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短篇小説『若年』

コンビニの夜勤がいつものように堪えて嫌な気分でシフトを上がった。いつ辞めようかいつ辞めようかと毎度のように考える。もうかれこれ十年近く惰性で勤め続けているが思い入れは全くない。

何よりも体がついてこないのがそう考える理由の一つだった。大学生の頃は、夜勤明けに朝から一杯ひっかけたり、友人との遊びに直行したりといくらでも無茶ができた。
しかし、30歳を控える今の自分の肉体はもうすでに全盛期を過ぎ、ろくな運動習慣も食事制限もしてこなかったツケが回り始めて疲れやすく力が出ない日々が続いている。体力の欠如どころか血液検査の結果に頭を悩ます始末だ。

今もはやく眠りたい一心で帰路に就いたところだったが、シフト中に二本ぐいと飲み干したエナジードリンクの効果が切れてきたのか、まっすぐ歩くのも辛いほどの疲労感が襲ってきている。ぼんやり目が霞み、周囲の早朝の音も、どこか遠くでくぐもって聞こえてくる。

そんな状態でよく見分けられたものだと思う。
寝ぼけて明瞭とは言い難い意識がそれでも、駅の改札に向かう彼女の姿を認めたとき、俺は思わず足を止めた。ぎょっとひるんだ。
しかし、そんな自分の些細な自尊感情よりも、彼女に話しかけなければという衝動の方が圧倒的に勝っていた。

「早川、、さん?でしょ?」
駆けたために乱れた呼吸と脈拍を抑え込もうと苦心しながら声をかけた。

「もしかして姫野君?」

お互いに顔が分かったのは偶然にしては出来すぎていた。
最後に顔を合わせてから十年以上経っていたことになるが、同じく仕事終わりだという彼女とせっかくなので店に入ろうという風になった。俺はとある居酒屋を提案した。

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「そっか、早川さんはT大行ったんだ。俺らの中学からまさかT大生が出るとは思わなかったな、、でもそっか、早川さんは昔から勉強できたから。さすがだ」

「ありがとう。確かに私、中学の同級生となんて卒業以来まったく連絡とってなかったし、お互いの進路もそりゃわかんないよね。姫野君はどうしてた?
それこそ、どの高校に行くのかだってあの時も聞けなかったから、、、」

二人で入った居酒屋には、間の悪いことに先客の中年集団がおり一晩飲み明かしていたのだろうか、その大きな笑い声でお互いの声はかき消されがちだった。

その、あの時は、、

「え?ごめんね、もう一回言ってくれる?」

「いいんだ、何でもない」

気まずい沈黙が流れた。おそらく彼女も、中学校時代の事を思い出しているに違いない。自分も忘れようと努めていた記憶が、胸の傷と共に現在の彼女の姿と重なりよみがえってきて、ほんとうに嫌になる。

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早川早紀と初めて出会ったのは小学生5,6年生の頃だったと思う。
時期が定かでないのは、当時はお互いクラスメイトとして顔を見知っている程度の間柄で、俺も彼女と特段話した記憶はなかったからだ。

親しくなったのは中学校に入ってからである。
同じ小学校から上がる生徒が少なかったせいだろうか、もともと顔なじみであった俺と早川は、一年次に同じクラスに進級した直後からよく話すようになった。

正直な話、小学校の頃は彼女に見向きもしなかったが、彼女は中学で急に垢抜けた。俺も新しい環境の中で浮かれていたのかもしれない、彼女に特別な感情を抱くのに時間はかからなかった。お互いになんとなく波長が合うような気がして(彼女もそう感じていたに違いない)、学校での大半の時間を二人で過ごした。

彼女は人の話をよく聞いてくれた。俺が当時流行っていた小説に対して、生意気な意見を声を大に語る時も、彼女はうんうんと、うなずいて同意してくれたのを覚えている。

しかし互いの関係性はそこから発展するどころか、一年生の冬には終わることとなった。会話をしなかったわけではないが、もう以前のように信頼関係のもとに率直に話すことは無くなった。
思い出したくもない出来事のせいだった。

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「私実はね、秋元君、覚えてる?中学の同期だった、姫野君は話したことあるかな。彼と実は結婚したんだ。」

「え、秋元と?そうだったんだ、いつだったの?」

「ちょうど四年目になるかな。26歳の時。早いって思った?だよね、私も結婚してから、早かったなと後悔したもん。仕事が二人とも忙しすぎて家庭どころじゃなかったのにね」

「さすがだ、秋元のやつもやることはやってたってわけだ」

「え?」

「仕事と家庭、どっちも頑張れてるんなら言うことなしだよね、全く」

「別に、そこまでうまくやってるわけじゃないよ。失敗してばかりだし、まだまだ自分のやりたいことをさせてもらうには勉強しなきゃ」

「でもそうやって、やりがいを感じられる仕事を見つけて、家庭も持って。心配することなんか何もないじゃない?
俺なんか未だに定職どころかパートナーも見つかってないよ、、笑」

「それは、、そんなに私は悪いとは言わない、よ?」

「そう?」

饒舌に語る自分に、自分自身が驚いていた。自分の運命が決する瞬間を前にした時の、すべてがどうでも良いと開き直ってしまう感覚にそれは似ていた。処刑を前にした時の罪人の心情と言った方が正確かもしれない。

「姫野君なら、素敵な相手を見つけて、世の中を動かすような仕事をやってくれると、私は信じるけど」

早川が何を言いたいのか分からなかった。馬鹿にしているのかと疑った。
けれども早川の表情はあくまでも真剣で、こちらが見透かされてるようで目を合わせられない。何故そんな目で見てくるのか。おもわず唇をかみしめながら動揺を出すまいとするのに精一杯だった。もういいから、やめて欲しいと思った。

「ごめん、俺ちょっと夜勤明けで頭痛くて。今日はここらで帰らせてもらうわ。勘定、今渡すから後でまとめて払ってもらっていい?」

ロクに返事も聞かずに身支度を整え、ふと気がついた時には既に一人で店を後にしていた。

ほんとうに頭が痛い。
今の自分と早川の立場の違いが、社会的にも個人的にも明らかに「格」の違いのあるのを見せつけられたのが辛かった。どうしてもどうしても、あの時、中学一年生の冬に、俺の人生は間違った方向へ進み始めたとしか思えなくなってきた。俺と早川が別れることになったあの時、自分と彼女の人生の明暗が分かれるようになったあの季節に、今戻ってやり直したいと思う。

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「早川に、お前がみすぼらしいクズだってことを告げ口してやるよ。お前はクズだ、クズだ、その本性広めてやるわ」

人生であれほど露骨な人格否定をされたのは初めてだった。
あまりのことに、そして脅してきた相手の剣幕に押されていた。

理科実験室で二人きり。授業直後に話があると呼び止められて他の生徒たちが退出した後に残り、なんのことかと思っていたらこの有様だった。

「お前みたいな、何もできないナードが調子乗ってんじゃねえぞ。」

一体何のことか分からなかった。

「お前みたいな半端な奴が一倍嫌いねん。お前みたいな奴と一緒にされたくないわ」

この時の俺は知る由もなかったが、ちょっとした色恋沙汰ということになるのだろうか。クラスの女子数人が恋バナをしていた時、俺を問い詰めていた件の男子Kの名が挙がったそうだ。Kは背が高く運動もできたので、その輪の女子たちはKの魅力に賛同したという。しかしそこで急に、俺の名が挙がった。輪の中にいた早川に対して、「早川には姫野君が」などと揶揄されたらしい。早川はまんざらでもない様子だったとか。

問題だったのは、その会話の内容が、女子たちの誰かによってKに漏れたこと、そしてKは早川に気があったということだ。

一見社交的に見えるKは、プライドが高く高圧的に人に接する時があった。更にイラついた時に口が悪くなることを俺はこの時初めて知ることとなった。

自分のプライドが傷つけられた苛立ちをKはストレートに俺にぶつけた。

俺はKの威圧的な態度に反論できなかった。あの状態のKとはまともな会話はできなかっただろうと今でも思う。

それでも、一番最悪だったのは、俺とKの二人だけの実験室に、渦中の早川が戻ってきてしまったことだった。俺たちの様子を見て何事か悟って入り口で黙って立っていた彼女の脇を俺は逃げるように通り抜けて実験室を出て行った。すべてのやりとりを聞かれていたかと思うと反論もできなかった惨めな自分が恥ずかしく、彼女の顔を見もしないで立ち去った。

それからの俺は、Kの視線を意識して、早川と二人でしゃべるのを避けるようになった。機微を察しやすい早川は俺の白々しさにはやくから気づいたであろうし、俺とKの口論の真相をおそらくどこかで聞いたのだろうとも思う。
最初はそれでも俺にコンタクトをとってきたが、俺の頑な拒絶にあきらめて、話しかけてこなくなった。

すべてが忘れたい出来事だった。Kの前で恥を晒したことも、Kを恐れたために早川を避け始めたことも、そんな俺の心情を察して彼女に身を引かせただろうことも、すべてにおいて自分を責めた。責め抜いて許されるとは到底思えなかった。

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居酒屋を出て気が付いたら駅を目前にした橋の上まで来ていた。
夜勤の疲労の上にアルコールも相乗して、足のふらつきを抑えられない。
欄干によりかかって川の水の流れを見つめている時、ふと考えがよぎった。
「もう、どうでもいいではないか。自分の過去も、自分の人生も。」

アルバイトで日々をこなすだけの意味のない生活。目標も夢もなく、ただ孤独に過ごすばかり。そんなくだらない人生さえも、俺は生きる資格を持たないのだとたった今悟った。数年ぶりに再会した早川の前でのあの醜態。他人に、よりによって彼女にさえも、友好的な態度を取れなくなってしまった自分は、どこに行ってももう人を信用できないだろう。一人で生きていく事しかできず、一人で生きていくのを受け入れる覚悟もなく、現状を変えようと努力することも出来ない。

もう、俺の人生の底はとうに見えていたのだ。

欄干の上に足を懸けた。一度目は足が滑ってしまい、背中から歩道に転がり込んだ。ははっ。なんだ馬鹿みたいだ。滑った瞬間の一瞬どきりとした感覚に、こんな状態でまだ死を恐れる自分を笑ってやりたかった。

ここは腹を決めてせめてけじめをつけたいと思った。
二度目は、両手でしっかり欄干の手すりを握りこみ、姿勢を低くして一歩目の足を懸けた。かけた足を向こう側に滑らせると同時に残りの足を挙げて、欄干に跨る姿勢になった。もう一度両手を握り直し、今度は両足を同時に欄干にかけることに成功した。

今、この手を離せば。
そう思って再び怖くなったが、これ以上怖気ずく自分は嫌だった。
手を離して立ちあがった。

早朝の太陽の光が目の前で眩しく輝き、夜の気配を含んだ冷気が頬をさすった。
間髪入れずバランスを崩した体は、少し濁った川の表面に向けて静かに落下していった。声を出す間もなかった。

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天井が見えた。個室を仕切るカーテンが見えた。
廊下をだれかが走る音、複数人で談笑する声、その他はとても静かで、しばらくは眼を閉じて考えに耽っていた。

そうか、俺は死ななかったのか。死のうとしたのははじめてだったが、やはり簡単には死ねないんだな、というのが率直な感想だった。

ああ、これからどうしようか、なんて少し冷静になろうとするけれど、一度感じた人生への絶望、そして決意したのに死ねなかった失望感は頭の中から消えてくれなかった。もう、何なんだよ。そう思わず口にした時、傍で衣擦れの音がした。

「姫野君?」

ぼんやりしていた意識が突然呼び覚まされた。
首をひねると、丸椅子に座って早川がこちらにかがみこんでいた。

「、早川か、、どうして、ここに?」

「君が勝手に店を出て行った後、私ね、実はついていったんだ。姿を見失っちゃったんだけど、河原で騒ぎがあってね。すぐに救急車の音も聞こえてくるしで、もしやと思ったんだよ。それで現場に向かってみたら、びしょっり意識のない姫野君が救護されてる真っ最中でさ。私が付き添いとしてここまで来たんだよ。」

「そうだったんだ、ごめん、迷惑をかけて。ありがとう」

「君が謝るべきは、君自身の行いだよ。まあ別に迷惑でもこのくらいするよ。左腕と足首の複雑骨折らしいから、これから数か月はギプスに松葉づえだね」

「なあ、早川」

「あのね、姫野君。さっきはごめんね、私ばかりが話しちゃって。会わない間のこと、今まで言えなかったことを伝えようと思うと私も収まらなくなっちゃって」

「私今、出版社で働いているんだ。姫野君が昔働きたがってた出版業界にね。なんで私が入ることになったんだろう、不思議だよね。でもね、おかげで昔姫野君が、なんであれだけ情熱的に文学について語っていたか、少しわかるようになった気がするんだ。
私ね、ずっと姫野君に憧れてたんだよ。覚えてないかもしれないけど、小学校で、眼鏡をかけて地味だった私がいじめられてた時、『早川はあたま良くてすごいんだぞ』って弁護してくれたんだよ。すごくうれしかった。」

早川は立ちあがって個室のカーテンの一面を開き、すぐ目の前の窓のカーテンも広げて陽の光を取り入れた。窓を開くと陽の光が少し熱く感じられたが、まだ温まりきっていない涼しげな風が部屋の中に入ってきてカーテンを揺らした。

「まぶしくない?気持ちいいでしょ」

そういいながら彼女は窓の外の景色から目を離さなかった。

「私もう行かなきゃ。最近は夜勤になるから、子供の夜の面倒をお母さんに頼んでるの。はやく帰って交代しなきゃいけない」

振り返った早川は、何年も前に見ていた昔の面影そっくりの笑顔で言った。

「今日は会えてうれしかったよ。またね、姫野君」

彼女は荷物を手早くとると、早足で病室から出て行った。

彼女が笑顔で別れを告げて部屋を出ていく直前、俺は声をかけたかった。しかし、彼女の横顔を、唇をかみしめて頬に涙を流したその表情をちらと見た瞬間、俺は嗚咽をこらえきれなくなった。

彼女が去った後も嗚咽しながら涙を流した。痛み止めがきれてきたのだろう、怪我をした左手と右足の痛みが強くなり、病後の頭は今朝よりも強くずきずきと痛んだ。
それでもひとしきり泣き終えた後、窓の外にふと目をやった。

満開をとうに過ぎたソメイヨシノが葉桜となって枝を窓のすぐそばまで伸ばしている。若葉一色になるまであと一週間というところだろうか。むき出しのおしべとめしべを残して散っていった花びらを想像して、今年は花見など全くしなかったことに気がついた。

来年は行ってみてもいいなと考えていると、みずみずしく茂った若葉に光が反射され俺の目をくらませる。

俺はしばらく目を開けることができないでいて、再び静かに涙をながしていた。

/追記

やり直せないこと、いつまでの胸の中から消えない過去の記憶。
みんな色々あると思います。それでも先へ進むって何なんでしょうか。
答えの分からないまま、時間が過ぎていきます。
そんなことを考えていました。



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