心と肉体の底に流れるドブ川

綺麗な人には2種類いる。

一つは、ドブ川のない人。もしくはあっても、気づき、綺麗にする生き方をしている人

もう一つは、ドブ川を奥深く隠して暗渠化した人

どちらも、短期的に見れば 綺麗になる方法としては同じように見える。


綺麗な肌 きれいな女性 きれいそうな人間 は大勢いる。

その違いは分かりにくい。

自分の純度の高さだけが、嗅覚を育て、その判別を可能にする。


先ほどの記事で書いたように、ドブとかヘドロというのは、

どこかに捨てたり、押し付けたりが できない性質のものである。

あらゆる他者(人間・生物・無機質)でさえ、それを分解・浄化できないのだ。

そして、自分の肉体内部でさえ、それは同じことだ。

それゆえ、しぶとく溜まり続けて、いずれ溢れると、とんでもない悪臭として表れてくるのである。

ドブ川が、誰かに押し付けることができない性質である以上、それは自分の生き方で「溜めないように」する以外にないことになる。

溜めないようにする というのは、流れを知り、流れの中に つつましく身を置く ということである。

慎ましいというのは、世間的な謙虚とか、見栄えとか、清貧wといった表面上のことでなく、流れの「許容量」であるとか、「浄化力」であるとか、「方向」とか「勢い」とか「ナチュラルさ」とか「持続可能性」とかであり、それらと自分の関係性の総体を自然なものにしていく在り方である。


自分の中の臭いものに気付いたとき、人は2種類の対処法をたどる。

1つは、全身と生き方の変革によって、どこかに過剰に押し付けた負担であったり、流れの悪さを良くして、ドブ川をたまらないようにし、苦しみながらも(症状・めんげん・好転反応・アレルギー・がん・吐露・懺悔・etc)少しずつ浄化していく正攻法。

2つは、生き方を変えずに、ドブ川を隠す方法 である。

ほとんどの、他人、社会、周囲の評価によってしか、己の在り方を確認できない人は、必然的に・原理的にドブ川を隠す方向に進む。

他人も社会も周囲も、それを隠しており、隠す方法を教えあい、隠しているか審査し、隠す方法を賞賛しあっているのだから、その中に身を置いて評価されようとすれば、そうなるのは当然のことだ。


笑ってしまう話である。

長い人生において、ドブ川を隠しきれる わけがあろうか?

そのドブ川はいずれ、肉体と精神の奥に封じ込め、作り込んだ薄暗い暗渠のマンホールを吹き飛ばして、己の全身にドブ水をまき散らし、真実を思い知らせる日を待っているだけだ。


老化と醜さと健康問題と家庭問題とは、つまりそういうことである。

全ての醜さと滅びに怯える人間よ。己のドブ川清掃に取り組むがいい。



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