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大江健三郎『飼育』/ただただその巨大さに圧倒されて


ノーベル文学賞作家、以前の大江健三郎

私は今まで、大江健三郎と聞くと、ああノーベル文学賞作家ね。と答えるくらいしかその存在について何も知らなかった。だから今回初めて、新潮文庫の『死者の奢り・飼育』中・短編集で大江健三郎の作品に触れることになった。

圧倒的の一言に尽きる感想だった。

芥川賞受賞作でもある今作『飼育』を書いたのは大江が23歳の時。私と同じ大学生の身分でありながら、なぜここまで、鋭く、おぞましく、巨大な実存に満ちた作品を書けるのだろうか。
その精神は、思考は、一体どこまで広がり膨れ上がっているのか、それを抱えながらどうやって生きているというのだろうか。

おぞましさと巨大なスケール、その中でも道徳を見失わぬようあがく筆致に驚きと尊敬を覚えた。

それでは本編に移りたい。

孤独と差別の中で生きる「僕」

大江の作品の多くはどうやら、孤独と無力感に苛まれる主人公がテーマとなることが多いようだ。

今作『飼育』でも、「村」(非人だろうか)の住人として、「町」の文化・文明から切り離され差別を受けて暮らす「僕」が主人公である。「村」の中では、弟を先導し他の子供らの先駆けとなって逞しく「夏」を謳歌していた主人公だったが、村に墜落した敵飛行機の乗組員である「黒人兵」が捕虜として連れてこられたことで生活が一変する。

毎日を傍らで過ごすことで生まれる「僕」と「黒人兵」との奇妙な絆。それは、村人と捕虜という支配関係の元、「飼育」として読者の前に提示され、いびつでおぞましくもあるその交流が「人間」と「動物」の境界を曖昧にしながら、「僕」の過ごすこのひと夏を、かけがえのない眩いものにしていく。
しかし、捕虜の軍への引き渡しが決まった瞬間、「黒人兵」は「僕」を人質に取って立てこもり、村人たちは「僕」ごと「黒人兵」を処刑すると決めるのだった。

言葉の通じない黒人兵との交流。それは、「裸」の身体を通した、極めて「動物的」で、「唯物的」な接触でありながら、「人間的」でもあった。

実の父親に、「黒人兵」ごと殺されそうになった「僕」はもはや、一切の「大人」を信じなくなる。それに加えて、目の前で黒人兵が死んでいく姿を見て、「もう子供ではない」とそれまでの世界を捨てることで一人で生きていこうと立ちあがるのだ。

主人公「僕」が、差別の「主体」及び「客体」としてその立場を複雑に変化させながら、「真の孤独」、「人間への不信」を体験する。そのあと彼は、「大人」として生きていく事を余儀なくされるわけだが、そこで神経症的な絶望に囚われないのが、「大江文学的」強さである。

「僕」は、更に著者でもある大江は、この世の絶望がどのようなものか知っている。人一倍そのおぞましさを理解している。それでも、「ここに依って生きる」ことを自明のものと受け入れるのだ。

絶望しきったその先の命について

「僕」の良き友人であった町の役人「書記」は、事件の後自ら命を絶ってしまう。
「僕」は、「書記の死体を見すて」る。その死者の表情に、例えば哀しみや微笑みを浮かべるそれらに「慣れてきて」いると自ら吐露する。「村の大人たち」と同じようになるのだと己を顧みるその真意は、どこまで受け入れてよいのだろうか。

決して、「僕」は、「大江」は、戦争のために失われた黒人兵の命を、人間同士を繋いでいた絆を、純朴な「夏」に彩られていた「子供時代」を忘れることは無いのだから。

それらの記憶は、「僕」の潰れた左腕の「臭い」のように、絶望の跡を引きながら躰の一部になってその「人格」を構成し続けるのかもしれない。

むき出しの「生」を全うする

この作品が示しているものは、単なる「実存」の問題、例えば己のアイデンティティに関する神経症的なテーマなどではないだろう。私達読者が思い出させられるのは、自分たちが何者であったか、何によって育てられ、何を見てきたか。まさに自分たちの「躰」に刻みこまれた「生」の実体にほかならない。

大江は生涯に多くの著作を残した。
それらの作品もまた、大江にとっては「人生」の刻印として彼自身を形作るものだったに違いない。

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