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親の下心ありきでは、子は本を読まない。


むかし、母が「これ読みな」と買ってきたのは、『ハリーポッター』の第1巻だった。


まだ、映画化もされておらず、流行りはじめたばかりの頃だ。
わたしの周りでそれを読んでいる人はいなかったし、黒くて分厚いその本を「読んでみたい」とはおもわなかった。


母はその頃、英才教育っぽいのにハマっていて、やれ天声人語を書き写せだの、洋楽を訳せだの、とにかくうるさかった。

『ハリーポッター』も、どこかで「コレを読ませるべき」だと聞いたのだろう。
「ここに置いとくから」と、わたしの部屋の小さな本棚に、分厚いハリーポッターを押し込んで、去っていった。

数少ないお気に入りの本や漫画にならぶ『ハリーポッター』は、異質で、不気味で。

わたしは、それから数年後。
映画版ハリーポッター3でシリウス・ブラックを好きになってから、ようやくわたしはその本に手を伸ばした。
それが「自分で読もう」とおもえた瞬間だった。



親の「本を読め」ほど、子どもを読書から遠ざける言葉はない。


純粋に「これ読んだけど、めちゃくちゃおもしろかったわ!」というのなら、話は別だ。

お母さんも、本好きなんだ。
お父さんのおもしろかった本、読みたいなあ。
そんなふうに、思うかもしれない。


しかし、「読めばためになる」とか「おもしろいらしいから買っといたよ」とか、そういう下心丸出しの言葉の意図は、子どもに全部バレている。

わたしも母が『ハリーポッター』を勧めてきたとき、「そんなにおもしろいなら、自分が読めば?」とおもった。

こわくて口が裂けても言えなかったが、その頃の母が押し付けてくるすべては、「じゃあ、あなたがすれば?」と思うことばかり。
母が取り組んでいないのだったら、それはわたしに「させたいだけか」と思うだけ。
ありがた迷惑な、おせっかいだった。



本を読むおとなが、近くにいなかった。

わたしの人生で「ああ、この人は本をよく読んでいるんだなあ」と思った大人は、夫くらいだ。

そんな夫も、大学生まではまったく本を読まなかったらしい。
幼少期も、「本を読め」なんて言われたこともなかったそうだ。
みんなと同じように漫画を読み、活字に触れず、大人になってようやく「本を読んでみよう」と思ったという。


夫の母、つまり義母も本が好きだが、「本がお好きなんですね」と声をかけると、首を横に振って笑った。

「やることないから、読んでるだけよ」。

昔はぜんぜん読んでなかったわよ、と言いながら、当たり前のように暇な時間に読書をえらぶ義母は、本との距離が近いとおもった。


夫は、義母の勧めで読んでいるんじゃない。
自分で「読もう」と思ったから、読んでいる。
自分の意志で、読んでいる。
でもその背景には、義母と本の関係も、少なからず影響している気がする。
義母は、何にも言わないけど。



余計な言葉はいらない。

親はつい、子どもに読書家になってほしくて、あれこれ買って、勧めてしまう。
でも、「本好きの子」を育てるための本には必ずといっていいほど書いてあるが、「そう思うならまず、親が読め」である。

親が本をいつも読んでいて、当たり前のように家に本が並ぶ。
休みの日には図書館に行き、お金があれば書店に向かう。
かばんにはいつも本を入れておき、隙間時間に本を開く。

そんなすがたが身近にあったら、そりゃあ子どもも本を読むだろう。
夫は、まさにこんな感じだ。
そしてわたしも、いまようやく、本を生活に取り入れられるようになってきた。


息子たちが、本好きになるといい。
息を吸うように、本を読むといい。

それは、わたしがそうなればいいと願う家族のすがたでもあるし、わたしが目指す「生き方」でもある。


これから、人生がまだまだ続く。
その傍らに、いつも読みたい本があったら。

「今夜はあれを読もう。」

そう考える時間が、きっと毎日をときめかせてくれるだろう。


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