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月並みではございますが

最近、夫婦喧嘩をした。

 争点となったテーマは「家事・食事・我が家の経済」について。

 皆様がご存知の通り、この手垢にまみれた議題は、数えきれないほどの関係性に軋轢を生んできた。その認識で間違っていないはずだ。……え、そうですよね? 不安になってきた。
 かくいう私も、そうした争いは自分の育った家庭を筆頭に度々目にしてきた。だから概要や概念というか、「側(がわ)」の部分は知っていて、大体の感想はすべて「しょーもな」という点に帰結していた。
 しかし、うちの人と出会ってはや7年、結婚して2年と少し。同テーマで我々のなかでここまで重篤なトラブルが起きたのは今回が初めてだ、と思う。

 当事者の身になってはじめてわかったこと、それは、「自分の主観を伴うだけで、こうも新鮮味があり腹が立つのか」。この一点に尽きる。
 さいわい一面焼野原になるような事態は避けられたが、今回はこの「しょーもな」のなかで何が起きていたのか、なぜ私は当事者として「めっちゃ腹立つ」体験をしたのか。最近読んだ本や漫画の内容を交えながら紐解いてみたところ、この戦いはどうやら、分厚い面の皮の下で眠る、私の「自己肯定感」が深く影響していたことがわかった。

MECCHA HARATATSU
~非常事態がもたらす小さな安寧と暗雲~


 ことの発端は、梅雨が終わる気配をなかなか見せない7月の中旬だった。私の日常に変な閉塞感が帯び始めた。
 この頃、私の職場では新型コロナウイルスの感染防止策として、交代勤務を行っていた。その関係で、週の半分は自宅待機となっていて、すでに完全リモートワークへと移行していたうちの人と、たくさん過ごす時間ができた。
 生活の色が変わった。この非常事態は皮肉にも、ふたりで日常のささいなことに目を向けて楽しむだけの時間をもたらした。これは我々の情緒を多いに安定させた。
 そして家にいることで、今まで休日に半ばやけくそに済ませていた家事を、まともにやれるようになってきた。ひとつひとつが整っていくのは、非常に気持ちがいい。ここまではよかった。
 しかし徐々に私のなかで、なぜ家事をするのか、その意義に変化が訪れていた。今だからこそわかるのだが、自分の生活を快適に過ごすためでなく、「夫」の生活を快適なものにするために自分を役割付けるようになっていったのだ。
 主観不在の行動は、徐々に毒をはらんでいく。その証拠に、次のような気持ちが私のなかで徐々に溜まっていった。

この怒りがすべて石油ならいいのに じょばを


 しているときは気持ちがいい。献身は空っぽな自分の意義を満たすものだ。
 しかし問題はそのあとで、働き者の自分を見ているカメラの視点に映りこむ、ピントの合っていない相手の姿に目が行ってしまうともうダメ。「私は二人の生活が保たれるよう気遣い努力している。どうしてその努力の理由を知ってなお、あなたはそんな態度ができるのだろうか」と鋭い視線を送ってしまう。溜息なんてついちゃったりする。本当はそんなこと一切したくないのに。折角の時間を、笑顔多く過ごしていたいのに。
 「自分はこんなにしてあげているのに、なんて思うくらいならやらなければいい」。知っている。実家のトイレで尻丸出しの私に、日めくりの相田みつを先生が毎月諭してくれたこの教え。何回心のトイレにこもって文字列をなぞっても、油田のごとく怒りが込み上げてくる。偉大な教えに大人しく従う私ではなくなってしまった。そんなことわかってんだよこっちだってよお。
 私はかたくなに、この怒りを単純に片づけてしまいたくなかった。
 どうしてなんだろう。

 毒親をテーマにした実録エッセイ『母がしんどい』の著者で知られる漫画家・田房永子さんが、まさにこの感じを漫画『大黒柱妻の日常』で取り上げていた。

『大黒柱妻の日常』田房永子
第17話「頼んでないし」と平気で言う男たち(cakes)
https://cakes.mu/posts/31057

 私の家事に向かう気持ちを理解して、できないならできないなりの代替案を差し出してほしい。
 私の気持ちを置き去りにしないで、拾い上げてほしい。私たちは家族だから助け合うけれど、私は夫のお母さんではないし、彼と同じように働いている。
 私たちは対等なはずじゃないのか。役割を演じているからこそ、それに気づいて欲しかった。平等を叫ぶ対照的な自分を認めて、それを許してほしかった。

独り相撲クッキング~現実を添えて~


 奇しくも、我々が問題の中心となったのも、田房さんの漫画と同じ「料理」だった。
 私自身、余力があるときに料理を作ること自体は楽しい。材料を組み合わせ、一個一個の工程を自分の手でこなしていくことで、ただの肉や野菜が姿を変え、目標とする献立になっていく。達成感のある高度な折り鶴のような作業だと思う。だけどそれを毎日やるだけの気力はない。すべて楽しいからオールオッケーとはいかないのである。
 しかも今日の献立はなにがいいか尋ねると、「なんでもいい」か、「カレー」。悩んでいると、「外食」か「出前館」を提案される。冷蔵庫にある食材は腐り、捨てるのは私。
 この選択肢が示されるたびに、私が作る料理は求められていない=おいしくないし、手伝うことすら面倒なレベルのお粗末なものなんだな、と納得していた。
 しかし、そうもいかないのが、生活なのだよ、諸君!
 共働きとはいえ、かけようと思えばいくらでもかけられるのが食費。私自身9月で会社を辞めることが決まっている。しかも順調すぎるほど増加しているうちの人の体重はもうすぐ100キロの大台に乗ろうとしている。服薬の影響で肝臓の数値も悪く、このまえの健康診断の結果はお察しのとおりだった。
 嗚呼、できるだけ節約&ほどほどなカロリー摂取に留めておきたい……! 無理に切り詰めろとは言わない、せめて豪勢に外食をしたらその分を自炊でいい感じに抑えればいいだけのこと。
 お金がないときの心の貧しさは、簡単に生活の視野と色彩を奪う。健康を損なうことは尊い生活を地盤から失うことも同じ。それを痛感した時期は、実家暮らしで気遣いを長らくアウトソーシングしていた私にとって、それらの大切さを知る貴重な時だったと今だからこそ思える。が、できることならもう味わいたくないし、味あわせたくない。そう思って頑張っていたから、余計にキた。

ここで、何気ない生活の一端をきっかけに、夫婦の関係性の変化を豊かに表現した作品を紹介しておこう。
漫画『マイブロークン・マリコ』で一躍有名になった、平庫ワカさんの読み切り『ホットアンドコールスロー』だ。

『ホット アンド コールドスロー』平庫ワカ
(コミックウォーカー ComicWalker)
https://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_CB01201800010000_68/

 この作品では、出産を間近に控える妊婦の妻と、関係性の変化に戸惑う夫の気持ちのすれ違いのようすが、美しく瑞々しい筆致で描かれている。「女」から「母」になることを現実的に受け入れるしかない妻と、コレクター気質で、変わろうとする「妻」を「母」として受け入れられずに苦しむ夫。クライマックスでは、文字通り血を見ることになりながらも、なんとか互いの気持ちを打ち明け、解決の第一歩である理解へと二人は手を取り向かいあうのである。

 性格的なものもあると思うが、なんだかんだいって、どうしても人生の方向性が受動的になりがちな女のほうが現実的だと思う。
 さすがに私の独り相撲も土俵際だった。
 ここでやっと、私はうちの人に胸の内を打ち明けることにした。

愛にできることなんざもうねえよ


 上記の内容を伝え、向こうの言い分に耳を傾ける。その結果、何気ない意見の食い違いが起きていたことが判明した。
 うちの人は「料理を手伝うこと自体は面倒ではあるが、私の料理に対して不味いと思ったことはなく、無理に頑張るくらいなら楽をしてほしくて外食や出前を勧めていた」そうだ。
 それでも納得できなくて、険悪なムードになった。
 確かにこれまでの行動をみて単純に考えればそうとることができる。互いに背を向けて眠りながら、どうして私がこんなに腹立たしいのか考えていた。「誠意を見せてくれ、この思いを成仏させてくれ」という思考が浮かんでは消える、この夏イチの寝苦しい夜だった。

 翌日、うちの人は何も言わず家を出ていった。
 へえへえ。私も勝手に過ごさせてもらいますよと、そのまま一日、一人で自分のやりたいようにしてみた。
 驚異的に楽しかった。
 好きなおやつを食べ、本を持ってのんびり買い物に行き、好きな動画を見ながら昼寝をした。当たり前なことだが、自分のために選択して時間を与えてやることが、こんなにも健康的なことなのかと、驚いた。
 その後、自分のために自分の食べたい夕飯を作ろうと台所に立った。うちの人の好みを気にする必要もない。ナスとカボチャを焼いたやつで適当に飯を作り、梅酒なんか飲んじゃってほろ酔いになってやろうじゃないかと、息巻いていた。
 材料を適当に切っていく。そして、固いカボチャに包丁を通しているときにうっかり、左手親指の関節の少し下を深めに切ってしまった。う、やばい。ばんそうこう。
 慌てて絆創膏を巻くが、なぜかすべってしまいうまく巻けない。なぜだ。
 それが大量に溢れた血のせいだとやっと気づいて、自分の気が動転していることを理解した。
 さいわい止血したあとは痛みもほとんどなかったが、それを帰宅後のやや拗ね気味なうちの人に見せたら、血相を変えて心配していた。
 その姿から、日常の煩雑なあれこれや、私の捻くれた自意識に隠されてしまっていた、私に対する夫のスタンスが垣間見えた。そうか、彼なりに私のこと大事に思ってくれているんだった。血の力=メンヘラの思想を一時的に借りて、私も正面から分かり合うための体勢を整えた。

 夫不在の一日を過ごすことで、なんとなくわかった。
 私の認知を歪めた正体は、役割を演じることで安心感を得ようとするほどの私の「自己肯定感のなさ」だった。

思想家・内田樹さん、精神科医・名越康文さん、作家・橋口いくよさんが、現代人がとらわれがちなアレコレをテーマに鼎談する、

『本当の大人の作法 価値観再生道場』著:内田樹、名越康文、橋口いくよ
(ダ・ヴィンチブックス)
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-9989007233

 では、『同化していくことのあやうさと定型圧力』について言及されている箇所がある。
 内田先生曰く、愛の反対語は一般的にいわれる無関心ではなく、敬意だという。

愛=理解と共感、そのうえに築かれた関係が一番暴力的になる。
ゆえに、人は共感や理解のうえに関係を築いてはいけない。

 驚いた。まさに今回の騒動の核心に迫るセンテンスだった。
 私は彼の一番近くにいる存在として、共感し、理解しているつもりだった。ある種、自分とうちの人の境界を溶かし、同一化させ、乱暴にそれを強いていたのだ。
 私が、彼と自分を同一化させてしまった理由は、自分そのものではなく「パートナーに献身する自分」という役割に安心を感じていたから。敬意を払うためにはまず、他人との違いを前提に、自分を自分として自立させる必要があるのだと、そのときやっと理解した。
 「親愛なる他人であるあなたのことをもっと知りたいから、教えてください」と乞うそこには、他人とは違うが誰にも侵されない私という確固たる背景があるのだ。

 どうしても拭えない「めっちゃ腹立つ」の正体、それは一見、うちの人の無理解をなじるもののようにみえる。
 しかしそれは違った。
 自分自身をないがしろにして大切にできない、自分への怒りだった。
 ど正論の後ろで、「自分を大切にできるのは、自分だけなんだぞ」と怒ってくれていたのだ。
 やっぱり先人の教えは偉大だ。私はやらかして散々逡巡したあとに、その教えの大切さに気付くことしかできなかったけど。この場をお借りして相田みつを先生に感謝を述べたいと思います。ありがとう、みつを。

手前味噌ではございますが


 明確な解決策は生まれなかったが、こうした互いのスタンスを理解するだけでも不安は和らぐ。なにより、私はひとまず私の「快」のために生活を送ることにした。それが結果的にふたりのためになっていければ、最高だ。
 この一件からうちの人も初心を取り戻し、協力的になってくれた。非常にありがたい。日々を乗り越えていくなかで、人間どうやったって忘れてしまうこともある。だから、その都度立ち止まって振り返るために、犬も食わない争いを、ここに記しておくことにした。

 こんな夫婦の日常は、noteマガジン『この際だから私たちの話をしよう』でも書いているので、もしよろしければぜひ読んでみてください。あなたの食べたいおやつとともに、あなたが自分のための時間を過ごすときに、寄り添えるものになっているはずです。たぶん。

『この際だから私たちの話をしよう』遠藤ジョバンニ
https://note.com/jovanny398/m/m0e5f9f0684b2

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