天職と自信(※加筆あり

内にあった仮説が明確になるような貴重な体験記
インスピレーションを戴いた記事に出会えたので書いてみようと思います。

序文

まず私は こういった500社以上 何百もの業種 この世界のさまざまな仕事に携わること それができてきたこと自体 偉大なことだと思います。
どれくらいかもわかりませんし、何かと比べてどうかもわかりません。

ついでに言えば、何か一つを極めた人が 過剰に称賛されることに
何か狂ったものを感じます

それは、その人たち 最近だと 大谷君や井上君など
その人たちが与える希望や活力 物事の深淵
といったものの価値から考えれば十分妥当と思う一方で、

それらへのコメントや思いを見聞きする中に
ん? と思うようなものがたくさん含まれるからです。

それは彼らが提供する何かを理解 体感することから来ているのではなく
単に ブームに乗っかっている 雰囲気にのっかっている だけ
つまりバブルに乗ってるだけだとしか思えないことから来ています。

彼らの年収や知名度 富の要素の 何割かがそういったものから来ているのだとしたら、その仕組みをどこかで変えなければいけない直感があります。

その富の行先はきっと引用したように日の目をみていない「何でも屋」「雑貨屋」のような方々なのだと思います。



天職でなければ どんなことをいくつやっても自信にはならない

どれだけ 誠心誠意 一生懸命 全力で 誰かを思いながら 責任感をもって やったとしても。 そこに天職の要素

言い換えれば その人の人生の本分につながる何かがなければ
自信にはなりえない。

若い時には、自分の中の自信になったような気がすることもあるだろう。
それは経験が少ないから、その人の中でそれが価値あることに感じられる
というだけで、

世の中のことを知っていったり、自分の位置づけや、必要とされる度合い

物事の成否に関する運や気分や好き嫌いやなんとなく といった偶然要素の大きさ

それから自分にとっての感触、満足感、直感的な様々なこと

それらを知るほどに、逆に自信とは思えなくなっていく。

それは実績や年数や経験値や知識の量などとはほとんど関係ない。

平たく切り捨てるならば、
そんなものを武器だと思わないとやっていけないほど
無知で 世の中を恐れ なんとか自らを奮い立たせていただけだった

さらにその奥には、封印された多くの疑念
自分は天職に出会えないのではないか
そもそも天職などないのではないか
人格や個性と切り離されたり、それと反する
役割だけを期待される仕事を何十年もやるしかないのか
天職がある人と自分は何が違うのか
地を這うように生きるしかないのか

そういった究極に近い疑念や恐れ
そしてどうみても多くの人がそれを抱えているのに
誰もそれを口に出さず
しかもそれを続けないと成り立たない生活をしていて
それを前提にしている社会

があることに気づかざるを得ない

多くの人がそれを混同して語るが、その深さや次元は全く異なるのだ。

低い次元でやりくりしている人ほど

勉強になる やって損なことはない 挑戦することはいいことだ
やってみないとわからないじゃないか

人は無責任にきれいごとを言う。 

同じ言葉でも不思議と

そうかもな と希望を伴って嘘偽りなく思える時と
逆に 違うな どうせ これじゃないと思える時がある

そして、やってみた結果が
前者が後者になることもなく
後者が前者になることもない

そこにはこの世の大きな悲劇がある。

紐解けば、きれいごとを発している人間が

希望から発した言葉なのか
怨嗟から発した言葉なのか

というところが分かれ目であり、
この世では今のところ
言葉の表面からは分からないようになっている

希望というのは、

実際に自分がよくなった体験がある
その人がイキイキとしている光景が描ける
人の幸福とは何かを体験をもって知っている
運や愛や救いやエネルギーといったものを体験をもって知っている

そこから生まれる発想や行動や言葉やエネルギーであって、
論理的な計算や、常識や、知識や、情報ではない。

論理的な計算や、常識や、知識や、情報は、何かをさらにブラッシュアップするためのものであって、動機の原点にはなりえない。

動機がうやむやな中で、やたらと「論理的、常識、知識、情報」が全面に出た説得というのは ほとんどが人を幸せにしない怨嗟から出たものである

動機に隠すことがないならば、全面に希望

実際に自分がよくなった体験がある
人がイキイキとしている光景が描ける
人の幸福とは何かを体験をもって知っている
運や愛や救いやエネルギーといったものを体験をもって知っている

これらがみなぎっていれば、何も隠すことがないから。

中身がスッカスカのプレゼンがよく大きなお金を獲得するのは
成功者がそういうことを知っているから。

ま、それさえも利用されるんだけど・・


それらの区別は、反論や疑問を呈したときの態度ではっきり分かる。

希望をもって人に伝えている場合、
反論や疑問を呈されても喧嘩のようにはならない。

分かりやすいゲンキンな話で例えれば
誰かの親戚が有名人で、そのライブか何かの手伝いで
1日5万円もらえる健全なバイトが発生したとする

当然、まわりの友達から声をかけていく。
そのときに、「いやぁ、俺はいいや、、」とか「怪しくない?」とか
言われることもあるだろう。

その時怒ったり喧嘩になったりするだろうか?

その時思うのは
(なんでこんないい話なのに) とか
(もったいな・・) とか
(まぁいいや他の人から先に教えよう) とか

そんな感じでしょ?
んで、気が向いたら教えてよ できるだけ枠とっておくから!

そういう風な感じになるのが、 
誰かに希望をもって提案するときの態度

怒ったり 喧嘩になったり
「私があなたのことを思ってこんなに言ってあげてるのに!」
みたいには100%ならない。

それは己が隠し持つ怨嗟を巧妙に隠しながら、
他人に伝染させてはけ口にする様式だということを
そろそろ知らなければいけない。


この話では、一時的な経済的成功は含まない
人によってはそれをも天職と呼ぶが、
心的充実を伴って、経済的な苦境があったとしても
死ぬ前まで続けたいと思えるものを天職と呼ぶ

さて、天職の要素 

自分らしさ(真の個性)、真の課題、

それと社会のシナジーで

自分を生かして役立つこと、真に理解されること

そのときの 他人の反応、表情、接し方には
その人らしさを肯定するような雰囲気が必ず伴う

好き とか 頼れる とか 優しい とか 頑張ってるとか 
応援したい とか 安心できるとか

そんな浅い一元的な評価とも違う 


むしろ欠点とされる性質のほうが
一元的に軽やかに理解されていて
それが前提にありつつも、

なんかいいよねー 
なんかいいんだわ
そういうとこが見たいんだわ

最近どうしてるか気になっちゃってさ
応援したくなるんだよね

という思いで支援されたり、協力される

頑張ってるとか 挑戦してるから とか
そんなことを理由に説明されることも多いが

根源的な理由はそれとも違う。

じぃにもそれはまだ全貌は掴めないが、

思うに

ある特徴的な
世間的欠点が
理解され納得され 
同時に
それと関係する性質が花開き
多くの人を巻き込んで
包まれるように
その人の全体が
肯定的に受け止められていく

その過程 物語
それは太古から
人が最も欲していることの一つであり

それにふさわしい神輿を大衆は探している
それは大小の祭りのように活気を帯び、

一旦落ち着き、
浅い付き合いの人が離れた後も
ある水準で活動が長期間持続し
そこに心的・経済的流れが残ったとき
それは天職であると。

神輿としての性質のうち
欠点がわかりやすく イデア的で 派手であること
は一番の分かれ目になる


欠点と社会との関係こそが
心的充実感を含んだ意味での
天職の本当の分かれ目であって、

それは一般で言われているような
長所 とか 得意なこと とかではない

それは人間を 今いる社会に 歯車のように当てはめたい
場合の 処理の考え方であり、

断じて 個々人の充実感を重視した考え方ではない。

この話から言えることは、
多くの 欠点・弱点がわかりにくく複合的な人は
天職にたどり着くことが難しいのではないか

これは医療制度にも似ていて
多くの人が罹患する 
わかりやすい派手な症状はすぐに保護されるが
地味な不定愁訴や名もなき難病は 軽視され 放置される

多くの人が天職につくまでには、
医療制度と同じような変遷を辿ることと思われる。


とりあえずここまで。

私も分かりにくい人間 その一人です。

希望をもって 天職を諦めず 生きていきましょうね。


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