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アニメ『君は放課後インソムニア』/「今」だけは、眠れない夜を一緒に居たい



マカロニえんぴつ「遠心」×「君は放課後インソムニア」【MMV】

・導入

眠れぬ夜のための、青春漫画。

人が眠れない理由はきっと、たくさんある。このブログも、3時半という深夜を通り越した時間に書かれている。眠れない人は、それと同じくらいか、もっとたくさんいるかもしれない。本作は高校生の物語だが、執筆者は大学生だし、サラリーマンやそのほか多くの人が眠れないでいるのだと、なんとなく感じている。「眠れぬ夜のための~」と題された書籍や、X(旧ツイッター)の深夜スペースからも分かる通り。
理由は様々だから、その処方箋や気晴らし、解消の方法も人それぞれだし、大変な人はほんと大変だろうとぼんやり思っている。必ずしも万能ではないと分かっている。

だけど、作品中に垣間見える「引力」が、穏やかな夜の過ごし方につながると願って、今回のブログを始めたい。題材は、アニメ『君の放課後インソムニア』である。

・序

誰にも言えない「変」なこと

「ここに、一生居るつもりかよ。お前、なんか変なんじゃないか?」
「変だよ。夜、全然眠くならなくて、イライラして、昼間は頭痛くてずっとうとうとするから、ここで休んでる。心配かけたくないから、こんなこと誰にも言えない。」

アニメ『君は放課後インソムニア』第一話 「能登星」

クラスのおてんば者「いさき」が、人の立ち入らない天文台で居眠りしている現場に遭遇した「がんた」。立ち入り禁止の場所で寝ていた彼女を問い詰める、馴れ初めのシーンの一節。

自分はどこか変なんじゃないか、その考え自体孤独感を生むし、心を傷つける。このブログでは、そんな精神状態への解決策(休息をとる、然るべき誰かに相談する)を提示することはできない。そんな大層なものではない。ただ、おぼろげだが、少しでも安心して夜を過ごし、明日を恐れないでいられる、そんな材料があると思うのだ。この記事そのものがそうでありたいし(本音では執筆者の満足のため)、『君は放課後インソムニア』は、まさに、そんな「ふと安心できるもの」を主人公二人が互いの中に見出していく物語だったと言えないだろうか。

・本編考察

二度と目が覚めないんじゃないかって

「先生ももう大丈夫だって。健康のために運動もしていいよって。
でも、夜が来ると、不安になる。寝てる間に、あたしの心臓が止まっちゃって、そのまま朝を迎えて、二度と目が、覚めないんじゃないかって。心細くて、怖い。」

同上 第七話 「花火星」

「いさき」と「がんた」の二人には、それぞれ、夜眠れない理由がある。
「いさき」の場合、夜寝てしまったら、その間に心臓が止まって、「二度と目が覚めない」のではないか、という不安から来るものだった。というのも「いさき」は幼少のころ心臓が悪く、入院を繰り返していた過去がある。その影響で、健康になった今でも不安で寝れないのだと「がんた」に打ち明ける。

「心臓の音」

「がんた」にそれを打ち明けることには、二つの意味があっただろう。一つは、彼に寄り添って、その心臓の音を聞きながら寝ると安心してぐっすり寝れるということ。自分とは違って、力強く拍動する彼の心音に一体感を得て、安心できるという。もう一つは、「がんた」は(「いさき姉」の発言からしておそらく)家族以外で初めて、「いさき」の心臓の病について聞かされた存在だということである。

まず、「心臓の音」について考えたい。確かに、自分のいびつで頼りない「心音」と比べて「がんた」の「心音」が心強く感じるのは一解釈あるだろう。ただ、それに加えて、文字通り「身体」を触れ合う事に表象される「二人の距離感」がポイントではないだろうか。ただ単に、恋人が手をつなぎ抱き合うのとは異なる意味が内包されている。

それは、自然体で応答を返す「寄り添った存在」、踏み込んで言うと、「もう一人の自分」というものだ。二人の表面上のやり取りを見ると、「おてんば気質で、笑ってじゃれる」いさきと、「寡黙で真面目腐っているが、たまに動揺した可愛い様子を見せる」がんた、という組み合わせ。至って「素の状態のやり取り」なのだ。描写として、相手の心理を読みあう、というよりも、心のどこかでつながっている信頼感が強く示される。

そして二人が初心な側面もあろうが、決して密着しすぎないのだ。どういうことかというと、例えば寄り添って寝る時でも、互いに肩を寄せ合うのみで「互いの身体を預けている」のだ。この、「互いを求める」のではなく、「互いに寄り添う」という姿勢は、自分を見守る「もう一人の自分」のような存在と捉えることができないだろうか。

二つ目の観点、「秘密の開示」について。
心臓の病気と小柄な体格のせいで周りからひいき目に見られることが多かった幼少期の「いさき」は、それが悔しくてたまらなかったのだと、姉の口から語られる。だからこそ、心臓の事を明かされた「がんた」は「特別」なのだ。
ここでよくよく考えたい。「いさき姉」の発言に沿った、「がんた」は「可哀そうな子」という見方をしないだろうとい信頼の他に、もう一つ、「不眠の原因」を打ち明けたことの重要な意味があるはずだ。それは、「いさき」も意図しなかった、だけれど物語の展開上キーとなるポイント。すなわち、「死を予感している」いさきの時間感覚、その告白という点だ。

死はずっと、近く私は

私が月に行ったら、そこから手ぇ振るよ

同上 第二話 「猫の目星」

記事の冒頭でも写真で引用したシーンのセリフ。
これを聞いて「がんた」は言葉に詰まってしまうわけだが、このように「死」を予感させる「いさき」のセリフは劇中でたびたびあった。曰く、「私のことも撮ってね、私を残してね」、「そんな未来のことは、知らない」。これが、「いさき」が抱える本心だった。これについて、アニメ終盤、「がんた」から「いさき」へ送られる言葉があるが、それについては、また後で述べたい。

明日になったら、きっと今日よりひどいことになる

次は、「がんた」が夜眠れない理由についても考えたい。
「いさき」は、自分にちゃんと「明日」が来るのか不安だったとすれば、「がんた」の場合は対照的に、「明日」が来ることへの不安を感じていた。その一因として、幼少期、彼が夜中眠っている時に、「母親」が家を出て行ってしまった、という事が示唆される。朝起きたら、母親の姿はなく、家に一人ぼっちだったのだ。また、観測会が雨天により失敗に終わった時にも、「うまくいくと思っていたところでいつも失敗する」、と、物事が進行することへの恐怖感を語っている。そんな「がんた」の恐怖が消えていくのは、「いさき」との合宿生活においてであった。

「ここに来てから、(…)不安が全然ないんだ。毎日やりたいこと、したいことしかなくてさ。朝起きて、曲が横にいる。それがすごく、ほっとするんだ」

同上 第十一話 「夜明けの一番星」

「この旅、ゴールするまでは、このままで。ね?」

「いさき」に話を戻したい。
「いさき」が持つ時間感覚、具体的には「死の予感」について前に話した。自分の将来を考えられない、というこの傾向は、人生だけでなく、「合宿」最終日の捉え方にも表れている。合宿の「終わり」が近いねと、何度も口にするのだ。

これは更に、「がんた」との関係の深め方にも見て取れる。第十一話、「がんた」への口づけの後、彼女はその場で返答をさせずにこう告げる。「この旅、ゴールするまでは、このままで。ね?」。今のままの関係を留め、「今」を延長したいのだ。合宿が終わった後、ひいては、互いの思いを言葉と行動で確かめ合った後の、自分たちの関係性の「将来」を、心のどこかで恐れている。「物事の進行」、「将来への不安」という「がんた」と同じ苦悩を抱いていたのだ。今まで、二人の関係性を先導していたのは「いさき」だった。しかし、「がんた」とて、伊達に彼女と一緒に時間を過ごしていたわけではない。最終話で告白を遂げるのだ。

「ほんとに、これで終わっちゃうんだね」/「ずっと、一生、曲が好きです。」

「好きです。ずっと、一生、曲が好きです」

同上 第十三話 「最古の星」

この「がんた」の言葉は、まさしく「いさき」を救うものだった。
自分の「将来」でもずっと、「がんた」は彼女の隣で「寄り添ってくれる」というのだ。「心臓の病」という事情と、「いさき」の将来への絶望感を知っているからこそ、この言葉は重みを持つ。さらにこの告白は、単に「将来」を見すえる、というだけではなく、「恋人未満」から「恋人」へと、新たな段階へ時間を進めることができたということになる。一つの関係が終わることの恐怖を乗り越えるには、その上から関係を「新しく」構築すればよい。「未来」が怖くて「今」に留まるのではなく、自分たちの手で「未来」を目指すという姿勢。それは、作中の最も重要なモチーフ、「写真」という媒体を通しても考察される。

・結

写真に収める。ずっと、一生隣にいる「君」との時間を。

「残せないくらいが、思い出にはちょうどいいんだよ」

同上 第七話 「花火星」

「感動的な景色を撮ろうとするのでなく、本当に突き抜けた写真は、景色の中から感動を見つけた時に撮れる。ときめきでシャッターを押すんだ」

同上 第十話 「姉はん星」

隣にいる「いさき」の姿を、「がんた」は写し続ける。それは決して、「思い出作り」ではない。あらかじめ「ロケハン」して、予定通りに撮るのでもない。そのときそのときで、感動的だと思ったもの、心を揺さぶられたものを瞬間的に撮る。「今」という、ごくごく「一瞬」の時間を撮って積み重ねていく。シャッターを押し続けていく。

これは、前の段落で述べたことと、一見矛盾するかもしれない。「未来」を自分たちで目指すことと、「今」という瞬間を積み重ねること。これらはすなわち、「今」という瞬間にこそ、「未来」へと繋がる「ときめき」が隠れている、ということに他ならない。「がんた」は、「いさき」という「今、目の前」の大切なものを撮り続ける延長として、「一生ずっと」彼女の隣に居続けようとするのだ。

「今」に留まるのではない。「また撮りたい」、「さあ、もう一度」と思える「今」が「未来」を作り、それを「もう一人の自分」ともいえる誰か、そう思わせてくれる誰かと過ごしていきたい。この、とても単純で、素朴で強い光を放つ青春の輝きに手を伸ばしかけて、このブログを閉じたい。

もう日が昇ってしまったのでこれにて終了である

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