことでしょうか。ニックのギャツビーを信頼する気持ち、パーティ三昧の日々が終わり静寂のみがのこるロングアイランド島のウエスト・エッグ、ニックのこころのなかにのこる燃えカスのような感情。みんな孤独なんだという、じつは昔からみんなが知っていたことを思い出させてくれます。

日本の1880年から1945年までサハリンにはロシア、アイヌ、ギリヤーク、オロッコ、日本そしてポーランド人などさまざまな人種が入り混じって生きていたという小説でした。ブロニスワフがサハリンに流刑され、ただ生きることの意味を模索していく。そのなかで出会ったギリヤークの人々の研究をすることで、生きていくことの意味がわかっていくところがよい箇所でした。人種がなにかというよりも、どのように自立して生きていくということが重要だ。そんな感じでした。

ウィリアム・サローヤンは唯一短編『こころが高地にある男』を読んだことがあります。なにかといいわけをして働かない男たちの滑稽な様子を子どもの目線から描いた愛らしい短編でした。今作は父と息子の会話がほとんどという小説で、その会話もふたりが対等なかんじで続いていくのが面白い。そして二人は貧乏なので自然と会話が食べ物の話になっていくところも。

なにもかもつけるというのは、玉葱のみじん切りやピクルスとピーマンのみじん切りやマスタードやチリ・ソースなんかをホット・ドッグ全体の上にかけて、パンの上から横へだらだら垂れるようにするのだ、僕の父は、彼のホット・ドッグを三口で食べた。
「この世界そのもの・・・それがホット・ドッグのうまさの最高の部分なのさ」

新潮文庫『パパ・ユーアクレイジー』P110

小説の文章にははっきりと表現されていないところが多くあります。あえて詳細をかかない、読者の想像力を信頼しているのでしょう。父親はまったく書かない小説家で貧困におちいり、息子も登校拒否ぎみだということを。しかし二人は会話をつづけて「この瞬間こそが私の人生の中の一番誇らしい瞬間なんだ」と思い続けていくのがわかります。

小説を読み終わってから悠紀子はその後はどうなるのだろうというおもいがながく続いていきます。小説のなかで、後年土屋壮吉の研究室で1年間みっしりと心理学を学んだとのみ書かれています。病気によってあっけなく死んだか、いがいとしぶとく長生きをしたかはわかりません。どちらにしても死亡するときにおもいだされたのは土屋壮吉のもとで勉強をした思い出かもしれません。しかし、本当の彼女を作り出したのはこの小説にある他愛もない出来事なのです。母親、姉や同級生などの同性からの無理解。親類の異性からうけたセクハラまがいの行為。2024年に生きる人間からはかなり異常とおもわれる世界で生き抜いたことによって生まれた自立心だったのでしょう。


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