差別問題の終着点

何千年も人類を悩ませてきた差別問題。

これが何百年単位で、将来どうなっていくかの見通しを示す。

まず差別問題を語るとき、現代人の基本スタンスは根底から違う、というところから指摘しなければならない。

今は100年単位でみると、平等推進のフェーズがクライマックスを過ぎたところである。

よって、差別問題は歴史上、最もマイルドかつ平和に扱われている。

道行く人に聞けば誰もが「差別はいけない」「平等公平に」「差を設けてはいけない」「差によって人をさせないように」等と口にするだろう。

こういった認識が広まったことで、悪質な差別はかなり減った。

人が人を貶めることで快楽を得たり、無根拠な差別や、それを利用した社会制度はかなり減少したといえる。これは素晴らしい成果といえよう。

一方、差別問題っぽいものを、とりあえず、「差別はいけない」「平等公平に」「差を設けてはいけない」「差によって人をさせないように」などと処理してきたことは、真の問題の潜在化も引き起こしている。

さて、そもそも、差別がなぜ問題になってきたのか?

まず、認識の機序から見た「差別」の発生について確認する。

1.人が「違い」を認識する。
2.認識された違いのうち、多数が「劣等」「嫌悪」だと認識する要素を持った少数者を無意識や感情的に不利に扱う。
3.上記自体が社会的な既成事実となり、その既成事実をバックボーンにして、意識的に、多数側が少数側へ、弱みに付け込んで、攻撃・蔑み・暴力・抑圧等の負の意図をもって差別行為を行う。

おおよそ、1~3の段階に分けたのは、どこからが差別問題かを明確にするためだ。

このうち3は誰がどう見ても差別であることは疑いようがない。極めて悪質な差別であり、無用な混乱を起こし人を傷つける、物理的な暴力まがいの行為である。

3の根絶は当然のように行われるべき、と言ってよいだろう。

今、この記事で議論しなければならないのは2であり、1についても、だ。再掲する。

2.認識された違いのうち、多数が「劣等」だと認識する要素を持った少数者を無意識や感情的に不利に扱う。

これは差別なのか? 先の3と区別のつかぬまま、これを差別と一緒にしてあーだこーだ、その場のノリで綱引きしているのが今の社会のフェーズである。そしてだいたい、「誰も傷つけないように」で話は終わる。そしてそんな結論はなかったかのように、次の日も社会は変わらずにどこかで誰かが傷つく。議論の場ではいい子ちゃん、私生活では平然と差別主義者の顔をした大衆がそこにいる。

そんな聴衆を味方につける綱引き(駆け引き)の議論もどきに興味はない。

ズバッと結論を言えば、それが、無意識的・内心的・個人的・応答的に行われる限り、人が人を不利に扱うことは「差別」ではない。

意識的・積極的な表現・集団的・先制攻撃的に行われるものは差別である

そして、社会的な立場やマイノリティーといった観点で弱者に向けられるほど、多数から少数に向けられるほど、この差別の悪質性は増す

もちろん、それによって不快な思いをする人は発生するが、それは差別とはまた別の個人的問題なのである。問題にするとしても、少なくとも、差別問題と同一に扱うべきではない。

なぜこういった混同が起こるかといえば、個人的に不快な思いをしたくない側が、同じような仲間を見つけて、差別問題と混ぜ込んで、自らに有利なように社会を都合よく動かそうとする、ムーブメントだからだ。つまり、差別問題は、偽物によって悪用されているのである。

これは差別問題とハッキリ分けなければならない。まずここが1点。


次に1はどうか?も一応、念のため。。確認しておく。。

1.人が「違い」を認識する。

これを差別だのというのは話にならず、そもそも「違い」を認識することを否定するのは目と脳を否定し、人を否定することと同じである。「違い」を認識するのは生きることと同じである。

いいかな?さすがにここでつまずく奴はいないよな。。

軽くまとめよう。

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・違いを認識するのは原理的に当たり前でそれを否定することはできない。

・違いの認識から、様々な比較と(無意識の)評価等が生まれる。これも否定することはできない。

・様々な比較と(無意識の)評価等のうち、多数が「劣等」「嫌悪」だと認識する要素を持った少数者が現れ、その少数者を不利に扱う者が現れるが、無意識的・内心的・個人的・応答的に行われるものは、積極的に害を与える目的ではないので「差別」とはいえず個人的な両者間の問題である。一方、意識的・積極的な表現・集団的・先制攻撃的に行われるものは差別である

・上記のように不利に扱うこと自体が社会的な既成事実となり、その既成事実をバックボーンにして、意識的に、多数側が少数側へ、弱みに付け込んで、攻撃・蔑み・暴力・抑圧等の負の意図をもって行われる行為は明確かつ極めて悪質な差別である。

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ふう。

いいかな?差別問題ってのは、不快な人をただ減らす目的でもなければ、少数者を救うだけの目的でもないし、ましてや人の違いを否定したり、個人的な評価の感情を抑え込むものでもない。

これを勘違いして、なんでもかんでも同じに扱え~、そしてあわよくば違いに盲目になれ~、としているのが今の社会。それは全然違うよ。それは逆差別っていうの。差別問題を悪用して物事の本質を隠している。

差別がなぜ問題か?という根源的な理由はね。

社会が他の臭い物を隠すために、不必要かつ不自然に、ある特徴をもった弱者にそれ以外の臭いものも全てを押し付けるように、人々を扇動し、あるいは未必の故意的に差別を増長し、社会の不満を非差別者に押し付けるように、差別感情という形で弱い者へと発散させ、その人たちに多大な犠牲を与えてきたから

ちゃんとその現象を見ると、人々が「違い」を認識することがいけないのでも、そこから何かを感じたり評価すること自体が問題なのではないと分かる。

それを悪用して、弱い者へと、汚いものを一方的に押し付けることが一番の罪なのだと。

だから、差別問題をみるときには、その差別行為が何から来ているか?をちゃんと見なければいけない。それが明らかに、他の不満や悪感情のはけ口として使われていれば、それは速やかに解決する必要があるし、必要十分最小限の個人的評価として示されたものであれば、それは真実を含んでいるかもしれない、と。

そして今後社会がどう変化していくか?だけれども、

かつて、門地差別があり、人種差別があり、これらが随分解決してくると、

学歴差別だの、経済的差別だの、年齢差別だの、 本当に問題なのか分からない問題が語られ出してきた。

今後はそれが、容姿、病への抵抗性、へと移っていく。

人々が関心を向けるホットな話題に移っていくだけのこと。

俯瞰してみると、どれもこれも大昔の最初からあった問題なのだ。

世の中に新しいものができて新たに差別ができるというよりは、元々あったものに注目が移っているだけである。

そしてその推移は、外形的で表面的なものから、本質的なものへと移っていく。

なので、テーマとしてはより重く、より厳しくなっていく宿命にある。

なぜそういった推移になるかといえば、つまるところ、最初から問題だったのだが、祖先の人間たちが目を背けるために別のテーマを中心にして関心をそらし続けてきたからだ。

それが一個一個解決していきテーマにできなくなり、装飾がはがれていき、ついに時代は「容姿、病への抵抗性」まできてしまったのである。

つまるところ、これまでの社会で起こってきた問題は、これに気付くのを遅らせるためのマトリョシカ的テーマに過ぎなかったのだ。

ちょうど私たち一人ひとりが、本当に望むものを心の奥底に隠して気づかず、保険をかけて次点のものを欲しがるように。

容姿、病への抵抗性を語れば、次に来るのは「出生」についてが必然であろう。

差別問題の終着テーマは結局、人間が最もおそれて誤魔化してきた「出生」のあり方になる宿命にある。

全てのタブーは出生に通ず

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