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初めて終わらないでと願った 映画『スウィング・キッズ』感想

『スウィング・キッズ』という映画を渋谷で観た。映画を映画館で観るのは久方ぶりだった。新型コロナウイルスが一時収束したかのように見えた、6月の束の間に。

※ラストの描写はありませんが、若干のネタバレを含みます

舞台設定(あまり読まなくていい)

 舞台は1951年、朝鮮戦争で揺れる韓国の離島、巨済島。そこには、ジュネーブ条約に基づき捕虜の人権保障を掲げる、米軍の戦争捕虜収容所があった。同じ民族のなかでも、共産主義と資本主義に分かれ、いがみあいながら暮らしていた。
 ここまで読んでみると、戦争の話かあ、なんだか気が重いな、とかまえてしまう。私も、かなり昔に観た『プライベート・ライアン』や『火垂るの墓』は、もはやトラウマといってもいいレベルにまで自分のなかで昇華している。思い出すだけで途方もなく、涙が出てしまいそうになるが、まあ話を聞いてほしい。

この映画は「戦争映画」ではない

 脱線してしまった。解像度を下げて要点をまとめると、「戦争の混乱下」で、「米軍の庇護のもと」「同じ民族が思想の違いで二分」されながら、「衣食住最低限度の生活を何不自由なく送っている」という感じの背景をわかってもらえればいいと思う。
 主人公のひとり、北朝鮮兵のロ・ギスはその共産主義(アカ派)のなかでも、先の戦争で大きな戦果を立てた英雄を兄に持つ「英雄の弟」として同士からの信頼も厚い。挑発的な態度で米兵とよくトラブルを起こす派閥の中心的存在の少年だ。
 そんな彼がある日、米軍の黒人兵士で元タップダンサーのジャクソンのタップダンスを目にして、少年は人生で出会うはずのなかったダンスの才能を開花させていくのだ。

ダンス最高~~~~~~~~!

 能書きを長く垂れたが、この話のメインテーマはずばり、「ダンス最高~~~~~~!」である。急に語彙力が低下してしまったが、そうとしか言えないのだ。
 ロ・ギス少年にとって、タップダンスは憎むべきアメリカの文化。愛国心の高い彼は戸惑い葛藤し、同士に隠れながらも、踊ることへどんどん引き込まれていく。
 踊っている間は国や思想、すべてに縛られず自分は何者でもない。
 そう、作中皆タップダンスに触れたものは、踊らずにはいられない。踊っている少年の姿は楽しさが弾け、喜びに満ち溢れている。観ているこちらも気づけば暗闇のなかで、その真剣かつ自然に溢れる笑みと同じ表情をしていた。

宇宙いち自由なタップダンスチーム

 並行して物語では、米軍の「世界いち自由な捕虜収容所」を謳うためのイメージアップ施策として、ジャクソン監督による派閥を超えたタップダンスチーム設立の話が持ち上がる。 
 かくして、年齢も国籍も境遇もバラバラなタップダンスチーム「スウィング・キッズ」が結成された。
 メンバーを紹介しよう。
 振付が天才的な太っちょ中国人、兵士と間違われ嫁と生き別れになった民主主義派の韓国人、家族を養うため収容所へ通訳に来ている地元韓国人の女性。
 当初ロ・ギスは、練習場所になっていた講堂をぶっ壊し修理を命じられ、チームへの嫌悪感丸出しでその場に居合わせているだけだったのだが、ジャクソンの圧巻の踊りを見せつけられ、煽られるようにその輪へと加わっていく。
 自分の居場所を守るために踊ることを決めた3人のメンバーと、自分の主義を守るため踊ることに葛藤を抱きながらも踊りに惹かれていくロ・ギス。皆、踊ることで、立場や思想に縛られない、どこにも所属しない自分そのものの自由を経験し獲得していく。誰もが時代に翻弄され続けるなかで、一人ひとりが痛感した自由をかき集めたら、このチームはさしずめ、宇宙いち自由なタップダンスチームだと思う。

踊りで勝負よ!

 前半、大体のことは踊りで解決する。
 そのなかでも、私がとっても好きなシーンがある。ロ・ギスが、犬猿の仲だった若い米兵たちに倉庫で囲まれてしまい、あわやピンチ。そこにチームが助けに入り、猛練習を積んだ駆け出しタップダンサーズのスウィング・キッズ対若い米兵でダンスバトルが勃発するのだ。
 そう、言葉がわからなくても踊ればなんとなくわかるし、いけすかない奴は踊ってぶっ飛ばせばいいのだ。
 軽快な韓国の歌謡曲やアメリカっぽいごきげんなナンバーに乗って、ミュージカルのように痛快に描かれるシーン。たのしい時間だ。たまらない気持ちでにやけが止まらない。首が動く。右膝が上下にリズムを刻んじゃう。
 ピンチを救おうと颯爽とスローモーションで登場するチームの格好良さ、異なるダンス同士で掛け合っていく様。踊って宇宙の危機を解決しちゃうゲーム『スペースチャンネル5』や、『少林サッカー』に通じたバカっぽい格好良さというか、人間の営みのなかで必ず生まれ続ける底抜けの明るさが私の胸をすく。
 すっごく楽しかった。もう一回あそこだけでも観たい。

Longing of Carnegie Hall

 この辺りから、「こんなことやってなんになるんだよ……」と、なかば腐り気味だったジャクソンも、公演を成功させ家族の待つ沖縄に栄転するため、そしてチームの皆、そしてロ・ギスの天才的なセンスに触発されて前向きになり、徐々に絆を深めていく。ジャクソンも戦禍で夢を絶たれた。しかし、タップダンスの聖地でもあるマンハッタンのコンサートホール「カーネギー・ホール」で感じた観衆の熱い視線・熱狂・賞賛を、いまでも少しずつ胸の奥で静かに燃やしていたことを、ロ・ギスにだけ明かす。言葉が通じないのにも関わらず。

「ふぁっきんいでおろぎー」

 作中、多くの関係性が描かれる。民主主義と共産主義、白人と黒人、捕虜と兵士、国籍、民族間のいがみあい、勇敢な戦士と裏切り者、男と女、家族がいるものと失ったもの……。ぜひ観る機会があれば注目してみてほしい。登場人物は多くはないが、あらゆる人間があらゆる立場から描かれ、物語が高くたかく燃え上がっていく。
 後半、前半とは対照的に主人公たちは踊りではどうにもならない大きなうねりに巻き込まれてゆく。
 ロ・ギスの立ち位置も、どんどんと彼の足元のほうから変化していく。自分の愛国心という唯一のアイデンティティのために、同士に自分が踊っていることをひた隠しにしてきた彼は最終的に、家族のために、一度きりの舞台へと踊り出ることを余儀なくされてしまう。
 しかし、忘れてはいけない。この丁寧に描かれる数々の対比や関係性のコントラスト、作品をつねに覆うスモッグのような閉塞感。それを尽く、徹甲弾のように、すべてぶち抜いて行われる唯一の行為が、ダンスなのだ。
 前半の盛り上がりは後半への布石、最後まで完走するための片道分の燃料だったのだな、と今になって思う。
 あまねく人間に人生の終わりが備わっているように、ダンスにも終わりがある。
 それは私たちの人生よりもちょっぴり早い。
 しかしだからこそ、放つ輝きはいとおしく、むちゃくちゃに泣いちゃうくらいに眩しい。みてほしい。スウィング・キッズ。時代に踊らされた人間たちが、ひとときの自由に踊り狂う熱を感じてほしい。永遠の刹那を願ってほしい。一瞬の尊さに呑まれてほしい。

 私はまだ、しばらくは観たくない。
 一度ダンスを踊りはじめたら、いずれ終わっちゃうことがわかったから。

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