コントロール人間とサポート人間

コントロール人間 と サポート人間 の話

コントロール人間は細かく思い通りにしようとする。やり方・ペース・思考・タイミング できる限り何もかも。

その細かさも、自分のこだわりから派生したものであり、対象の都合からではない。対象の都合を考えていたとしても優先順位は自分である。よってしばしば押しつけがましさ・違和感・衝突・逆恨み等を生む。

対象が人でないとしても、例えば農業などでも同じことだ。

コントロール人間は、観察力が低い。そもそも観察しようとしない。

加えて、反省力も低く、反省しようとしない。

だから、必要なことに必要なタイミングで気づかない。

ずれた行為を、ずれた思いによって行い、いつも揉めている。

そのくせ、「上手くやったのだ」と思い込んだり、「自分のせいではない」とごまかしたり、挙句の果てに「こんなにしてあげてるのに!」「こんなに頑張ってるのに!」などと開き直って、己を振り返らず今日も同じように誰かや何かにそれを繰り返している。

なぜ彼らは愚かにも、そういったズレたことを繰り返すのか?

そもそも、彼らには全く別の目的があるのだ。

コントロールによって自己効力感や満足感、もっと広げていえば、自分の価値全般を、対象を支配することによって、得ているのである。

それの果てが「所有」であり、その暴走だ。



サポート人間は、やり方・ペース・思考・タイミングなど、一切にこだわらない。

こだわらないのは、相手を優先するからだ。それらすべてが相手のものであるから、相手はやりやすいし、無理がない。

やりやすいし無理がないからいい方向にいく。

「思い通りにいく」のではなく、「良い方向に」行くのだ。

「良い方向」と「思い」が同じだった場合に、たまたま思い通りにいくに過ぎない。

サポート人間は「思い通りに」しようなどとは考えない。

そもそも、良い方向にいっていれば、いずれ矮小な愚か者が考える「思い通り」など簡単に追い抜く。


コントロール人間はサポート人間の動機と感性さえ分からない。

なぜそこまで相手志向で行動できるかも魂レベルで分からない。

彼らは、「自分が役に立てなければ」「自分が必要とされなければ」などと表現するが、その実態は「自分が(自分勝手で乱暴な自分のやり方で)影響力を持てなければ」意味がないと感じているのである。

そして、今日も毎日、ひん曲がった我がままを、自分自身と一体化し、上手く調整しながら、それを思い切りぶつけられる相手や場を求め、こそこそキョロキョロ探し回っているのである。

たまに何かの本や会話でそれを見かけても、己の虚栄心と結びついたレベルで解釈し、「(相手に)尽くす」などと表現する。

男性であれば軍隊・右翼・愛国・愛社的な方向へ、

女性であれば看護・介護・育児・愛国的な方向に、逸れやすい。

少しでもギクッとしたあなたはまだ正常な感性がある。これが腑に落ちるまでには何十年から場合によって人生2~3回を要するだろうが、逃げずに読み進めるといい。

これらは、ほぼ全て虚栄心と結びついている。虚栄心とは、先程説明した「コントロールによって自己効力感や満足感、もっと広げていえば、自分の価値全般を、対象を支配することで得る。」ことを温床として、そこから派生した、社会的な評価を得ようとする行為だ。

または被支配者として、支配者と向かい合う形でそれを体験することである。そしていつか入れ替わって自分もそれをする。


する側だけの問題ではない。これらの区別がつかない人間もまた、同じように分かっていない。

これらのいずれの関係に至るにしても、プロセスがあり、お互いの意思や思いが絡まって関係性ができていくのだから。

コントロールされた側が被害者ぶるのも、ほとんどの場合筋違いである。


このような原理を俯瞰してみると、

コントロールせずにいられない「コントロール人間」であればあるほど、不思議とコントロールする能力がない人間であることが分かる。

そして、その度合いが強いほど、学ぶことや省みることや観察することや寄り添うことが苦手である。

そこから何が分かるかといえば、

つまり、世の流れ、原理、法則、などから、はみ出してしまった者が、

己のひん曲がった方法によって、世界に一矢報いようとする行為なのである。

当然のことだが、その試みがうまくいくことはなく、短期的に成功したようにみえても、すぐに打ちひしがれることになり、

真に己の無力さ(コントロール不全感)を思い知り、自らを大いなるものに対して慎ましい態度にしなければ、それが続くだけ。


説明すればそんな感じだが、足りただろうか?

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