ぐんまのヨセフ

渋川カトリック教会で洗礼を受け 教会の皆様の温かい心と深い信仰心に 励まされています。…

ぐんまのヨセフ

渋川カトリック教会で洗礼を受け 教会の皆様の温かい心と深い信仰心に 励まされています。 シェガレ神父の説教を中心に投稿しています。

最近の記事

ヨハネ15:1∼8「シェガレ神父の説教」

B 復活節5主日 ヨハネ15,1−8「葡萄の木」2024  渋川  さっきつながりの象徴である葡萄の木の喩え話を聞きました。葡萄の木は古くからあり、聖書には豊な実を結ぶイチジクとオリーヴの木と並んで当時の人々に親しまれた木です。日本も葡萄の栽培が古く、平安時代から始まったそうだが、明治時代以降に剪定の方法と技術が海外から導入されたおかげで、葡萄の生産が盛んになり、秋になると大勢の人が葡萄狩を楽しんでいます。整然とした日本のぶどうの木に比べて、イエスの時代の葡萄の木の外見は見

    • ヨハネによる福音10:11∼18「シェガレ神父の説教」

      B 復活4主日 ヨハネ10,11−18   良き牧者  2024    さっき有名な善き牧者の喩え話を聞きました。旧約聖書にも神が民の善き牧者として喩えられています。「神よ、私の牧者、私には欠けることがない。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」と。神である善き牧者と対照的に、「群れを養わず、自分自身を養う」イスラエルの指導者が預言者たちに厳しく批判されています(エゼ10,11)。新約聖書にもイエスは私が善き牧者であると述べ、羊のこ

      • ルカ24:35∼48「シェガレ神父の説教」

        B復活3主日 ルカ24,35-48  弟子たちへのイエスの出現 2024 渋川  先週の日曜日に朗読されたヨハネの福音書は復活されたイエスが弟子たちに現れて真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と挨拶し、手と脇腹の傷を見せて、弟子達が「主を見て喜んだ」と語っていました。  今日同じ出現を語るルカの福音書は筋が多少違っています。イエスが現れ るが、弟子たちは喜ぶではなく恐れおののき、亡霊を見たと思って、うろたえています。そうするとイエスは自分の存在を証明するために手と

        • ヨハネによる福音20:19∼31「シェガレ神父の説教」

          B 復活2主日 ヨハネ20,19-31 復活したイエスの出現 渋川2024  イエスが十字架に付けられて死んだ後に弟子たちの共同体が家の一室に集まって、ユダヤ人を恐れて、戸に鍵をかけて、閉じこもっていました。復活されたイエスと出逢っていない彼らは、気を落として、元気が無く、家の外に出ようとしません。   しかし突然イエスが真ん中に立ち、あなたがたに平和があるようにと挨拶し、そして彼らを派遣し、赦しと癒しの権限を与えます。イエスの与える派遣の平和は慰めではなく、弟子たちの心を

        ヨハネ15:1∼8「シェガレ神父の説教」

          受難の主日

          B受難の主日  マルコ15,1-39 2024  渋川教会  さっきマルコ福音書の受難物語を聞きました。他の受難物語に比べてイエスの沈黙が目立っています。イエスはたった2回しか声を出しません。司祭や権力者の脅しに応じず、自己弁解もしません。イエスの沈黙に苛立つピラトは「何も答えないのか。指導者がこんなにお前を訴えているのに。しかし、イエスは何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った」と記されています。一体どうしてイエスは無実だったのに抗議せず、黙っていたでしょうか

          ヨハネによる福音12:20∼33「シェガレ神父の説教」

          B四旬節5主日 ヨハネ12,20-33  一粒の麦  2024  一年に一回行われる過ぎ越しの祭りを祝うため、イエスはエルサレムに登っていきました。彼はもうすでに十字架に付けられ死ぬことを覚悟しています。ところが礼拝のために来ていた群衆の中にギリシャ人が入っていました。ギリシャ人は議論が好きで、いろんな宗教の知恵に興味があり、イエスの新しい教えに関心を持っていました。彼らは弟子たちに依頼して、イエスに会わせてもいたいと願います。  弟子たちはギリシャ人の願いをイエスに伝える

          ヨハネによる福音12:20∼33「シェガレ神父の説教」

          ヨハネによる福音3:14∼21「シェガレ神父の説教」

          四旬節4主日 ヨハネ3,14-21  救いと永遠の命  渋川 2024  「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とイエスが述べています。神様が世の裁き、罪深い人類の罰ではなく世の救いを求めています。世の救いはなんでしょうか。日本では浄土宗を中心に念仏を唱えることによって救われる信仰があるが、現代人のほんどの人が期待している世の救いは宗教と関係なく、医療技術の進歩、豊かな経済, 安全に暮らせる環境ではないでしょうか。もちろん

          ヨハネによる福音3:14∼21「シェガレ神父の説教」

          ヨハネ2:12∼25「シェガレ神父の説教」

          B四旬節3主日 ヨハネ2、12−25   神殿の清め  渋川教会 2024  イエスは激しい怒りにかられて、「私の父の家を商売の家としてはいけない」と言って神殿の商売人や両替人を鞭で追い出しています。イエスの優しさに慣れている私たちは, この怒りに接すると驚くかもしれないが、時々優しさだけではなく、不正に対するイエスの怒りに触れることは大切だと思います。ところがイエスはなぜこれほど怒っていたのでしょうか。  神殿の入り口に並んでいた屋台のドタバタ騒ぎ、牛、羊と鳩の鳴き声

          ヨハネ2:12∼25「シェガレ神父の説教」

          マルコ福音書9:2∼10「シェガレ神父の説教」

          B 四旬節2主日  マルコ9,2-10 主の変容  渋川教会 2024 先週、荒野におけるイエスの誘惑の物語を聞いたが、今日は山で起こった出来事について話が出ています。聖書の中は荒野と山の特徴は対照的に異なっています。何もない荒れ野は誘惑の場であるに対して、山は神の啓示の場となっています。日本でも神が山に宿っていると思われて、山に囲まれた渋川の町は神々に守られて、人々が安心して住めます。山を登っていくと、俗界の束縛から開放感が得られ、美しい雄大な自然に触れるに従って心が落ち着

          マルコ福音書9:2∼10「シェガレ神父の説教」

          マルコによる福音1:12∼15「シェガレ神父の説教」

          B 四旬節第1主日 マルコ1,12-15 イエスの誘惑  2024   さっき朗読されたマルコ福音書の箇所はイエスの誘惑話の要約であると違い、マタイとルカの福音書は三つの誘惑を細かく語っています。この三つの誘惑は皆さんがご存じでしょう。一つ目は、サタンが登場して、イエスに神の子なら神から与えられた権能を利用して、石をパンに変えられたらどうだと誘惑します。二番目は、権力者は世界の国々を支配しているように、あなたも神から与えられた権力を持ってこの世を支配すればどうだという誘惑。

          マルコによる福音1:12∼15「シェガレ神父の説教」

          マルコによる福音1:40∼45「シェガレ神父の説教」

          B年間6主日 マルコ1,40-45  皮膚病の人の癒し 渋川 2024 さっき朗読された福音に出た人の病気はハンセン病です。当時この病気がかかった人は三種の苦悩を負うことになっていました。一つは体の変形と麻痺。これ以上苦しいことがないです。二つ目は町や村に暮らす一般の人々との隔離の規定です。日本も、明治時代以降、ハンセン病の患者は誰とも接触できず、家族との関係を切ってしまいました。三つ目の苦悩は宗教からの波紋です。イエスの時代ではハンセン病があった人は汚れた存在とみなされ、

          マルコによる福音1:40∼45「シェガレ神父の説教」

          マルコによる福音1:29∼39「シェガレ神父の説教」

          B年間5主日 マルコ1,29−39  イエスの一日 渋川 2024  今日はイエスの忙しい一日が描かれています。朝会堂に入り聖書の朗読をします。終われば会堂を出て、シモンとアンドレの家を訪問し、熱があったシモンの姑に寄り添い、彼女の手をとって安心させてくれます。わたしたちもお見舞いの際、病人は話ができないなら、彼の手を取り、手を撫でて、握ったまま、そばにいるだけでいいわけです。人の手を取ることは人を安心させ、癒す効果があります。福音書のなかにイエスは度々人の手をとって、立ち

          マルコによる福音1:29∼39「シェガレ神父の説教」

          マルコによる福音1:21∼28「シェガレ神父の説教」

          B年間4主日  マルコ1,21−28 イエスの権威 渋川 2024  今日の福音はイエスの教えにある権威を語っています。22節に「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになっていた」と書いてあります。イエスの言葉には重みがあったわけです。もう一箇所26節にイエスは汚れた霊に取りつかれた男を悪霊の支配から解放する権威にも驚きます。医学が進んでいなかった当時、精神障害者は「汚れた悪霊に取り憑かれた人」として見られて、差別されました。今

          マルコによる福音1:21∼28「シェガレ神父の説教」

          マルコ福音書1:14∼20「シェガレ神父の説教」

          B年間3主日 マルコ1,14−20  教会共同体の網  2024  洗礼者ヨハネから離れたイエスは故郷に戻り、ガリラヤ湖に面しているカペナウムという町に活動の拠点を置き、時が満ちて、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさいと宣言し始めます。遠藤周作は本の中にイエスが過ごしたガリラヤの時期をガリラヤの春と呼んでいます。イエスにまだ敵がいないし、評判がどんどん高まります。  ある日イエスは、美しいガリラヤ湖沿いの道を散歩していたら、漁をしていた二人の漁師、アンデレとシモンが

          マルコ福音書1:14∼20「シェガレ神父の説教」

          ヨハネ福音書1:35∼42「シェガレ神父の説教」

          B年間2主日 ヨハネ1,35−42 イエスとの出会い  2024 渋川  今日の福音のキーワードは「出会うと従う」の動詞です。元々教会はイエスと出会って従った体験をした人々の共同体です。最初の出会いはガリラヤのナザレを出て「歩いておられたイエス」と洗礼者ヨハネの出会いです。ヨハネはイエスの噂を聞いていたが、実際に会ってみると自分よりもイエスの方が優れていると思って、自分の弟子に彼を指し示ながら「見よ、神の子羊」とイエスを救い主として紹介します。そうすると二人の弟子はヨハネ

          ヨハネ福音書1:35∼42「シェガレ神父の説教」

          ルカ福音書2:22∼40「シェガレ神父の説教」

          聖家族 ルカ2,22〜40  シメオンとアンナ 渋川 2023    マリアとヨセフは当時の習慣に従って幼子を奉献のためにエルサレムの神殿に連れて、鳩の二羽という貧しい庶民の生贄を捧げました。  長い旅のため疲れきった3人はやっと着いた時にシメオンという高齢者の男性が現れて、3人を温かく歓迎しました。救い主をひたすら待っていたシメオンは聖霊に導かれて幼子を見て、腕に抱っこして、神をたたえ、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言い、家族の3人を祝福します。そして彼はマリアに

          ルカ福音書2:22∼40「シェガレ神父の説教」