成長したいなら、経験をごった煮にしないこと。「ありのまま」と「なされるがまま」は天と地獄の違い

多くの人が、経験をごった煮にしてしまっている。

そのせいで成長できない。

情報が多すぎて、何がどうなってるかわからなくなり、処理を「諦めて」しまう。

諦めて投げやりになってしまうことは、色眼鏡よりもダメ。

フィルターの少ない(ありのままに近い)経験>>>>フィルターを掛けた(テーマ・関心を絞った/色眼鏡的)経験>>>>>>>>>>>>>>>>>諦め・投げやり・なされるがままの経験

「ありのままの経験」と「諦め・投げやり・なされるがままの経験」は意外と結構似ていて勘違いしやすい。

流れに身を任せているようにみえるところは、外から見ると同じように見えるし、両方になったことのない人には違いが分かりずらい。

なので特に仏教系に嵌る人は「ありのまま」になったつもりで「諦め・投げやり・なされるがままの経験」に陥りやすい。(元々諦めた人の救済的な要素がある宗教だからそういう人がいきやすい。)

この2つの決定的な違いは、「ありのままの経験」には自分の中からナチュラルに湧く直感が訪れ、「諦め・投げやり・なされるがままの経験」のほうは直感がマヒして機能していない、という点だ。

直感が働くかどうかで生きる充実度や手ごたえは天と地獄の差のような違いが生まれる。

片や流れに身を任せていても満足、充実感、経験や出会い、気づき、手ごたえが得られ、

片や不平不満、物足りなさ、諦め、見て見ぬふり、気づかぬふり、虚しさにあふれた人生となる。

この2つに分かれる生き方の分岐点はいくつかあるが、大きなことは見ること聞くことやること、とにかく外からのものを減らすということだ。

減らせば減らすほど空いたリソースで内面を把握できるようになる。

より細かく、より遅れなく、より正確に、だ。

内面=身体の状態、精神の状態、外界に何にどう反応したか

現代人にとって、この1点が最も大きな分岐点となる。

前者はほぼ間違いなく減らした経験があり、後者はほぼ間違いなく減らしていない

さらに精神の深層という視点からみたとき、前者は内面を見れる状態にあり、後者は内面を見れない状態にある。

つまり、相関の方向性としては、ごった煮的な生き方をしているせいで内面が見れないというより、内面を見たくないせいでごった煮的な生き方をしている要素が強いといえる。

人生の大半は、内面の気づきと成長による。

ごった煮の経験、ごった煮の成功、ごった煮の勝利、ごった煮の人間関係、ごった煮の恋愛。

日々の経験から、何が起こったか、自分がどう反応したか、も分からないなら、その意味は半分以上ないも同然だ。

それどころか、そんな時間が積み重なると、消化不良が積み重なっていく。

経験からきた消化不良は精神の消化不良となり、身体の消化不良となる。

そして、コリや滞りや病として表れ、もがき苦しむことに繋がるのだ。


思い当たるなら、一度減らすことから始めてみよう。





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