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マルコ福音書3:20∼35「シェガレ神父の説教」

B年間10主日 
マルコ3,20−35悪霊に憑かれた男
 渋川 2024

 福音を伝えはじめた時、イエスは群衆に歓迎されたが、身内の人々とエルサレムから来た律法学者が彼の行動に躓き、このイエスは「変になって、悪霊に取り憑かれている」と攻撃を始めます。 
 悪霊を追い出しているのに、自分が悪霊に取り憑かれていると非難されているイエスは、律法学者に「もし悪霊の力で私は悪霊を追い出すのであれば、サタンの国は分裂するではないかと、皮肉を込めて言い返します。そしてイエスは人々の心に宿っている聖霊を悪魔だという人がいれば、その人はゆるすことができない冒涜罪を犯していると律法学者に注意します。  
 福音書の中「悪霊に取り憑かれた」という表現は、精神障害者、皮膚病を患い、汚れたと思われる人に貼られる差別語です。残念ながら悪魔払いやエクソシスムが盛んだった中世時代は、社会のはみ出し者が悪魔に憑かれた人とみなされ, 拷問か破門の罰を受け、教会共同体から排斥されていました。そしてあなたが悪魔に取り憑かれると言われていた人は、自分がその通りだと思い込まされて、失望に陥らされ、村社会から完全に排除されていました。
 悪魔に取り憑かれた者と扱われたイエスは、同じように差別されていた人々の側に立ち、彼らに希望を与え、自信を取り戻し、社会共同体への復帰に努めていました。全ての人は、考え方が合わない人でも、生きる権利があり、兄弟姉妹の一人であります。イエスはその人たちと付き合い、病気を癒し、安心させ、彼の中に聖霊が宿っていることを一貫して主張しています。 
 もちろん悪霊や悪魔が存在しないとイエスが言っているわけではありません。聖書は一貫して創世記から黙示録まで、悪魔の存在をはっきりと認めています。私たちの力を超えている悪の力は聖書の中で、サタンとか、ベルゼブルとか、ルシファーとか色々な名前で呼ばれています。悪魔が人間の心を迷わせて、傲慢、暴力、貪欲を掻き立てて誘惑に誘い込みます。今世界中に起こっている戦争はこうした悪魔の働きであって、社会を動かす大きな勢力です。しかし悪魔の存在をどこにもみることはいけません。昔のヨロッパの親は手に負えないわがままの子供を叱るつもりで、あなたのこころに悪魔が宿っていると平気で言っていたが、こうした脅しは絶対してはいけません。イエスは一度もあなたは悪魔だと、人を脅したことはありません。イエスのメッセージは脅しではなく、希望と信頼のメッセージです。イエスは全ての人の中に神の姿があり、悪に勝つ聖霊の働きを信じなさいと繰り返し言っています。どんなに堕落したように見えても人は誰でも神様に愛され、声をかけられ、神の交わりに招かれています。そのことを忘れ、教会は狭い村社会のようになってしまえば、噂、嫉妬、差別の言葉が生じがちです。私たちの教会共同体はそうならないように注意し、皆がイエスの兄弟、姉妹、母といった家族であり、互いに悪ではなく聖霊の働きによって動かされています。これを信じて、皆が安心して豊かな共同体になれるように祈りたいと思います。

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