見出し画像

「巻き込まれている」から、書ける。


あー、書けない書けない。

とおもっても、書けることがある。
「育児」についてだ。

いま、かかわっている時間がいちばん長いのが、「育児」だからというのもある。
子どもたちのエピソードは、挙げればキリがないほど、毎日毎日更新される。

どこを、どう切り取ろうか。
どれを調理するか迷ってしまうくらい、材料はふんだんに揃うのである。

だから、難しいことを考えられないほど疲れていても、我が子との日々だけは筆が進む。

◇◇◇

我が子との日々を書いているとき、よく思い出す言葉がある。
古賀史健さんの『取材・執筆・推敲』に出てくる「エッセイの定義」に関する話だ。

一方エッセイは、「巻き込まれ型の文章」だ。
洗濯物を干していたら、急に雨が降り出した。部屋の掃除をしていたら、引き出しの奥からむかしの手紙が出てきた。同窓会に出席したら、担任だった先生からこんなことを言われた。そうした日常の些細な出来事に期せずして巻き込まれ、そこから生まれる「内面の変化」を軽妙に描いたものが、エッセイだ。

同書、p.310.311



「育児」には、この「巻き込まれる」が、大いにあるとおもう。

子どもたちは、否が応でもわたしを巻き込む。
どんなにぼんやり突っ立っていても、
「かかー!トイレ拭いてー!」
「牛乳ちょーだい!」
「本読んでー!」
と引きずり込まれる。
もうほんと、ほっといてほしいときでも。

「巻き込まれている」渦中にいるときは、なかなかしんどい。
子どもにばっかり目を取られて、自分の気持ちは散り散りバラバラになる。

ただ、ふと時間ができたときに、先ほど「巻き込まれた」ときの、息子とのやりとりをふりかえってみる。
息子の手の動き、発した言葉のおもしろさ、長男と次男が見つめあったときの目の輝きなど、彼らの様子がありありとよみがえる。

するともう、書きたくて書きたくて、たまらなくなる。
こんなかわいい息子たちとの思い出を、忘れるわけにはいかない、って。



古賀さんはいわく、エッセイは「感情的文章」ではなく、「感覚的文章」だという。

「楽しかった」とか「うざい」とか、自分の喜怒哀楽ばかり書き連ねるのは、「感情的文章」。
エッセイではない。

「エッセイ」は、もっと五感を使う。
五感を通して「わたしの見たもの」をていねいに描写し、わたし自身とも距離をとって、観察し、そのまま書くのだそうだ。


この「感情的文章」と「感覚的文章」の話は、いつも頭の片隅にある。

だから時々、
「育児もうやだー!」
「つかれた!」
「夫!もっと家事やれよ!」
などと暴走的な感情に飲まれそうになっても、「今書いても、感情的文章にしかならないな」と一息つくことができる。

観察者としての落ち着きが戻ってくるのを待ち、すこしでも「感覚的文章」に近づけるように、目の前のことや、心の水面を淡々と観察して、言葉を探す。

◇◇◇

我が子に「巻き込まれた」ときのことを綴った記事が、わたし自身はけっこう好きだ。

これらの記事には、有益な情報はひとつも載っていない。
便利なグッズも、ウケたおもちゃも、おすすめの絵本も書いていない。

うちの子にしか当てはまらない出来事かもしれないし、育児をしていない方にとっては「だから何?」とおもうような内容だろう。

それでいい。
そう思って、書いている。

ただわたしは、そのへんに転がっているエピソードを、なるべく詳細に書いておきたいのだ。

どうやらわたしは、そういうのが好きらしい。


「エッセイ」が「巻き込まれ型の文章」なら、その反対は何か。
古賀さんいわく、「コラム」である。

自論を展開し、論理的、客観的に世間に切り込むコラムは、読み手を「巻き込む」。
あるいは、コラムとまではいかないけど、役立つ情報系の記事も、「巻き込み型」の仲間かもしれない。


どちらが良いというのは、ない。
ただ、わたしは「巻き込まれ型」の方が書きやすいようだ。

読んだ本を要約するとか、教師として今日の学校教育について述べるとか。
そういうことは、得意ではない。

目の前に広がる日常の断片。
あるいは、わたし自身の記憶のカケラ。
そういうのをつなぎあわせて書いた、何の役にも立たない2000字。

そういう記事を、書いていきたい。


すこしずつ、書けない期間が去ろうとしている。
またきっと、書けるようになる。

今は目の前の子どもたちを観察し、わたし自身を観察して、書きたいエピソードを書いていこう。
きっとそれが、宝になる。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?