20世紀の総括ー平等の推進により得られたものと得られなかったもの。今なお残る偽りのムーブメントと反動
20世紀は大きく見れば「平等」が進んだ世紀だったといえる。
20世紀中、不平等問題があらゆる形で叫ばれ続けていたため、そのイメージに引っ張られて「不平等だったのではないか?不平等が進んだ時代だったのではないか」「資本主義がぁーうんぬんかんぬんでえ」など反射的に思っちゃうアホが多数いそうだけどな。
逆だよ。
平等化のムーブメントが手放しで正当だとされ、それにひたすら乗っかる形で平等がどんどん進んでいったのが事実。その間に叫ばれた様々な不平等問題は、短期のせいぜい10年とかで見たときの一時的な逆行で、100年単位でみたときには、ほぼあらゆるものが平等化の方向で進んだ。
不平等が進んだから問題化したのではなく、それまで気づかなかったり意識しなかったり、当たり前だとされたことの中に「あれも不平等じゃん、あれも不平等じゃね?」とほじくり出すような形でどんどんと平等化が進んでいった。
その際に共通する根本的な心理状態はこうだ。
「社会的な文化、制度、風潮等のせいで、」「本来の能力等に対して、過小評価されたり、気持ち悪がられたり、なめられたり、搾取されたり、行動が阻害されているから、」 「それを是正せねばならない。」+((それが無くなれば幸せになれるはずなんだ~~~))
実際に、それがそのとおり当てはまっていた状況もたくさんあった。それらが是正され、本来の評価が与えられ、風通しが良くなったことは素晴らしい成果だったといえる。
そうして21世紀になった今、それらの点検作業はほとんどやりつくしてしまった感がある。
今まだ叫ばれている平等問題は、それらと同じか? -否
それらはもはや問題というより、無理やり「20世紀の平等ムーブメントと同じフォーマットに乗っかって」あわよくば「本来の能力や評価だけじゃ物足りずそれ以上のものをかすめ取ろうとする」行動がほとんどではないか?
僕らが今叫ばれている、それらにあまり感情移入できない理由、それはその嘘臭さにどこか感づいているからだ。
20世紀までと同じように、本当に守るべき人、不当な不平等に苦しむ人など、実際にはもうほとんどいなくなっていることに。
そしてそれをやりつくした結果、分かってきた重大なことがいくつかある。平等ムーブメントをやりつくした結果、それで解決できなかったものが浮き彫りになっているのが今である。
私たちが貧しかったのは、「搾取」が主な理由だったのではなく、単に自分たちが価値を生めなかったからだと。
搾取さえなくなればー 平等になればー 資本家をつぶせばー は、部分的には当たっていたが、それ「さえ」なくなれば豊かになれるは完全に間違いであり、都合の良い妄想であったと。
差別問題は、単に政府や国家イデオロギーのようなもの、白人や健常人の優越感などといったものだけじゃなく、本当に気持ち悪かったり、見下さざるを得ない状況、という生物的に当たり前の感覚によるものも大きかったからだと。
それさえ是正しようとすれば、内心の自由というもっと深遠なものと干渉することになるだろう。気持ち悪いと「言いふらす」のは問題だが、内心で思う自由や態度は個人の自由の範疇であり、優先されるという当たり前の原則が浮き彫りになってきた。
どこまでが他人に害を及ぼすもので、どこまでが個人の内心の自由なのかという問題は今なお、ネットの誹謗中傷問題などに立ち現れているといえよう。
そして着地点はおそらく、他人になんらかの害をもたらす発言を「いいふらす」「共感を求める」よりも拡散性が高いものがアウトで、「聞かれた場合に嘘をつかないために正直に答える」よりも内心性が高いものはセーフというラインに落ち着くだろう。それが新しい道徳観念として徐々に定着していくだろう。
感の良い心根のまともな人間は既にそれを自主的にやっているはずだ。
若さ+見た目+健康 問題が人の関心の中心になっていく
皮肉なことに、人類史上常に最大の差別問題だった見た目問題がさらに加速する。youtubeをはじめ、これら3つを備えていれば、程度の差はあれ、自分の人生を表現するだけで「簡単に」人々から、お金、関心、評価、地位、人脈、などを集めることができる。人によっては駄弁って顔を映すだけでも成立する。それがこれまでのどんな仕事以上に、「楽」に「楽しく」「しかも稼げる」というようになってしまった。
このあまりに残酷で本質的な事実が、昔のように「選ばれた人だから~」のような発言で片づけられないほど、身近になってしまった。知り合い100人くらいを探せばその中に活躍できそうな人がちらほら見つかるくらいは身近になってしまったのだ。「俺私と同じくらいだと思っていたアイツがそれをやれて自分はやれない」これがどれほどの苦痛を生むことか。アンチがとめどなく生まれる大きな理由もここにある。
そしてそれらにいくら異を唱えようとも、唱えている本人も、多かれ少なかれ普段それらで他人を評価したり応援したり付き合う人を決めていることだろう。つまりその本質性からは逃れられていない。
それが煮詰まったのが10年ほど前から先んじて起こっているのが韓国だった。ご存知のとおり美容整形大国である。彼らは文化的に失うものが少なかったこともあり、思いっきりそっちに舵を切り、一時は世界中に恥をさらしたようにみえたが、今となっては彼らのほうが成功しており先見の明があったといえる。
日本でもこの流れは進んでいくだろう。見た目によってこれまで以上のあらゆるものが手に入るのだから、人々はそれから逃れることはできないだろう。なし崩し的に進んでいく。
だが、その先には美容整形の限界が発生することだろう。表面を整えることができても、その先の美と若さ、機能向上までには踏み込めない。
今はまだ表面上の美でもある程度はもてはやされたり、生きやすくはなるだろうが、そのうちそれが標準になるにつれて、人々の見る目が肥えて、「内側のきれいさ、健康さ、若さ、機能性、調和性」までを感じ取るまでになってくると(俺は既にそうだが)、美容整形では太刀打ちできない領域になってくる。
表面の美が手軽になる分、素晴らしく歳を重ねた人や、人間性を磨いた人だけが到達できる、動き、雰囲気、声、話し方、言葉の選び方などができる人の価値は飛躍的に上がる。今でも支持者は多いけど、こういった人の価値がさらに上がっていく。
見た目問題の本質に迫ってくると、これくらいの時点で、人は幼少からの育て方、見守り方、身体の成長に伴う狂いへの気づき、さらにはその前のセックスとか相手の選び方の段階からの見直しを始めるようになるだろう。
ま、そこまでいくのはさすがに50年はかかりそうだな・・
話が見た目問題に逸れてきたので終わり
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