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なるようになるようになる

努力するのは嫌いじゃない。

昔から、いろんなことを長く続けてきた。小学校に入って間もない頃に始めた空手は中学3年まで続けた。ピアノも4歳の時に始めて小学校6年まで習い、なんとなく今でも続けている。やらされていた感はあまりなく、自分で突き詰めていく感じが好きだった。

勉強もそうだ。できない方の人間ではなかったが、特別できるわけでもなかった。数学とか英語とかはコツコツやっていく感じがあったから頑張れた。そういった意味で勉強は好きだった。自分にとって勉強は、空手やピアノを続けることと大して変わらなかった。ただ、勉強にはゴールがところどころにある。最初のゴールは高校受験だった。中学3年になると同時に受験生となり、志望校合格に向けてよりいっそう勉強し始める。ゴールという結果が求められる。

そういう結果を求められる努力が嫌いだ。
努力なんてものは自己満足である。努力することに面白みがある。結局は個人の所業だ。それなのに、勉強となると結果が前提となって現れる。問題なのは、勉強が青少年期の中核を成し過ぎていることだ。それ故に、周りからの期待と自分の設定したハードルを乗り越えなくてはならない。ただやりたいことをやっているだけなのに。青少年期における勉強なんて、所詮上手に生きるためのツールに過ぎないのだ。

かといって、反権威主義的に勉強から逃げたわけでもなかった。普通にツールとしての勉強をこなし、そこそこの高校、大学に入った。少なくとも、普通の公立の中高だった私の周りでは「頑張って勉強して良い偏差値の高い学校に行く」というのがごく普通の考え方だった。そうやってレールに敷かれて生きてきた。

自分にとって高校、大学受験は、今思えば納得のいくものだった。当時は実際に入った高校・大学よりもレベルの高い学校を志望し結果的には落ちたという形で終わったが、入学してからの生活や環境を顧みるとそれぞれほとんど同じようなものだった。同じような人間が集まり、同じような場所を志望し、結果的に同じような場所にまた集まる。その繰り返しだ。

結局は「なるようになる」のかも知れない。
エリートはエリートの環境で育ち、次のエリートの環境へ移行する。普通の人間は普通の環境へ落ち着く。中学時代、猛勉強の末に後期入試で偏差値の高い高校にギリギリで滑り込んだ友人は、入学後に赤点量産機となり同じ大学で再会した。もちろん、その環境で死ぬほど努力してその後もエリートコースに進む者もいる。環境は人間を作り変えうる。だが、そんなことができる人間は限られていると思う。

だから私は、「なるようになる」ようになる人生を選ぶ。
無理に環境を変える必要はない。自分に適した環境で、相応の労力で生きていく。それが一番楽だ。自分の経歴・学歴に対して、多少のコンプレックスを抱く人は少なくはないだろう。私もその一人と言える。だが後悔はない。それらの環境が自分に一番適しているからだ。

大学に入って、勉強がよりいっそう好きになった。大学という環境では、勉強はツールとしてではなく自己目的化されている。結果が求められない勉強ほど楽しいものはない。どうせなら博士課程まで進んでみたいものだが、勉強にもコストがかかるので生活のためのツールとして仕事をすることにする。勉強は消費に回す。それでいい。



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