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「終わり」を迎えたから、書きたくなる。


なんで幼少期のことばかり書きたくなるのか、わかったかもしれない。

島田潤一郎さんの『長い読書』を読んでいて、
こんな一文に目を奪われた。

「なにかが終わったと感じたときに物語は立ち上がるのです」

同書、p.87



この「終わったとき」の例として、本では身近な人の「死」が挙げられている。
その人の人生という物語が完結したからこそ、それを誰かに伝えたい、知ってほしいとおもう。
だから、書く。


でも、だれかの「死」以外にも、「終わった」と感じるものは、いくつもある。

たとえば、今日という一日。
あの日の自分。
何かをやり遂げたあと。
受験、離職、恋愛、結婚、出産、夫婦生活、子育て、別れなどなど。

ひとつ区切りがついたことで、それを俯瞰して見つめられる。
すると、だれかにその物語を聞いてほしくて、書く動機と意欲がわいてくる。


わたしの場合、「終わり」を迎えたからこそ書けると確信できるのが、「幼少期」だ。

わたしは35歳になった。
子ども時代は、すでに結末を迎えた。
どんなに頑張っても、35歳のわたしに幼少期が再びおとずれることはなく、過去は永遠に過去のままだ。


そして、あの頃のわたしは「子どもだった」と、眺められる。

「子ども」という括りに入れてしまえば、あの頃のわたしがどんなに浅はかで、単純でも、「子どもだったからだ」と受け入れられる。
自分のなかで、許してやれる。
認めてやれる。

そして、その時代は完結した。
だから、書ける。
「終わった」から、書ける。

幼少期を過ごした家族と、いま一緒に暮らしていないのも大きいだろう。
父と母と、弟と妹。
あの家族と暮らした物語も、わたしの中ではやはり「終わった」物語なのだ。


ところが、である。
幼少期同様、過ぎ去った過去であるのに、「書けない」時代も存在する。

それは、ネット上に晒すと身バレするから書けないとか、そういう話ではなく。

文字どおり、「書けない」のだ。
筆が進まないのだ。
高校の部活、大学生活のサークルや勉学、恋愛から逃げてばかりいた若い日のわたしなど。
書けないことは、いくつもある。

それらはきっと、わたしの中で、「終わって」いないのだ。

その時代のわたしは、「子ども」でもないくせに、弱くて醜く、愚か者だった。
いつも逃げてばかりで、言い訳がましく、傲慢で、自信がない。

そのときのわたしのことを、わたしはいまだに
許せていない。
受け入れられていない。

なんなら、その頃の自分と今の自分は、まだつながっている気さえする。
弱い自分が、変わったとはおもえない。

わたしが自分の弱さと戦う物語は、まだ完結していないのだ。

だから、書けない。
「終わっていない」から、書けない。


いつか、書ける日が来るのだろうか。

高校の部活で、横暴な態度ばかりとった自暴自棄なあの日のわたしを。
大学生活で、友だちにイヤなことばかり言った愚かなわたしを。
恋愛するにはふさわしくないと、自分に言い訳ばかりしてきたわたしを。

書けるようになったとき、わたしはわたしを認められているんだろうか。
あの頃のわたしは「終わった」と、自分を受け入れられるのだろうか。
それとも、そんなわたしもまるっと含めて、許してやれる日が来るのだろうか。

分からない。
でも、あと何年後かには、こんな自分の心持ちが、すこしでも変わったらいいなとおもう。

たとえ「終わり」を感じなくても、自分をそのまま書けるような日が、きっと来る。
来ると信じて、その日まで。

書けることは、山ほどあるんだ。
今はまず、「終わった」ところから、わたしの物語を紡いでゆくのだ。



島田潤一郎さんの本を読むと、心が静かに波打って、昔のわたしをじっと見つめられる。

まだ『長い読書』は読みかけだ。
今夜、続きを読むのが、とても楽しみ。


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