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能登地震に心を痛める私の分析とその対処【今日も平和とは言えない世界で私達はどうあるべきなのか】


2024年1月1日、能登地震があった。
一番揺れた場所では、震度7とか観測する大きな地震だった。

揺れが起こった時、私は地震と全く関係ない場所にいた。
微塵も揺れなかった。
ただ地震速報の音をテレビで聞いて、津波注意報を見て驚き、ぽかんと口を開けてその映像を見つめていた。

でも、怖かった。
それは、現地にて怖い思いをしているだろう人達の状況が

・具体的に、
且つ
・(どれだけその割合が微かであったとしても)実感を伴って
想像できたからだ。

彼らの状況を私がこんなにも想像できたのは、
((いや、現地で体験した人らと比べたらもちろんクソちっぽけな想像なのだろうが)

・石川に住んでいる、私が生きる上で超大事だと認識してる友達がいた
・東日本大震災の時関東に住んでいた私は、当時小学校低学年で震度5くらいの揺れを経験しており、断片的な記憶でしかないものの、揺れで自分が物に捕まっていないと立っていられない状況、鳴り響く警報、物が落ちる音といった、心から怖いと思った記憶があった。震度7がそれよりやばいことだけは分かった
・何より、同じ事が自分に起こってもおかしくないという意識がある。(海が近い場所に住んでいるし、生きてるうちに南海トラフ起こるだろうなと想像した事が何度もある)

とかいう、自分と親近感を感じる要素が多かったから。

距離の近い物だったから。

自分ごとだと感じたから。

つまり、平和とは言えない世界の一部だとか、何かの社会問題だの状況だのに対して、
どこまでそれに怖いと感じたり、これではいけない/助けたい/自分がなんとかしたい/協力したいと思えるかどうかは、

自身とどれくらい近い存在だと感じるか、
どれくらい同類/仲間と感じるかにある。
と今の私は思っている。


何が言いたいかと言うと、
能登地震以外でも今誰かの助けを必要としている人など世界には山ほどいるが
どこまで慈悲の心を持つか、どこまで自分の力を借してその人達のために行動したいと思えるかは
実感や知識としての共感度の度合いによるということだ。

その、山ほどいる “今誰かの助けを必要としている人" と私はどう向き合うべきなのか。
数年来考えてきた事なので、
この地震をきっかけに整理された思考、今しか頭に浮かんでこないだろう考えをバッと言葉にして一つの記事にしてみる。

まあ私からすると、
ただのメモ書きみたいなもん。



世界で今ヘルプを必要としている人なんて山ほどいる

残念ながらこの世界は基本的に、
全てが100%うまく行っていることなどあり得ない。
助けなきゃいけない状況にある人なんて山ほどいる。

例えばイスラエル、ガザ地区の戦争。
私は映像を見ても、ある程度の想像しかできない。
行った事がないし、似たような経験をした事がないから。実感を持った具体的な想像ができない。はっきり言って親近感が湧かない。(これを言うのはちょっと悲しいけれど)

多分実際に現場に行かないと分からないような事が沢山あるはず。
私が今、考えられるだけの予想やイメージを絞り出して挙げてみるだけでも
・死が隣にある雰囲気
・敵がそこにいて隠れる術や身を守る術がない無防備な感覚
・これからどうすればいいのか分からない不安など
・知り合いや誰かが亡くなっていったり、近くのよく知る建物が攻撃されるだの失くなっていくだのの実感
とこんなにある。
本当にこんな感じなのかは分からないけど。

じゃあどこまで助ければいいのか。
今世界で起こっている戦争は、イスラエルやウクライナだけじゃない。

良く知られていない紛争地域で、
いつものごとく自らの命を明日まで繋げられるかかレベルで苦労している人たちなどたくさんいる。(繰り返しですみません)


余裕がある人は力を貸すべきなのか


先進国に住み、
何不自由ない生活をしているような人々は
力を貸すべきなのか。
力を貸す事が "正しい" のか。

これは難しい。
なぜならボランティア精神みたいなところがあるからだ。

私に言わせれば人は基本、
自分の得になるようにしか動かない。
人間なんて皆んな自己中である。(別で記事書けちゃう)

人のためを思っていても、その人の心身の健康が、その人の存在が自分にとって必要だから。自分の価値を認識するためにその相手が必要だったからだったりする。
私が友達の体調不良を心配するのは、その友達が辛い思いをしていると想像したくないからだ。だってその友達が私の生きがいだから。

話が逸れた。戻ります。
「ボランティア精神」についてもう少し話したい。

話をわかりやすくするために、身近な例えをする。
例えば団体でご飯を食べに行ったとしよう。
ファミレスなんかに5〜6人で。
そうしたら、壁側にメニューやスプーン、フォークを置いていたりするだろう。
その壁側、奥側に座ってる人が、それに届かない通路側にいる人に必要なものを回す、と言う光景を想像しよう。

私は、さっき出てきた「余裕のある人が力を貸す」というのはこれと同じような構図だと思う。
少しわかりづらいだろうか。

極端だが、
スプーンやフォークが足りていない人が戦争地域で不自由な生活を強いられている人々、
スプーンやフォークが必要以上にあるところに座っている人が何不自由ない生活をしている先進国側の人々だ。
極端だが。

余裕があるなら力を貸すってこういうことだと思う。

このボランティア精神度合いは人による。
別にやらなくてもいい。何も悪いことはしていない。自由選択だ。というのが今の私の考えだ。

私が余裕のある側なら、力を貸せる人間でありたいと思うが、
別にそうでない人間というか、その度合いが低い人間がいても別に良い。私には彼らを責める権利はない。それは私が決めた「正しさ」の基準を押し付けることになる気がするから。

ここまできて私はいつも、下記の疑問にぶつかる。
力を貸さないことは無慈悲なのか。
力を貸せない私は無力なのか。


無慈悲ではないし、無力でもない

まず無慈悲から。

今能登半島をほぼ気に留めずに生活している、
私と同世代の大学生がいたら
彼らは無慈悲なのか。
(感覚でしかないデータなので大きな声で言うのは気が引けるけれど、確実に一定数いるだろうと思っている)

それは違う。きっと彼らには想像があまりつかないだけだ。

私が中学生の時、熊本地震があった。
その時の私だって東日本の時の記憶はあったけれど、
現地の人の様子なんて、ニュースを見ても全然実感として想像できなかった。

今の能登地震で見てるニュースの映像ときっとさほど変わらないようなものなのだろうが、
それに付随する知識や経験がなかった。

例えば当時は簡易トイレがどんなものか想像がつかなかったし、
城が壊れた様子を見てもその城の大きさや存在感の想像が感覚としてできない、
避難所にいる方が感じているであろう余震が繰り返される不安も想像がつかない、
プライベート空間の足りなさ、家族や友人の安否がわからない不安さも。

なぜなら簡易トイレを見た事がないから。
城を見た事がないから。
先が分からない、明日の生活が分からない不安を長い間感じた事がなかったから。
プライベート空間がなくて苦しんだ経験も、誰かを心配して眠れない夜も過ごした事がなかったから。


その地震やら戦争やらなんやらが、
どこまで身近で
自分と関わる親近感を感じられるものだったか、
というだけの話だ。

それを想像できなかった者が無慈悲ではないし、
それが悪いということには全くならない。

だって私は、今回の能登地震で
少しでも水や食料を届けてほしいと、
きっと寒いだろうし不安だろうしストレス半端ないだろうし
少しでも早く温かい安心できる快適な生活を多くの人にしてもらえるようにと願いながら
寄付をというものをしたが、
ロシアとウクライナの戦争に関しては何もしていない。

知る努力を少ししたくらいで、
身のある協力は何も協力していない。
申し訳ないけれどはっきり言ってそこまで私の心は動かなかった。いや、動かさなかったと言ってもいい。

数年前、私が高校生だった頃、世界平和について考えいた時期があった。(いや何それ)
その時、世界の至る所で不自由を感じている人々や、色んな社会問題を考え洗い出し、その原因や解決策を考えようとしていたが、

そこまで身を削って想像を膨らませ、データを集めようと現状を知ろうとリサーチしていると、あまりにも悲しくなってくる。
どんな場所に住んでるかも分からない、話したこともない、どんな人間かも知らない世界のどこかにいる人の苦しさを考えて続けても、
体力を使い過ぎて私は潰れてしまうから。


さっきの、店のスプーンフォークを回す話があったが、
もし体調が悪いのならそんなの回す役に回らなくていい。他の人がやるから。
やり過ぎなくて良い。貢献し過ぎなくて良い。
ここで一度休んで誰かに任せることを自己中とは言わない。そういうことだと思う。(え、これ伝わる?伝われ)

今の生活に必死なら、余裕がないなら無くなるなら、能登地震のことなんて考えなくて良い。


次、無力なのかについて。

ガザの人々の助けになれなかった私は無力か。
今もそこで苦しんでいる人がいるのに、何もできない私は無力なのか。
その無力さを感じて悲しくなってた時期もあった。
てか今もなんかそれ感じちゃう。

が、今の私は、
自分が無力なはずがないとはっきり言える。

なぜなら私は、
ウクライナに支援物資を送るほどの財力や人脈はないが
大好きな友達が例えば近しい人を亡くしただの、癌になっただので大きくheartbroken してしまったなら、
ただその子の隣にいてその心をゆっくりと癒す力になれる自信がある。少なくともその一部に。

なぜなら私は、心身共に健康に生きるにはたくさんの助けを必要とする祖母の面倒を、立派に見る事ができる。その経験がある。

だから私は無力ではない。

私は神じゃない

私はこの世界の不具合全てを治す能力など持っていない。
当たり前だ。
だってこの世界を構成してるたった一部だから。

戦争やら自然災害やらの、
この世界が負ってしまった大きなタスクは、
ちっぽけな個人の人間が、その集団が、組織が少しずつ力を合わせて、
一部だったものを大きくしないと現状を動かす力にはならない。

そのために組織がある、人間は組織を作った。
学校だの、会社だの、NGOだの、国の各省庁だの、国際連盟だの。
私たち個人と組織とを繋ぐ手段は、
私たち個人の願いや気持ちを大きな力の一部にするための手段は、
幸いなことに、この時代いくらでもある。
だからそれを一つ一つ活用していく他ない。

私は無力じゃないし
無慈悲でもない。

寄付を促すストーリーのシェアをするのにすごい勇気がいるのはどうして

なんかまた新しい話をし始めるが、
多くの人に簡単にできる寄付の存在を知って欲しくて
私はそのURLを自分のインスタグラムのストーリーにシェアした。

私はこう言うのをするのにすごく勇気がいる。
「今これを色んな人に知ってほしい」と思う情報なんて毎日のように沢山出会っている。
でも、今までに実際シェアしたのはほんの数回。

なぜか。

まずひとつに、世界を変えたいと思ってる私が恥ずかしい、烏滸がましいと思っているところがある。

多分私のフォロワーにいる大多数の人は、
ガザの紛争について真剣にその原因やカラクリを考えようとしたことがないと思う。
私も十分考え抜いたとは全く言えないが(メガホンで言いたい)

だからこそ、理解されない相手も多いだろうと思っている。

なんか、「この人何言ってんだろーすげーなー」的な感じになるのが嫌で。
なんか、私自身のいわゆるボランティア精神に自信がないのだ。うーんうまく言語化できない。

ちょっとここはまた後日考えます。
まだふわふわです。

ふたつめに、相手が誰であれ、
相手に寄付という行動を促すのもおこがましいと思っている私がいる。

私はそのURLをシェアする事で、
そのストーリーを見る人間に行動を起こさせようとしている。
そういう、他人が自ら行動を起こすようにさせるほどの影響やパワーは相当な力だと思う。

シェアしたい情報が
寄付はきっとプラスだろうというその判断が
十二分に正しいのか自信がない。

例えば今回の募金なら、
その責任が確実に絶対に私にあると言い切るだけ、私は募金のシステムを理解していないと思っている。
(ある程度知識として流れは分かっているつもりだけど、実際そのお金が最終的にどう動いているのかなど実感で理解した経験はない)

でも100%なんてない

こんな時代、特に
デマかどうかなんてわかんない。
公式ページ以外何もわからなくなってしまう
なんなら公式ページっぽいのも公式ページなのか危うい。

本名や社会活動で使っている名前だったり、どんな社会活動をしている人なのかをプロフィールに色々書いていて、
もし間違った情報を発信していたら責任を追及されるくらい明らかなプロフィールで、

且つある程度活動歴があって、
フォロワーも多い人なら
確実に偽物じゃないと言えるだろうか。

きっと偽物じゃないだろうと判断して
リポストすることしかできない。
だから難しい。

こいつらとどう向き合うかは追々考えるー。笑

後記

今の私は、きっとここ数年で一番余裕があるのだろうと思った。  
なんかここ数年色々あって私としては人生トップ5に入るだろう思うくらい大変だったので。
(まだ人生の1/5くらいしか生きてないかもしれないですけど。)

このようなことに打ちのめされて耳を塞ごうとするのではなく、ちゃんと気がかりになって頭をフル回転にして考えているのだから。
数年ぶりにフォークスプーン回してる私にびっくりしてる。私すげえ。

日々生きていて色々なストレスやうまくいかない事、考え事で頭がいっぱいになった結果
何をする気力も意欲も起きない様な、
どこか遠くに飛んで行ってもう戻ってきたくねえ!とかいう気持ちにもなるが、
私は少しずつうまく生きれるようになっているのかもしれない。偉過ぎて泣ける。


それから最後に、
今も世界では良いことだって起こってることを忘れないでいたい。

今、きっと誰かがものすごく幸せな結婚式を挙げている。自分がどれだけ沢山の人に幸せを願ってもらってるのか気づいて、感極まっている人がいる。
今、きっと起業してから長い間奮闘してきた誰かの夢が叶って、業績を上げている。ずっと作りたかった世に出したかったあの商品の商品開発ができるかも。
今、きっと誰かが夢に見ていた大好きな大好きな推しに会えて、「生きてて良かった」と心から思っているはず。

これを読んでいるあなたも今日、
いつも通りの1日だったかもしれないが
ほんの少しだったとしても良い、小さな幸せは感じたはず。(と願っている。)
ご飯が美味しいでもいい、
取り込んだ洗濯がいい匂いだっただけでもいい、

無理にポジティブになる必要はない。
むしろなってはいけない。
マイナスの感情を無下にしてはいけない、ちゃんと噛んで消化しないとダメだ。
ただ、その幸せのエネルギーを感じ取ることは、今避難所で心細い不安な毎日を送る人々がいるからこそ、大事だ。(伝われ)

ハリーポッター最終巻の死の秘宝でヴォルデモート(敵)がほぼ復活して、
魔法界全体が、いや人間界もが暗闇に包まれそうになり、
誰も信じられなくなるようないつ投獄されるか分からないような時代に、
ビルとフラー(もう理解するのハリポタ知ってる人だけでいい)が敢えて結婚式をあげた、
それが大事なのと同じだ。

(最後説明荒すぎて草)

今回の記事は、私が自分に言い聞かせたいことばかりでしたー。


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