「好き」や「楽しい」を、いくつも持って。
最近、昔好きだった動画を見ている。
学生時代に好きだった動画なので、もう何年の前のものばかりなのだ。
でもやっぱり、一度好きだったものだ。
今、見返してもわくわくする。
やっぱり今でも好きなのだな。
そう思わずにはいられなかった。
元気が出た。
心が充電されていくようだった。
それらの動画を見ないようになったのは、なぜか。
単に飽きていたのもあるけど、もうひとつくだらない理由がある。
それは、「もういい大人なんだから卒業」というやつだ。
こんな10代、20代の子たちが見るような動画を、私が見るのは恥ずかしい。
もう30代だし、お母さんになったのだし、そろそろこういうのは卒業しなきゃ。
そんなしょうもない思い込みのせいで、自然と好きなものを手放してしまった。
もったいない、もったいないことだった。
そもそも、なんでそんな風に思ったのだろう。
若い子向けかなんてことすらも、私が決めることではないのに。
たしかに今観ている動画は、大人っぽくはないかもしれない。
「ていねいな暮らし」とか、おしゃれな生活とは無縁のものであるかもしれない。
でも、だからなんだ。
昔のわたしがおもしろいと感じていた気持ちは本物なのだ。
ふさわしくないからと勘違いして、手放さなくてもよかったはずだ。
大人になっても、昔好きだったものは持ち続けていたらいい。
むしろどんどん、増やしていく。
どんどん「好き」が増えて行けば、どんどん世界が広がるはずだ。
そういえば先日、珈琲次郎さんが「コンフォートゾーン」について記事を書いておられた。
「コンフォートゾーン」とは、「快適な空間」。
自分の世界を広げることが、楽しい日々をつくる秘訣だそうだ。
そして、「コンフォートゾーン」を広げるには、「未知の領域」に踏み入れることが必要なのだという。
20代のときは、この「未知の領域」に足を踏み入れるのが、むしろ得意だったような気がする。
無鉄砲で、失うものはなく、失敗しても挽回できると信じていた。
でもいつの間にか、失敗を恐れ、失いがたい大切なものを抱えてしまい、さらには子どもができたことで、簡単に身動きがとれなくなった。
小さな家に閉じこもり、窓の外を眺めて「ああ、外は楽しそうでいいなあ」とうらやむ毎日。
「未知の領域」に踏み出す元気もパワーも、残っていなかった。
そんなとき、昔「好きだったもの」を思い出した。
今回の場合は、動画だ。
それは決して「未知の領域」ではない。
昔から知っている世界で、わたしが忘れていただけのものだ。
でも、今のわたしはその忘れていただけの世界に、もう一度飛び込めたことで、うんとうーんと、元気が出た。
急に毎日が楽しくなった。
パワーがわいて、今なら本当に「未知の領域」にも踏み込めそうな気がするくらいだ。
「未知の領域」は、たしかに外へと広がっている。
どんどんそれを掴んでいけば、「快適な空間」は広がっていくんだろう。
でも、そんなパワーがないときは、ちょっと自分を振り返ってみる。
自分の中に、忘れていた世界がないか、たしかめてみる。
昔の自分が好きだったものを、もう一度試してみる。
それがぴたりとヒットしたなら、「未知の領域」に踏み入れたときほど刺激的ではないかもしれないけれど、やっぱり心がわくわくして、毎日が楽しくなるんじゃないか。
そしてさらに。
この「快適な空間」は、いくつも持っているのがいいと思う。
わたしは今、好きだった動画をたくさん見て、その世界を堪能している。
でも動画だけを観ていたときは、途中で動画を追うのに飽きてしまった。
それ一つしか持っていないと、それを失ったときに何も残らなくなる。
「note」もそうだ。
「note」ばかりしていたら、はじめは楽しくても、その熱量は収束する。
とてつもないエネルギーで書いていたあの頃には、もう戻れない。
「note」だけしか居場所がなかったら、熱が冷めたとき、居場所を失う。
だから、「動画」の世界、「note」の世界、ほかにも映画や本や、外での趣味、家族や友達。
そんな心地いい「居場所」がたくさんあれば、それを行ったり来たりしながら楽しく過ごせる。
よく「第三コミュニティ」を持て、とかいうけど、それはべつに、どこかまったく違う場所じゃなくてもいいのだ。
いくつかの別のところに、「好き」や「楽しい」をいくつも持っておく。
それが、ずっと楽しく過ごせる人の、生き方の一つなのかもしれない。
今日もわたしは、「note」を書いて、動画を見て、眠るだろう。
そして明日は、べつの好きなことをする。
その次の日も、また次の日も。
「好き」や「楽しい」は、あちらこちらに。
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